大岡信「言葉の力」(全)
大岡信「言葉の力」
2015/09/02
人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとはかぎらない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。
京都の嵯峨に住む染色家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは、淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、華やかでしかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。
「この色は何から取り出したんですか。」
「桜からです。」
と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。志村さんは続けてこう教えてくれた。この桜色は、一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな、上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。
私はその話を聞いて、体が一瞬揺らぐような不思議な感じに襲われた。春先、もうまもなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裏に揺らめいたからである。花びらのピンクは、幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものにすぎなかった。
考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことない活動の精髄が、春という時期に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。しかし我々の限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。
このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は、桜の花びら一枚一枚だと言っていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかしほんとうは全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。
光村図書『国語 2』(213-216頁)
出典『ことばの力」の一部に、筆者が加筆したもの。
大岡信「言葉の力」_雑感
2015/09/02
「言葉の力」は、光村図書が出版している中学校二年生の国語の教科書に載っている大岡さんの作品です。中学生の教科書とはいえ侮れません。残念なことに「言葉の力」は教科書の後ろの方に載っているために、「時間切れ」で、授業で取り上げられることはほとんどありません。授業中に一度読むだけでいいのですが…。もったいない話です。星野道夫さんの「アラスカとの出会い」も同じ扱いです。学校とは不可解なところだ、とつくづく思います。
2015/09/02
つい先だって、
「学校とは不可解なところだ、とつくづく思います」
と書いたばかりですが…。
以下は、群馬県水上の藤原中学校の高野先生と12名の2年生の生徒さんたちと志村ふくみさんとの心温まる交流を描いた文章です。クリックしてぜひご覧になってください。
学校とはこんな風でもあり得るんですね。すてきです。
こんな展開をみせるとは思いもよりませんでした。「期待は裏切られるためにある」ことを実感しました。