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10月, 2015の投稿を表示しています

TWEET「BABY IN CAR」

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ご近所の家の車に、「BABY IN CAR」と書かれたステッカーが貼られていました。「ああ、お孫さんが生まれたんだな」と思いながら眺めていました。 以前、こんなステッカーが貼られている車を見たことがあります。 サンマの「脂がのっています」の季節ですね。 小津安二郎監督、笠智衆さん主演の「秋刀魚の味」を思い出しました。小津安二郎監督の遺作となった作品です。「小津特集」に、銀座・並木座に何日か通いました。学生時代、あれは秋の頃のことだったのでしょうか。

三遊亭金馬「釣りには師匠をとれ」

三遊亭金馬『江戸前の釣り』中公文庫 釣りには師匠をとれ、という諺がある。自分一人で何年釣っていても、参考にはなるが釣技は向上しない。よい例が、ハゼ釣りの乗合舟に乗って、うまい人の隣にすわり、仕かけ、釣り方を見ていると、感心させられてよい参考になる。(190頁)  何人かが並んで竿を出している際に、そのうちの一人の釣果が、他を圧倒していることがあります。そんなときには、私は躊躇なく、その人のところにお伺いをたてに行きます。 釣れるには釣れる理由があります。たいていの場合には、どんな質問にも答えてくれます。そんなときの釣り人の口は軽く、饒舌です。ときには一人私ばかりが、魚とのやりとりに忙しいことがあります。魚を取りこむ際には、魚は暴れ水面をたたきますので、周囲の目がいっせいにこちらに集まります。気恥ずかしく、遠慮がちに、魚を手元に寄せます。「訊きにくれば、答えますよ」とは思うものの、それ以上のことはできるはずもなく、しかし、その場に子どもが居合わせているときには話は別で、教えに出かける こともあります。  地元を流れる豊川河口での夏ハゼ釣りやウナギ釣り、手長エビすき・ 手長エビ 釣りでは、近所のお年寄りの方たちから、釣りの手ほどきにはじまって、餌取り、時季、時合い、潮時、ポイント、料理法、はては、釣りや釣具の、また川の変遷にいたるまで、ずいぶんとたくさんのことを教えてもらいました。この地に特有なものもあれば、その人の工夫であることもありました。シジミ取りにしても熟練のその手業はみごとです。毎年 季節が到来すると、それぞれが自慢の道具仕立てで川岸にやってきて、思い思いの釣りを楽しんでいました。勝手知ったる人たちばかりでしたので、ワイワイガヤガヤと、にぎやかな釣りでした。そこに子どもの姿がないのをいつも残念に思っていました。しかし、寄る年波は容赦なく、今では私だけが、ただ一人とり残される格好になってしまいました。この地に生まれ、この地を流れる川で何十年となく釣りを楽しまれた、先輩釣り師の方たちの創意や工夫を、遺された言葉を、川への思いを、私は誰に語り継いでいけばいいのか。季節季節にその季節に見合った釣りを一人楽しんでいれば、いつか適当な誰かが現れないとも限りません。今シーズン川には、キャスティングの練習に行っただけでした。地元を流れる川には、地元の川でしか味わえな

須賀敦子「遠い霧の匂い」についての記述です。その六

須賀敦子「遠い霧の匂い」(全文) 平易な日本語、感情の表出に着目 して、作品を読み直してみました。 「楽しかった」という感情表現が一度使われている以外には、須賀敦子さんの感情の表出を表す言葉はどこにも見当たりませんでした。そして、全文は平易な日本語で書かれています。直截的に喜怒哀楽を表現することによって、作品を規定してしまうのではなく、それらを行間に託し読者にあずけることによって、作品は深みのあるものになっているのだと思います。谷崎潤一郎のいう「含蓄」です。感受することにおいては、読者のそれは言葉をはるかに上回りますし、読者が何を考え何を思うかは、個々人の感性にしたがえばそれがすべてです。 須賀敦子さんは『遠い朝の本たち』ちくま文庫 の中で、  「ここまで書いてきて、思いがけなくもうひとつの考えが浮かんだ。アン・リンドバーグのエッセイに自分があれほど惹かれたのは、もしかすると彼女があの文章そのもの、あるいはその中で表現しようとしていた思考それ自体が、自分にとっておどろくほど均質と思えたからではないか。だから、あの快さがあったのではないか。やがて自分がものを書くときは、こんなふうにまやかしのない言葉の束を通して自分の周囲を表現できるようになるといい、そういったつよいあこがれのようなものが、あのとき私の中で生まれたような気もする。もちろん、それをそれとしてはまったく気づいていなかったし、そのまま学校の作文につなげて考えるには、教室は、あまりにも読書のよろこびや書くことの愉しさから隔離された場所だった。作文の時間というのが、私にはひどく面映ゆく、数学とは違った種類の苦しみだった。」(107-108頁) と書かれています。 「中学生になったばかりの」頃の回想です。 狐『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』ちくま文庫 「いきなり現れ、去った文学者の残したもの」(104-105頁)  十年前の一九九0年、須賀敦子という聞き覚えのない著者が出したエッセー集『ミラノ 霧の風景』(白水社)を読んだ者は、だれもが目をみはらされた。どうやら処女出版らしい。しかしすでに作家の確信ともいうべき力が文章の内にこもっている。イタリアという異邦の風土をめぐる思いが、書き手の内部ですっかり熟成しているのを感じさせられる。つまり私たちの前

須賀敦子「遠い霧の匂い」についての記述です。その五

「狐」さんが「神品」とまで賞賛された作品を、なぜ今まで読まないままにやり過ごしてきたのか不思議な気がしています。 須賀敦子「遠い霧の匂い」(全文) つい今しがた読み終えました。三度目です。前回読んだのはちょうど一月前のことでした。回を重ね、作品の味わいが少しずつわかるようになってきました。「狐」さんが評した「神品」、へのとらわれから、解き放たれたことも要因の一つだと思っています。 以下は、この作品の最後の場面についての記述です。感想ではなく、書評でもなく、一記述です。私に書評が書けるはずもなく、下手な感想文は、不用意な言葉は、須賀敦子さんの失礼になるだけです。それくらいのわきまえは、私も持ちあわせています。 夜 友人を迎えに来る約束になっていた、友人の弟さんのテミが、いつまでたっても現れず、翌日の新聞で、霧に起因するグライダーの墜落事故で、テミの生存の可能性がないことを知るまで過程を、須賀敦子さんは平易な言葉を連ね、よけいなおしゃべりはいっさいせず、 事実関係を時系列に並べ、 たんたんと述べていらっしゃいます。そこには感情の表出を表す言葉は一つも見られません。そして、それは掉尾の一文へとつながっていきます。ここでも難しい言葉は使われていません。平易な言葉で書かれています。もちろん感情の表出もありません。 それにしても、読後のこの感触は、いったい どこに起因するものなのでしょうか。 須賀敦子『須賀敦子全集 第1巻』河出文庫 須賀敦子「遠い霧の匂い」ブログ

「薄明時」

 朝な夕なの薄明時を、釣り人たちはまずめ時と称し、魚の食いがたつ時間として大切にしています。まずめ時には風がおさまり、水面が静まりかえることが多く、不思議に思っています。  かわたれ時は、風景が一日のうちで最も静かなたたずまいを見せる時間です。日の出 三十分ほど前の時間帯です。不用意な私の動きが、波紋となって広がり、静寂を乱してしまいそうな気がして、私は静物となって、 みじろぎもせず、行方を見守っています。釣りは一時(いっとき)の間おあずけです。かわたれ時には釣りは目的ではなく手段と化します。  たそがれ時は、かわたれ時とはまた趣を異にしています。たそがれ時の薄明には、いまだ昼のざわめきがあり、ざわつきが残っています。闇が準備され、星々の用意が進む静寂への序章であり、静粛な風景へのプロローグです。私の釣りの最盛期です。一匹を、そして次の一匹を求めて、忙しく動き回ります。たそがれ時が過ぎ、あたりが闇に包まれたころ、スローな釣りに切りかえます。モノクロームの世界に影をひそめて、ひとりを楽しみます。

「雪降る丑三時の、大江健三郎さんと武満徹さんの奇想天外」(音声ファイル)

大江健三郎『 時代と小説、信仰を持たない者の祈り』新潮カセット講演 武満徹さんのことを書いていて、大江健三郎さんの講演を思い出しました。雪降る丑三時の、大江健三郎さんと武満徹さんの奇想天外、 のことです。どうしてこんな下世話なことばかりを覚えていて、肝心の講演の内容のこと は忘れているのでしょうか。我ながらあきれています。1988/07/03 に発行されたものです。ノーベル文学賞を受賞される以前の講演です。大江健三郎さんの朴訥とした語り口が、心にしみわたります。CD化されていないようです。CD化を切に希望いたします。その際には廉価でお願いいたします。「新潮CD 講演」はいずれもいずれも高すぎます。 雪降る丑三時の、大江健三郎さんと武満徹さんの奇想天外」 (音声ファイ ル)

「CALCUTTA CONQUEST 50 修理完了」

CALCUTTA CONQUEST 50 の修理が完了した旨のお電話を、イシグロ 豊川アクロス店さんからいただき、早速受け取りに行ってきました。その際にはAvail さんのスプールと HEDGEHOG STUDIO さんのボールベアリングを用意していきました。 ◇Microcast Spool CNQ5016BL ◇かっ飛びチューニングキット 1030AIR BFS そして、ミスタードーナツさんで早速組みかえ、クルクルして遊んできました。息をふきかえしま した。良好な仕上がり具合です 。 修理報告書には、 お客様取り付けの他社製ベアリ ングが赤色のカラーから外れ、本体内部に欠落しておりましたので、内部よりベアリングの除去及び、同送の純正ベアリングに交換させて頂きましたので、ご確認の程よろしくお願い致します。 と記載されていました。 やはり想像していた通りでした。 「CALCUTTA CONQUEST 50 修理依頼」 他の部品に損傷はなかったようです。他の部品の破損を考えていましたので修理をお願いしたのですが、これしきのことでしたら他人の手をわずらわせるまでもなく、自分で解決できたと思っています。今後に生かします。2600円+消費税 でした。ただ、ボールベアリングを固定していた ストッパーリングがどこにも見あたらず、修理報告書にも何の記載もなく、その行方が心配です。もし本体の内部にあるとすれば、いずれ悪さをすることは目に見えています。三週間ほど時間がかかるとのことでしたが、早くて驚いています。さらに驚いたことには、修理完了日を記す欄には  2015/10/21 の日付があり、修理をお願いした翌々日には修理が完了しており、修理完了後 私の手元に届くまでに一週間かかったという計算になります。うちうちの事情は何も存じませんが、私には不思議に思えてなりません。 何はさておき、どうもありがとうございました。現役復帰です。メンテナンスをして来シーズンに備えます。

「決定権の付与」

中二生の塾生は、目下 女の子二人だけです。今後入塾の希望があった際の、入れる入れないの決定を彼女たちに一任しました。二人はとても仲がよく、三人目、四人目の子を私が不用意に引きう けた結果、人間関係がややこしくなると、本人たちにとってはもちろんのこと、私自身がやりにくくなります。複雑な人間関係の渦中で心をすり減らすのはもうご免です。既に一人の女の子の入塾を断ったそうです。そして、昨夜は、「Aちゃんのことは好きだけど、Aちゃんには勉強できるようになってほしくないから断わる」と言っていました。過去には「Bとは友達だけど、Bとはいっしょに勉強はしたくない」と言っていた女の子がいました。今は塾選びに「人間関係」が最優先される時代です。特に少人数制の当塾では、それが顕著に認められ、最初にあまり評判のよくない子が入塾してきた場合には、二人目以降の塾生を望むことはできません。子どもたちの評判の良し悪しが、あらかじめ私にわかるはずもなく、運を天に任せるしかありません。自助努力といった要素の入りこむすき間はありません。手のほどこしようのない、過酷な現場です。

須賀敦子「翻訳という世にも愉楽にみちたゲーム」その三

一語一語に目配りし、気を配り、一言一句 を丁寧に丁寧にひもとき、日本語に置きかえていく翻訳という読書は、同じ「精読」という範疇に属する読書法の中でも、その最たるものだと思います。お気に入りの作家のお気に入りの作品を微に入り細にわたって味わい尽くすわけですから、そこに自ずから「愉楽」が生まれることは容易に想像がつきます。翻訳には、原文に添ってという制約こそありますが、その後は翻訳者の裁量如何であって、翻訳者の表現の自由は、その制約をはるかに超えるものです。 主導権は翻訳者の手にあって、 翻訳者の如何が作品の出来を決めるのであって、そこにはゲーム性が認められます。そして何よりも、お気に入りの作家のお気に入りの作品を翻訳することによって、日本の読者のもとに届けたい、日本の読者と感動を分かち合いたい、感動を分かち合えると、想像しただけでも、翻訳という読書は、じゅうぶんに「愉楽にみち」たものになり得るのだと思います。 翻訳とは無縁の世界にいる私が、想像して書いたものです。何かありましたら、そのときにはまた手を加えたいと思っています。 須賀敦子『ミラノ 霧の風景』白水uブックス

須賀敦子「翻訳という世にも愉楽にみちたゲーム」その二

大学二年時の英語の講義のテキストは 、 George Robert Gissing『 The Private Papers of Henry Ryecroft』でした 。一般教養の英語のテキストとしては大分なものでした。ギッシングの「 ヘンリ・ライクロフトの私記」は平井正穂さんの翻訳で岩波文庫にありましたので、こんなにありがたいことはありませんでした。 ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』岩波文庫 Amazon さんの内容説明には「 繊美この上ない自然描写」という言葉が使われていますが、ギッシングの 「 繊美この上ない自然描写」に適当な日本語をあてることができるはずもなく、前・後期の試験前には、 平井正穂さんの訳をただただ感心して見入っていました。貴重な時間でした。日本語訳が文学の体裁をとるまでの長い道のりを思いました。翻訳の世界を垣間見た気がしました。

須賀敦子「翻訳という世にも愉楽にみちたゲーム」その一

 本があったから、私はこれらのページを埋めることができた。夜、寝つくまえにふと読んだ本、研究のために少し苦労して読んだ本、亡くなった人といっしょに読みながらそれぞれの言葉の世界をたしかめあった本。翻訳という世にも愉楽にみちたゲームの過程で知り合った本。それらをとおして、私は自分が愛したイタリアを振り返ってみた。 須賀敦子さんは、自著  須賀敦子『ミラノ 霧の風景』白水uブックス   の「あとがき」に「翻訳という世にも愉楽にみちたゲーム」と書かれています。以来、ずっとこの言葉が、気になっています。 翻訳には当然原書があり、そこから逸脱することは許されないことを、決められたルールの下で行われるゲームに見立てて、須賀敦子さんはこう表現されたのでしょうか。一定のルールに従いさえすれば、あとは自由です。自分の裁量で動くことができます。 学生時代に、『ソクラテスの弁明』を新調文庫版で読みはじめ、そのあまりにも難解な、日本語の体をなしていない日本語に音をあげて放りだし、久保勉さんが翻訳された岩波文庫で読んだことがあります。これも学生時代のことですが、当時読売新聞社から出版されていた エリザベス キューブラー・ロスの『 死ぬ瞬間』を読んだときにも同じような経験をしました。『死ぬ瞬間』に関してはその十数年後に 鈴木晶さんの翻訳で中央公論社から出版され立ち読みしましたが、時すでに遅く、当時は日本語もどきの日本語で我慢して読むしかありませんでした。翻訳の功罪ということを思うと同時に、また原書で読めない自分を悲しく思いました。生半可な翻訳は、作者にとっても読者にとっても迷惑この上ない話です。 大学二年時の英語の講義のテキストは 、 George Robert Gissing『 The Private Papers of Henry Ryecroft』でした 。 一般教養の英語のテキストとしては大分なものでした。ギッシングの「 ヘンリ・ライクロフトの私記」は平井正穂さんの翻訳で岩波文庫にありましたので、こんなにありがたいことはありませんでした。 ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』岩波文庫

TWEET アナウンス「随筆」

「TWEET(小鳥のさえずり)」のラベルを付すには、違和感を覚えるブログが出てきましたので、「随筆」のラベルを新たに加えることにしました。ラベルの数が多くなり、ラベルを付す際に迷うこともしばしばありますが、とりあえず付けておけば、横断的に検索をする場合に役に立つだろうとの思いから、一つの文章に幾つかのラベルをつけることも珍しいことではありません。今の時代の整理法は「分類しないこと」、だそうですが、私の分類癖は如何ともしがたく、いまだにいくつもの階層にわたってフォルダーを作り続けています。分類しないことに恐怖感があります。いつまでたっても時代遅れなことを言い、時代遅れなことをし続けています。

TWEET「ブラックバス_ターンオーバー」

 秋から冬へと向かう間(かん)に、主に野池などの止水域で、外気によって冷やされ、比重の重くなった表層の水と、温かく比重の軽い深層の水が入れかわることを、ターンオーバーといいます。私は、琵琶湖の小さな漁港で、偶然にもターンオーバーを目にしたことがあります。漁港のあちこちで音をたて、深層の濁った水がゴミとともに浮かびあがってきました。小さな漁港は、たちまちのうちのゴミだらけになってしまいました。酸素が欠乏し、ブラックバスは食い気をなくし、ルアーを追わなくなります。これでシーズンは終わりです。ターンオーバーは、晩秋から初冬にかけての、私の、切実な意味合いをもった季語です。

「温度を運ぶ」

 夏、 Mac とともに店内で長逗留を決めこみ、帰宅しいざバッグの中に手を入れると、冷んやりとした空気を感じた。Mac は適当な温度に冷やされていて気持ちがよかった。マウスを手にしても USBフラッシュ・メモリーに触れても、同じ感触がえられた。バッグが、Mac が、そして店内で活躍したもののすべてが、店内の冷気の運び屋となっていた。  昨夜の Mac には温もりがあった。放熱が原因かとも思ったが、他の運び屋たちにも同じ温もりを感じた。温度の運び屋たちの間違いのない仕事ぶりに感心した。  晩秋の深更ちかくのことだった 。

TWEET「Amazon カスタマーレビューへの初投稿」

試みに、Amazon さんのカスタマーレビューに投稿してみました。早速お礼のメールが届きました。さすが、手ぬかりはありませんね。「数百万人というお客様方」に喜んでいただくために、投稿したわけではありません。動機はいたって不純です。悪しからず!! Amazon の翼 武満徹ポップ・ソングスをレビューしていただきありがとうございます 本多勇夫様、ありがとうございます   お客様の最新のカスタマーレビューが Amazon に掲載されました。この商品に関するご経験を掲載していただいたことで、当社並びに Amazon でショッピングする数百万人というお客様方が大変喜んでおります。    2015/10/25   武満徹さんの四つ詞によせて 私は、今ではもう、武満徹さんの書かれた四つの詞を詩として、純粋な言語作品として読むことができなくなってしまっています。曲を伴った形でしか読めなくなってしまっていますので、「武満徹さんの四つの「曲をまとった詞」によせて」ということにさせていただきます。  三つの詩には、悩ミ、苦シミ、悲しみ、悲シミ、という言葉が出てきます。涙、は二回出てきます。武満徹さんの書く「悩ミ」は、すでに昇華された「悩ミ」であって、それは内容を伴った「悩ミ」ではなく、実態のない、どこまでも明るく透きとおった「悩ミ」です。それは、苦シミ、悲しみ、悲シミ、の三..

武満徹「◯と△の歌」_武満徹さんの四つの詞によせて その三

河合隼雄さんは、『子どもの本を読む』岩波現代文庫 のなかで、長新太さんの絵本『つみつみニャー』あかね書房 について以下のように書かれています。 本当に考えてみると、三角と円とは実に根源的な形で、この二つを組み合わすとどんなものにでもなると言いたい位である。あるいは、現実をデフォルメして根源的な形を求めていったら、円と三角になるのかもしれない。このあたりは画家としての長新太の面目がよく出ているし、その発想が奇想天外であるが、いい加減でないことを示しているとも考えられる。有名な禅僧の仙崖の筆で、円と四角と三角とを描いて、世界と名づけたのがあったことも思い出す。 武満徹さんの書かれた詞のタイトルを、『◯と△の歌』から、『つみつみニャー』に変えても十分にイケそうな気がしています。『◯と△の歌』は、それほどまでに「奇想天外」であり、「根源的」な歌です。 長新太『つみつみニャー』あかね書房 河合隼雄『子どもの本を読む』岩波現代文庫 河合隼雄が読み解く 長新太『つみつみニャー』あかね書房 その三

『翼 武満徹ポップ・ソングス』_武満徹さんの四つの詞によせて その二

武満徹「翼 武満徹ポップ・ソングス」あとがき きっと多くの方が、なぜクラシックの、しかもこむずかしい現代音楽を書いている作曲家がこんなアルバムを作ったりするのか、不思議に思われただろう。  『翼』といううたにも書いたように、私にとってこうした營爲(いとなみ)は、「自由」への査証を得るためのもので、精神を固く閉ざされたものにせず、いつも柔軟で開かれたものにしておきたいという希(ねが)いに他ならない。 注文した『翼 武満徹ポップ・ソングス』が手元に届き、「あとがき」を読んだときには、少なからぬ驚きがありました。というのも、私は、「『翼 武満徹ポップ・ソングス』_武満徹さんの四つの詞によせて 」に、 武満徹という「空っぽ」な人が書いた「空っぽ」な詞、私はこんな風に、武満徹さんご自身と武満徹さんが書かれた四つの詞を受け止めています。 と書いたからです。武満徹さんにとって「自由」とは、もはや実態のない抜け殻としての言葉であって、ご自身は「自由」でもなければ「不自由」でもないといった境地に遊ばれているような印象を当時もっていました。武満徹さんが書かれた「あとがき」とは、だいぶ趣を異にしています。  それでもなお、このような澄みわたった「空っぽ」な詞は、「空っぽ」な、あるいは、「空っぽ」にごくちかしい人の仕業だとしか私には思えません。  「こうした營爲(いとなみ)」が、「「自由」への査証を得る」ことにつながる、こういった人がいることに私は、新鮮な驚きを、また感動を覚えます。 石川セリ「翼 武満徹ポップ・ソングス」DENON

『翼 武満徹ポップ・ソングス』_武満徹さんの四つの詞によせて

私は、今ではもう、武満徹さんの書かれた 四つの詞を詩として、純粋な言語作品として読むことができなくなってしまっています。曲を伴った形でしか読めなくなってしまっていますので、「武満徹さんの四つの「曲をまとった詞」によせて」ということにさせていただきます。  二つの詞には、悩ミ、苦シミ、悲しみ、悲シミ、という言葉が出てきます。涙、は二回出てきます。武満徹さんの書く「悩ミ」は、すでに昇華された「悩ミ」であって、それは内容を伴った「悩ミ」ではなく、実態のない、どこかつきぬけたところの感じられる透明度のある「悩ミ」です。それは、苦シミ、悲しみ、悲シミ、の三つのどの言葉についても言えることです。武満徹さんは、もはや、悩ミ、苦シミ、悲しみ、悲シミ、といった世界の住人ではなく、遠いはるか彼方からこの世界を見つめていらっしゃるような気がしてます。それは詞を書くための単なるスタンスやポーズではないような気がしてなりません。  『翼』には、夢、希望、自由という言葉が見られます。武満徹さんの手にかかると、夢、希望、自由、といった言葉さえ、昇華され実態を失くしてしまいます。「悩ミ、苦シミ、悲しみ、悲シミ」が昇華され実態を失くしたわけですから、彼岸から見たとき、「夢、希望、自由」が 昇華され実態を失くすのは、至極当然のことです。  武満徹という「空っぽ」な人が書いた「空っぽ」な詩、私はこんな風に、武満徹さんご自身と武満徹さんが書かれた四つの詩を受け止めています。 石川セリ「翼 武満徹ポップ・ソングス」DENON 「『翼 武満徹ポップ・ソングス』_武満徹さんの四つの詞によせて その二」 に続きます。

TWEET「推敲 その三」

「ロングテールに位置する過去のブログが、毎日いくつか読まれています。この閲覧数1のブログは、前述した通り、なぜか私の思い入れのある文章であることが多く驚いています。そして、この閲覧数1のブログを最優先にして推敲しています。」 昨日は、閲覧数1のブログが多く、その推敲に時間を費やしました。読み返せば恥ずかしいことかぎりなく、穴があったら…の心境です。メモ書きから構想、下書きから推敲にいたるまで、すべてをブログ上でやっているわけですから、当然といえば当然のことかもしれません。舞台裏が見え隠れするままに公開してしまっています。下書きは下書きとして、別のところで行えばいいのですが、そうすると時間ばかりがかかり、自己主張が追いついていきません。いつもいつも、いつまでたっても、一つ悩みの周辺を堂々巡りしています。

武満徹「翼 武満徹ポップ・ソングス」あとがき

石川セリ「翼 武満徹ポップ・ソングス」DENON    以前、偶々、石川セリの昔のアルバムを聴いて、自分が少しずつ、機(おり)にふれて書き溜めて来た小さな歌を、彼女にうたってもらって、なにか楽しいアルバムをつくってみたいな、と空想したことがあった。  コロムビアの川口 さんの提案で、思いがけなくも、私の夢は実現することになった。  大衆歌謡(ポピュラー・ソング)としてはいかにも不器用で面白味に欠けるうたかもしれないが、編曲者の方々の今日的感覚(センス)が、それぞれのうたの特徴を生かして、面白いものに仕上げてくださった。  心からお礼申しあげたい。  きっと多くの方が、なぜクラシックの、しかもこむずかしい現代音楽を書いている作曲家がこんなアルバムを作ったりするのか、不思議に思われただろう。  『翼』といううたにも書いたように、私にとってこうした營爲(いとなみ)は、「自由」への査証を得るためのもので、精神を固く閉ざされたものにせず、いつも柔軟で開かれたものにしておきたいという希(ねが)いに他ならない。 (後略)

TWEET「時候」

ふと、「時候」という言葉が頭に浮かびました。「時候」を表す言葉を大切にしたいな、と思っています。

TWEET「吹きだまり」

北風が吹くと、駐車場をはさんで、我が家の裏手に位置するKさんのお宅の玄関先が、吹きだまりになります。我が家の二階から眺めると、枯れ葉はKさん宅の玄関先をゴールと定め、一斉にゴールを目指しているかのように、みごとにKさん宅の玄関先に集まっていきます。豊麻神社のお社の裏手の木々の葉の、ほとんどすべてが、Kさんのお宅の玄関先を目指しているのですから、風のいたずらにしては少しいたずらが過ぎているようにも思えます。最盛期には、ゴミ袋を三つも四つもゴミステーションに提げていく家人の姿が見られます。 今日は朝から強い北風 が吹いています。木枯らし一号と呼ぶにはまだ早いのでしょうか。 Kさんのお宅の玄関先は、枯れ葉で埋(うず)もれています。今秋はじめて気がつきました。いよいよ受難の季節の幕開けです。冬仕度を急ぐ季節の到来です。

シリーズ授業「正直者は馬鹿をみる!?」

「塾・ひのくるま」のHPを書く際に、【月額授業料】を下記の表のように定めました。迷ったあげくのすえ、昨年度までの授業料から、中一,二生は2000円、中三生は3000円 値上げするという暴挙(?)にでました。中二から中三へ進級した際のいきなりの5000円増は、いかにも受験生を抱えている親の足元を見ているようでイヤな感じがしましたが、「どうせ誰も見ないんだからまあいいか」、その時はその時で、と思い載せることにしました。ほどなくして中二生の子どものお父さんからお電話があり、その際には授業料を聞かれましたので、なんとお答えしようかと迷いつつ、いつまでも躊躇しているわけにもいかず、ウェブサイトに載せた額面通り 、18000円ですとお答えしました。そして先日、中二生の授業で、授業料に関する内情のすべてをお話しすると、「わぁひどい」とか「来月から値下げして」とか、「来年は20000円にして」とかいった、予想以上の反響がありました。親思いのお子様方です。そのときには「保留」とホワイトボードに書き、この話を打ち切りました。その後、熟考・熟慮の末、来年度の中三生の授業料を21000円にすることに決めましました。あわせて、HP上の金額はいじらずに現行のままにしておくことにも決めました。やはり、いつの時代にも正直者は馬鹿をみることに決まっているようです。 【月額授業料】     学 年         月額授業料 中学校1年生 18,000円[税込] 中学校2年生 18,000円[税込] 中学校3年生 23,000円[税込]

TWEET「衝動買いするなら…」

アクロス豊川さん内には、私をその気にさせる罠が張りめぐらされています。釣り具のイシグロさんの店内は言うにおよばず、フィットハウスさんのショーウィンドウに並べられたバッグの数々、サーフショップ B-tribe さんの窓ごしに見える、どこそこにセンスのよさを感じさせる品々。夜な夜な見続けているといつのまにか刷り込まれ、つい手をのばしたくなってしまいます。が、後々 後悔しない衝動買いは、登山用品専門店のモンタニアさんでするに限ります。高い授業料を払い続けたすえにたどりついた私なりの結論です。

TWEET「ミスド」さんでの夜な夜な

今、ミスタードーナツ・アクロス豊川店内で、これを書いています。今月に入ってはじめての来店です。エアコンからの風が、いつしか冷たい から暖かいにかわり、めぐる季節を感じています。釣りに現を抜かした夜な夜なが、「ミスド」さんでの夜な夜なにとってかわります。 気をはりつめて集中していた秋の夜長が、根をつめ頭を抱える秋の夜長にかわります。

ブラックバス「コンストレーション」

ブラックバス「コンストレーション」 2015/10/24 バス釣りに連夜通いつめ、突然の幕切れを経験したことが過去に二回あります。そして今回が三度目になります。Rapala での釣りに熱をあげていた頃、池に立ち込み遠投してようやく釣れるようになった矢先、そして今回。サッカー界で、「sudden death」という言葉が使われなくなって久しくなりますが、不謹慎なことは承知のうえで、あえて言わせてもらうならば、三試合連続しての「sudden death」での負けを喫した選手のような気持ちがしています。今回に限っては、何かあるのかな、何があるのかな、と思いそれなりの心づもりはしていたものの、いざ突然にゲームの終了を告げるホイッスルを耳にすると、まさかの三度目だけに驚愕して言葉もありませんでした。背後にある何かの存在を疑いたくもなります。今回の事故(?)は、今月の一日から三週間あまりにわたって釣りに現を抜かしている間に、さまざまなことがコンステレート(布置)された結果の、あげくの果ての必然だったのでしょうか。北の夜空の天体ショーを眺めながら、コンストレーションという言葉を思いつつ釣りをしていました。そして、今思えば、前回も前々回も北の夜空を望みながらの釣りでした。

TWEET「ないよりはあった方が断然マシです」

石川セリ「翼 武満徹ポップ・ソングス」DENON 石川セリ「翼 武満徹ポップ・ソングス」DENON が届きました。本体は誰かの手に渡り、焼かれたCDだけが手元にあります。歌詞と武満徹さんの書かれた文章が読みたくて注文しました。散逸してしまったあれも これもが、悔やまれてなりません。 インターネット上で見つけた詞と武満徹さんが書かれた詞 の間には、少なからぬ相違があり訂正しました。今回に限られたことではありませんが、「こんなものでしょ」というのが率直な感想です。が、ないよりはあった方が断然マシです。

「霜降の日に思う」

今日は、霜降る日です。当地では木々の葉が色づきはじめたばかりで、まだ実感がともないませんが、「霜降」の時節をとうにやり過ごし、真冬の候を迎えている地方もかなりの数に上ることと思っています。 P池の池干しが確定したことで、お祭りさわぎの熱狂から覚め、祭りの後のさびしさにひたっています。さびしさにひたるだけひたって、次なる一歩を踏みだそうと思っています。が、今しばらく時間がかかりそうです。 P池の行方を見届けながら、P池に続く秋の湿原を、秋に彩られた低山をトレッキングしようかとも考えています。歩くことによって景色がかわって見えるかもしれません。低山とはいえ山頂に立つことによって、新たな視界が開けるかもしれません。

橋本敬三 操体「快の向かうところ」その三

私は、立っているときの、また椅子にかけている際の子どもたちの姿、特に脚や足の置き方を面白く観ています。時にはそれをまねしてみることもあります。すると、体が今 何を窮屈に感じ、どうして欲しがっているのかがよくわかります。 ごく稀なことですが、痛みを訴える子どもの、その痛みに対処するために、操体を試みることがあります。そんなとき荒療治からはじめることもあります。仰臥位で両膝をそろえて立てた子どもの、膝の裏を探ると、大小の別はありますが、ほとんどの場合、シコリが認められます。そのシコリを強くあるいはそっと圧します。すると子どもは体をクネらせて痛がります。そのときに見せた体の行方が、今まさに体が「快」と感じている方向であり、「治癒」の方向です。その方向を見極めたいがためにあえて荒療治をするまでのことです。この痛みをともなう荒療治を繰り返せば、生体の歪みは自ずと正され、痛みは消えるはずです。痛みをともなう施術での治癒の原理です。体が欲する「快」の方向にさからう動きを故意にさせ、その際に生じる痛みによる反射運動を利用して治療しているのです。そんなバカげた話はありませんので、私はその後 操体を試みます。「快の向かうところ」にしたがいます。 橋本敬三「からだの設計にミスはない―操体の原理」たにぐち書店 橋本敬三『 生体の歪みを正す 橋本敬三論想集』 創元社

橋本敬三 操体「快の向かうところ」その二

橋本敬三 操体「快の向かうところ」その二 寝相もそれなんですね。体重力を利用して、骨格の凹凸を調節するのである。それも無意識で、潜在意識が自然療能をやってくれているのである。(橋本敬三『 生体の歪みを正す 橋本敬三論想集』 創元社 106-107頁) 骨格、体勢の観察をもっと深めてゆくなら、疾病との関連をもっと突きとめられると思う。(橋本敬三『 生体の歪みを正す 橋本敬三論想集』 創元社 107頁) 寝相といっても一概にバカにできないし、もっと素直に、自然の秘密と、その由って来たる理由を、聞く耳と眼をもちたいと思う。(橋本敬三『 生体の歪みを正す 橋本敬三論想集』 創元社 108頁) 無意識のうちの立ち居ふるまいは、「快の向かうところ」であり、治癒の方向であることを知った意義は私にとって大きなものでした。 「全国操体バランス運動研究会 京都大会」の帰路、偶然にも乗り合わせた電車内では、京都大学の槌田勘先生(「作文・小論文の文例集 /「小論文」に関する参考書 並びに参考図書のご紹介」の頁でご紹介してあります『地球をこわさない生き方の本』岩波ジュニア新書 の著者です。)とお話をする機会にも恵まれました。「操体の考え方は、生きる上での哲学にもつながりますね」(「快を生きる」ことだと自分なりに解釈しております)と仰られた槌田勘先生の言葉は今でもはっきりと記憶しています。 「塾・ひのくるま」 橋本敬三「からだの設計にミスはない―操体の原理」たにぐち書店 橋本敬三『 生体の歪みを正す 橋本敬三論想集』 創元社

橋本敬三 操体「快の向かうところ」その一

橋本敬三 操体「快の向かうところ」その一 昔からマンウォッチングが好きでした。学生時代には、文学部のキャンパスのスロープの端に腰かけて、目の前を行き交う学生たちをマンウォッチすることを「オカッパチ」と呼んでいました。「岡目八目」のことです。誰が言いはじめ、どういう経緯で言い習わされるようになったのかは定かではありませんが、言い得て妙な言葉です。 goo辞書には、 岡目八目 意味 事の当事者よりも、第三者のほうが情勢や利害得失などを正しく判断できること。囲碁から出た語。碁をわきから見ていると、実際に打っている人よりも、八目も先まで手を見越すという意から。▽「岡目」は他人がしていることをわきで見ていること。「目」は碁盤の目の意。「岡」は「傍」とも書く。 と、書かれています。 デズモンド・モリス『マンウォッチング - 人間の行動学』小学館  を読んだのも学生時代のことでした。 私のマンウォッチングの内容が、質が、体に対する見方が、考え方が、橋本敬三先生の書かれた操体の本を読んだ前後を境にしてガラリと変わりました。 橋本敬三「からだの設計にミスはない―操体の原理」たにぐち書店 橋本敬三『 生体の歪みを正す 橋本敬三論想集』 創元社

ブラックバス「P池の池干しに寄せて」

ブラックバス「P池の池干しに寄せて」 2015/10/23 四年前の池干しに際しては、 ~お知らせ~ 外来魚駆除及び清掃を目的として池の水を抜いています。ご協力をお願いします。 ~お知らせ~ 外来魚駆除及び清掃を11月13日(日)に行なう予定です。 の、二つの掲示がありましたが、今回は何の予告も前触れもなくいきなりの池干しです。 水位が60~70cm下がり、水面はオオカナダモにおおいつくされ、いつものシャローエリアは底の土があらわになっていました。PONY GABOT や PIVOT でのカバーゲームは問題なく成立しそうですが、P池のバスは小さく、小さなバスが果たして食ってくるのか、またうまくハリにのるのかという疑問がわいてきます。バスの身になって考えると呑気に釣り糸を垂れる気にはとてもなれず、P池に何度か足を運び、池干しの様子を見届け、このまま納竿、となるような気がしてなりません。 正義を振りかざされてものを言われては何の反論もできませんが、P池は人工のため池であり、やれ外来魚だ、やれ環境問題だと目くじらをたてて大騒ぎをしなくてもいいような気がしてなりません。いかがなものなのでしょうか。 冬を越すために飛来したばかりの四羽のカイツブリの行方が気になります。

ブラックバス_号外「P池、四年ぶりの池干しです。悪夢の再来です」

ブラックバス_号外「P池、四年ぶりの池干しです。悪夢の再来です」 2015/10/23 取り急ぎまして、ご報告まで。 P池が干されていることが判明しました。池干しです。 関係者の方の口から直接おうかがいしました。 P池の排水口の様子を、じっとうかがっていた関係者とみられる方に 「池を干しているんですか」 と訊くと 「はい、そうです。はーい」 とのご返事が返ってきました。 一縷の望みも泡と消え…。P池は四年ぶりの池干しの憂き目にあっています。バスたちの 心中を察すると、やりきれなさばかりがつのります。 To be continued.

「インフルエンザ予防接種予診票」

インフルエンザの予防接種では、不愉快な思いをさせられることが多く、うんざりしています。 父が入院中のある年には、予防接種の当日に父または私が書く欄に、看護士さんがよさそうに記入して、予防接種の数日前に病室に来られ、署名するように言われましたので、それはできないことを告げました。いくら言葉を尽くしても若い看護士さんには理解していただけず、「皆さんにはそうしていただいています」と繰り返すばかりでした。いい加減に嫌気がさした私は、「もし父に何かあった場合には、すべての責任はあなたにとっていただきますから」と告げ、署名しました。ほどなくして婦長さんが謝罪にみえ、最後に、「若い看護士が育ちませんから、おかしいと思われることは何でもおっしゃってください」と言い置きをして病室を出ていかれました。 昨日は昨日で、医師の診察後に父または私が書く項目に、受付を通る際に記入するように言われましたので、順序が違うのでそれはできない旨を告げました。毎年繰り返されるこの手のことにうんざりしながらも、昨日はそれ以上のことには発展せず胸をなでおろしました。ところが、驚くべきことに、診察後には医師の一存で予診票のすべてが適当にあしらわれて落着してしまったために、診察後に父や私が予診票を目にすることはありませんでした。何かあった場合には、予診票に書かれた筆跡が異なりますので、「まあいいか」と思い、異議を唱えることもなく、予防接種をしていただきました。 医療関係者の方々は、もし何かあった場合のことを考えないのでしょうか、怖くはないのでしょうか。何かあったからこそインフルエンザの予防接種は任意となり、国がガイドラインを示すことにつながった、その経緯をいったいどう受け止めているのでしょうか。手間のかかること、時間のかかることはしたくない、やりたくない気持ちもわからないわけではありませんが、この手間のかかることをしてはじめて患者さんの安全が守られるわけですから、決められたことを決められた通りに順を追って実行していただきたいと思っています。毎年毎年、行く先々の病院で、良識を疑いたくなります。来年こそは、と信じています。

「ブラックバス_’15 秋季シリーズ 第十六戦 その後 その四」

「ブラックバス_’15 秋季シリーズ 第十六戦 その後 その四」 2015/10/23 昨夜は所用があり出発が遅れ、20:30 過ぎに家を出ました。もちろん ◆F5-510Xti GO TEN EVOLUTION ◆09 RYOGA 1016HL 18LB ナイロンライン を携えてのお出かけです。 寄り道をし、そして、向かった先のタックルベリー こむかい店さんで、 ◇PIVOT のメガバス・キンクロ・カラー に目移りをし、いったんは諦めた、MEGABASS の ◇PONY GABOT ALBINO FROGカラー を買ってしまいました。PONY GABOT をひっさげて、MacDonald's 23号新栄店さんへ行きました。そしてそこで、PONY GABOT を矯めつ眇めつ、とくと拝見させていただきました。あごを突き出した横顔は、少し気負った表情のカエルそのものです。正面からは、目を伏せたとぼけた表情をしたカエルに見えます。本体は想像していた以上に柔らかく柔軟性に富んだ素材からできています。スカート部はさらっとした仕上がり具合で、まとわりついたり、からみあったり、お互いに干渉することなく気持ちよく投げられそうです。 その後、Amazon さんに CDJ-7 PW を返送する必要がありましたので、コンビニに行きました。用を足すと結構な時間になりましたので、釣行を諦め、後日に期することにしました。明日 明るい時間帯にP池の様子をうかがいに行こうと思いながら、帰宅しました。

「ブラックバス_THE TACKLE FOR THE FROG GAME」

「ブラックバス_THE TACKLE FOR THE FROG GAME」 2015/10/23 ◆F5-510Xti GO TEN EVOLUTION は、取り回しのいい長さのロッドです。ピッチング時にも重宝します。グリップを握ってロッドを振ったくらいではティップはピクリともしませんが、いざ魚がかかるときれいなベンディングカーブを描きます。立ち込んで、重さのあるラバージグやスピナーベイトを投げる際にも使用しています。安心してバスとのやり取りができます。 ◆09 RYOGA 1016HL は、一見しただけで剛性の高さが見てとれるベイトリールです。遠投時にも使っています。パワフルで信頼のおける、頼りになる一台です。 ◇PIVOT のメガバス・キンクロ・カラー ◇PONY GABOT ALBINO FROGカラー は、買ったばかりの未使用のカバー、ヘビーカバー用のルアーです。期待の新人です。 

TWEET「超大国 ロシア連邦の躍進です」

Blogger の 「統計」の細分化された一項目である、「国別ビュー」のサイトを久しぶり開く と、ロシアの在住の方たちの閲覧が三日前に突如はじまり、その後 ロシアの在住の方々の 閲覧数が急増したことに驚いています。それにともって、Windows での閲覧も急増しました。これは偶然にサイトを見つけたという数字ではありません。今後の行方を見守りたいと 思っています。

TWEET「推敲 その二」

以下、TWEET「推敲 」に書いた文章です。 これが353個目のブログです。書きかけのまま放置してある文章もありますし、日をおいて読み直すとアラばかりが目につき、手を入れなければならない文章や、日本語として破綻している文章もたくさんあると思っています。最初から順を追ってすべて、というわけにはいきませんので、閲覧された文章から随時推敲していきたいと思っています。 これが537つ目のブログです。 ロングテールに位置する過去のブログが、毎日いくつか読まれています。この閲覧数1のブログは、前述した通り、なぜか私の思い入れのある文章であることが多く、驚いています。そして、この 閲覧数1のブログを最優先にして推敲しています。読み返すたびに、いつも恥ずかしい 思いをしています。内容にまで手を入れることはまずありませんが、推敲の必要な個所はいくつも出てきます。寝かせておく時間の圧倒的な不足が原因だと思っています。一方で、推敲はキリのない作業であることもまた事実で、その辺りの兼ね合いをどう考えるのか、ということだと思っています。 まずは書きたいことを連ねよう と思っています。 その場その時には、一応の答えを出して公開に踏み切っているわけですから、あとは後で考えるしかありません。足踏みをしていて前に進まないよりはマシかなと思っています。自己主張が先、正確さは後。それでヨシにさせていただきます。