小林秀雄「中原中也の思い出」

「中原中也の思い出」
小林秀雄『人生について』中公文庫
 「中原に最後に会ったのは、狂死する数日前であった」(74頁)とは、凄絶な一文である。

   汚れつちまつた悲しみに
   今日も小雪の降りかかる
   汚れつちまつた悲しみに
   今日も風さへ吹きすぎる

 中原の心の中には、実に深い悲しみがあって、それは彼自身の手にも余るものであったと私は思っている。彼の驚くべき詩人たる天資も、これを手なずけるに足りなかった。彼はそれを「三つの時に見た、稚厠(おかは)の浅瀬を動く蛔虫(むし)」と言ってみたり、「十二の冬に見た港の汽笛の湯気」と言ってみたり、果ては、「ホラホラ、これが僕の骨だ」と突き付けてみたりしたが駄目だった。言い様のない悲しみが果しなくあった。私はそんな風に思う。彼はこの不安をよく知っていた。それが彼の本質的な抒情詩の全骨格をなす。彼は、自己を防禦する術をまるで知らなかった。世間を渡るとは、一種の自己隠蔽術に他ならないのだが、彼には自分の一番秘密なものを人々と分ちたい要求だけが強かった。その不可能と愚かさを聡明な彼はよく知っていたが、どうにもならぬ力が彼を押していたのだと思う。
(中略)
汚れっちまった悲しみに…これが、彼の変らぬ詩の動機だ、終りのない畳句(ルフラン)だ」(74-75頁)

「詩もとうとう救う事が出来なかった彼の悲しみを想うとは。それは確かに在ったのだ。彼を閉じ込めた得態の知れぬ悲しみが。彼は、それをひたすら告白によって汲み尽くそうと悩んだが、告白するとは、新しい悲しみを作り出す事に他ならなかったのである。彼は自分の告白の中に閉じこめられ、どうしても出口を見附けることが出来なかった。彼を本当に閉じ込めている外界という実在にめぐり遭う事が出来なかった」(76頁)


 「彼を本当に閉じ込めている外界という実在にめぐり遭う事が出来なかった」とは、人やもの、こととの関係を著しく欠いていたということであろう。身体の感覚が怪しく、たゆたうような人生を送ったことがうかがえる。時に救いの対象ともなる「外界という実在」と没交渉のままに、心の内奥に巣くった「汚れつちまつた悲しみ」と対峙し続けた生涯。
 「驚くべき詩人たる天資も」「手なずけるに足りなかった」「得態の知れぬ悲しみ」を、目の前にさし出されると、いたたまれなくなる。
 三十歳という若さで、この世を去った中原中也は、夭折だったのか、生を全うしたのか。神の計らいに間違いはなかったものと信じている。

小林秀雄は、掉尾に、
「私には、彼の最も美しい遺品に思われるのだが」
と述べ、「一つのメルヘン」を揚(あ)げている。

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。

陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……
(76-78頁)