投稿

3月, 2016の投稿を表示しています

「iPhone SE がお目見えしましたね」その一

家電量販店で、今日発売された iPhone SE を見てきました。 キーワードは、 「伝統美」 そして、 「SIMフリー化時代のお手ごろなお値段」 です。 ほんの短時間垣間見ただけの私の印象です。 To be continued.

「明日はエイプリルフールですね」

明日は、エイプリルフールですね。エイプリルフールから、新年度がはじまるのは意味深長です。 下記、ウィキペディアより、 エイプリルフール です。 エイプリルフール( 英語 : April Fools' Day )とは、毎年 4月1日 には 嘘 をついてもよい、という風習のことである。4月1日の正午までに限るとも言い伝えられている [1][2] 。英語の"April Fool"は、4月1日に騙された人を指す。 エイプリルフールは、 日本語 では直訳で「 四月 馬鹿 」 [3] 、 漢語 的表現では「万愚節」または「愚人節」、 フランス語 では「プワソン・ダヴリル」( Poisson d'avril, 四月の魚)と呼ばれる。

六日遅れの「春分の日に思う」

三月二十日から数え、六日遅れの「春分の日に思う」です。 ご無沙汰のしっぱなしで申し訳なく思っております。 寝たり起きたりして過ごしていた 、このひと月あまりのブランクは予想外に大きく 、生活全般、またブログに関しましても、メールにしましても、問題が山積しており困惑しております。 平癒しつつあります。今はこれといった受診するほどの症状もなく、リハリビ中です。なにをするにつけても億劫で、根気がなく、疲れてすぐに横になってしまいます。 生活にリズム感がありません、というよりも、今までどのように過ごしていたのかを思い出すことができません。 出直します。 一定の 回復を待って、「地下足袋で歩きながら、つらつらと」考えた、よしなしごとを書き留めようと思っています。その前哨戦として、「釣り道具」と戯れようかとも考えています。私の作業療法です。池では春の訪れを敏感に感じとっているお魚さんたちが待っています。「地下足袋をはいた漁師さん 」も一興かなとも思っています。 下記、2016/03/23 に、P教授よりいただきましたメールのさわりの部分 です。 「今年から、丸儲けぞよ、娑婆遊び」 「リミターを外して、異次元の世界へ」 ぜひ、ご一緒させてください!お供します!!「遊鬼」と化しましょう!!! お便り、どうもありがとうございました。 では、では。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

バーンスタイン「田園」

レナード・バーンスタイン「ベートーヴェン:交響曲第6番『田園』、第8番」 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ユニバーサル ミュージック クラシック 「究極の指揮者はふらない」ということで、バーンスタイン「田園」を買いました。言葉に頼らざるをえない自分を情けなく思っていますが、紛れもない事実ですので、受け容れるしかありません。 茂木健一郎 / 江村哲二『音楽を「考える」』ちくまプリマー新書 江村 音楽の世界なら、バーンスタインが言っているけれども「自分が指揮者になれるか、自分に指揮者の能力があるかどうか、など考えたこともなかった。ただただ音楽が好きで好きで仕方なくて音楽をやっていた」と。実際にウィーン・フィルのコントラバス奏者から聞いたのですが、バーンスタインの振る指揮棒は、全然テクニックがないらしい。でもそれでいいんだと言う。「テクニックなんて全く持ってない。ただハートがすばらしい。あの人が来るだけで、あのハートに酔っちゃうんだ」と言っていました。 茂木 バーンスタインについては同じような話を僕も聞いたことがある。前に立つだけで音楽が変わっちゃうって言いますね。 江村 あの人が出てくると棒なんてものは、はっきり言っていらないんだって(笑)。 茂木 江村さんのご友人の大野和士さんも、先日私が司会をしているNHKの番組( 『プロフェッショナル 仕事の流儀』)に出られたときに、「最後は指揮者は振らなくていいんだ。究極は、じいっと彫像のようにそこにいるだけで音楽が変わるということが指揮者の理想なんだ」と言っていました。 Amazon より 商品の説明 メディア掲載レビューほか バーンスタイン指揮、ウィーン・フィルハーモニーによる、牧歌的な楽想が横溢し自然に対する讃美と伸びやかな感情に彩られた、標題音楽的な書法による巧みな描写が印象的なヒューマニズム溢れる《田園》と、愛らしいユーモアさえ感じさせる、古典的で小規模な第8番を収録。 (C)RS トップカスタマーレビュー 5つ星のうち 5.0 モダンオケのすばらしさ・・・ 投稿者 ルネ 投稿日 2013/10/7  往時に大絶賛されていた全集のこの曲も8番とカップリングでこの値段ですか、いい時代になったものです。  それはさておき、この演

長田弘「再読は友情の証」

長田弘「再読は友情の証」 長田弘『読書からはじまる』日本放送出版協会

小林秀雄「学問をしたいというのは、人間の本能ですからな」(音声ファイル)

 まあ、学問をしたいというのは、人間の本能ですからな。学問をしたいのが本能じゃなくなったのは現代ぐらいのもんです。(会場笑)。今は、ただ黙っていたって教えてくれるのだから、学問への欲望がなくなるのですよ。昔は黙っていたら教えてもらえないし、学問の機会もなかなかなかった。子どもの頃に、人生とは何ぞやなんて疑問が起こっても、誰も教えてくれないから、これは非常に熱烈なものになるのです。だから、京都のどこかにそれを教えてくれる人が出たとなれば、千里を遠しとせず、学びに行く。豆の袋を背負って、豆ばかり食べながら仁斎の講義を聞いたという人がいます。なにしろ面白いことが聞けるんだから、食うものは豆で充分なのです。仁斎の塾はそういう塾だった。  仁斎というのは、ご存知のように、その頃のアカデミーの学問に大反対をした学者です。つまり、学問をするから百姓がうまくいく、それが学問というものだろうと言った。いくら学問をしたって百姓の仕事に何の足しにもならん、町人の仕事にも何の足しにもならん。そんな幕府の学問というのは学問ではないと言い放った人です。学問とは、人間がどうやって生活したらいいか、その根本を教えるものだ。そういう学問なら、百姓にでも町人にでも役立つはずだな。 小林秀雄『学生との対話』国民文化研究会・新潮社編 (75-76頁) 「小林秀雄はかくも親切で、熱く、面白く、分かりやすかった!」 ぜひ小林秀雄さんの声をお聴きください。 ◇相当箇所は15:38 からです。 小林秀雄「学問をする面白さは女遊びどころじゃない」(Google ドライブ 音声ファイル) 小林秀雄「学問をする面白さは女遊びどころじゃない」(iCloud Drive 音声ファイル)

小林秀雄「直覚と分析」

小林秀雄『学生との対話』国民文化研究会・新潮社編 「小林秀雄はかくも親切で、熱く、面白く、分かりやすかった!」  両方使えばいい。直覚も分析も使えばいいのです。ベルグソンの分析というのはきわめて鋭いですよ。あなたがお読みになっても、そう思うでしょ?直覚したところを分析するんです。けれど、分析したところは直覚にはならない、とベルグソンは言っているだけです。逆は真ではないと言っているだけです。分析から直覚に行く道はない。でも、直覚から分析に行く道はあるんです。科学者も実はそれをやっているのです。  科学者の実際の仕事を見れば、僕らの知っている科学などというものは、これはもう子どもです。彼らの仕事そのものの中に入ってみますと、やはり立派な科学者は非常な直覚力を持っています。 (中略)  そんなふうに直覚から分析に行く道はあるけれども、分析からは先がないとベルグソンは言っているだけで、分析を決して軽蔑しているわけではない。分析がなければ、科学なんてありません。哲学もありません。というのは、概念というものに頼らずには、人間は論理的に話すことができないんです。ただ、直覚というものがなければ分析は始まらないとベルグソンは言っただけなんです。 (80-81頁)

「弥勒菩薩 京都 廣隆寺」

もう十回にもなろうかと思います。廣隆寺を拝観すれば、その逗留時間はいつも長く、弥勒菩薩の御前にしつらえられた長椅子に腰を下ろし、居眠りをすることも珍しいことではありません。安らけく寝ませていただくために訪れているのかもしれません。 菊池正浩「取材ノート 悩む『美しい青年』」 「なぜ、これほどまでに魅力的なのか」(46頁) NHK取材班『NHK 国宝への旅〈1〉』NHK放送出版協会  広隆寺の弥勒菩薩は、もともと専門家のあいだでは、“仏像鑑賞第一課”とよばれていたときく。それほど多くの人々が、この仏像をきっかけとして仏像の魅力にとりつかれ、多くの仏像を鑑賞しては、また、この仏像にまいもどってくるということをしめしているのだろう。 (中略)  仏師は、造形を探り、哲学者は、ことばを選ぶ。戦後、ここを訪れたドイツの哲学者のヤスパースのことば。  「この広隆寺の仏像には、本当に完成され切った人間実存の最高の理念が、あますところなく表現されています。それは、この地上におけるすべての時間的なるものの束縛を超えて達し得た、人間存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠な姿の表徴であると思います」   仏師の西村公朝さんは、次のような分析をしている。 「身体の不均衡的な弱さに対し、明るい笑みをたたえた顔の表情に特殊な魅力があり、しかも胴部の角柱に近い大きな面取りによる立体感や、ギリシャ鼻風に通る鼻筋などには、われわれをして近代彫刻を想わしめるような美的効果のあること」  哲学者がこの仏像に“人間実存の最高の理念の表現”をみ、仏師は“近代彫刻を想わしめるような美”をみるところに、この仏像が永遠の生命をもって人々に働きかける秘密の一つが隠されているようである。

「佐鳴予備校 愛知県公立高校入試解答速報 ワンポイント分析を読んで」

各教科とも、 「出題傾向は例年と大きな変化はありませんでした」 「出題傾向に大きな変化は見られませんでした」 という講評が記されています。 来年度から実施される新入試制度の前哨戦として、何らかの手の内を見せてくれるものと期待していましたが、Bグループ入試ではそれはなかったようですね。受験生にとっては、新入試制度の行方はどうでもいいことで、手の内云々は迷惑千万なだけのお話ですよね。 問題を解く気力も体力もなく、受験生がいないことをいいことに、「ワンポイント分析」を読んだだけの状態ですので、何も言うことはできませんが、後三日ですべてが終わりますよね。楽になりますね。もうひと頑張りに期待しています。 以下、ご参考まで。 Aグループ入試の出題予想も書き込まれています。 佐鳴予備校「2016入試解答速報」

「気がつけば季節はめぐり」

テスト週間中の 02/14 の午後、中学生の歌う変調を極めた歌に、午睡から覚め、それが病因かどうか 、私の体までもが変調をきたしはじめ、すっかりおかしくなってしまいました。以来、寝たり起きたりの生活が続き 、一時(いっとき)は回復したものの、入浴と散髪がたたり、 03/04 の午後から再び体調をくずし、この週末は前後不覚で、床に臥せっていました。睡眠中にも、体は休むことなく、平衡を取りもどすために頑張っていてくれたことを思うと、手を合わせたくなります。前後不覚の睡眠によって、エネルギーの消費を極力抑えていてくれたのかもしれません。昨日からは、ようやく回復の兆しがみえはじめ、ほっとしています。 痛いのかゆいのといっている間に、いろいろなことが足早に通りすぎ、はっきりとした自覚もないままに、気がつけば季節はめぐり、日中は暖房を入れずに窓を開けて過ごす時間が増え、 晴天も長くは続かず雨の降る日も増えてきました。春の予兆です。ずいぶんと日も長くなり、本格的な春の訪れを感じています。 食をほとんど口にしていないのと、脱水症状で、日ごと断食道場に通っているような状況です。体内はすっかり洗われ、きれいなことこの上なく、と勝手に決めこんでいます。父はしきりに受診を勧めますが、体の欲していることには、さからうことなく、すなおに従おうと決めています。

祈!ご健闘!!愛知県公立高入試

いよいよ明日からBグループ入試がはじまりますね。 いざ、出陣のときがせまってきま したね。 気合いを入れて! 自分を信じて!! 前だけを見て!!! 勝ちにいきましょう!!!! GOOD LUCK! FROM HONDA WITH THE BIGGEST LOVE.

「啓蟄の日に思う」

03/04 の午後から再び体調をくずし、昨日の啓蟄の日は前後不覚で、床に臥せっていました。啓蟄を過ぎたとは いえ、今しばらく冬ごもりの時節が続きそうです。まだまだ睡眠が必要なようです。失礼して寝ませていただくことにします。

慶祝!ご卒業!!

晴れの門出に、乾杯! ご卒業おめでとうございます。 「どこかで春が…♪♪♪」 もうひと頑張りに期待しています! ご家族の皆様方によろしくお伝えして下さい。 GOOD LUCK! FROM HONDA WITH LOVE. 晴れの門出に、乾杯! ご卒業おめでとうございます。 希望を胸に旅立ちの春ですね。 新天地でのご健康とご活躍をお祈りしています。 ご家族の皆様方によろしくお伝えして下さい。 とびっきりの笑顔でのまたのご来塾、楽しみにしています! GOOD LUCK! FROM HONDA WITH LOVE.

五木寛之講演「見て知りそ 知りてな見そ」

学生時代キャンパス内で、二年連続二回にわたって五木寛之さんの講演をお聴きする機会に恵まれました。 五木寛之さんは、その都度、 柳宗悦の、 「見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ」 についての お話しをされ、強く印象に残っています。 古典文法で「な〜そ」は禁止の意を表すことを、高校時代に教わった記憶があります。 下記、 「見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ」★「心偈(こころうた)」 さんのサイトからの 孫引きです。近日中に出典にあたりたいと思っています。 「見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ」は、 柳宗悦の『心偈(こころうた)』の中の言葉だと記されています 。『心偈』の「自偈自注」の中には、 「『ナ見ソ』とは『見るな』という否定語。ここで『見(けん)』といふのは、直觀の意味である。『知』といふのは概念のことである。先づ直觀を働かせて得たものを、後から概念で整理せよと云うものである。(中略)『知るより前に見よ』『知ることを先にして、見ることを後にしてはしけない』」 と、 書かれて いるとのことです。 小林秀雄さんの「直覚と分析」について思いをめぐらせています。次回は、「直覚と分析」です。 以下、 小林秀雄「直覚と分析」 です。 下記、余談 です。 講演で、「遊郭の話をしてもよろしいでしょうか」との五木寛之さんの事前の打診に対して、東大では「それは困ります」と丁重にお断りされたそうですが、早大では「結構です」との寛容なお答だったそうです。「人は信ずるに足る」という結構なお話でした。

小林秀雄「本当に、死が到来すれば、万事は休する。」

小林秀雄最後の対談「歴史について」考える人 2013年 05月号 新潮社 (32頁) 「繰り返して言おう。本当に、死が到来すれば、万事は休する。従って、われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。」 ー「本居宣長」より 昨年よりインターネット上で自己主張をはじめました。それからというもの、残された時間について、死について思うことが多くなりました。当年とって五十五歳。人生の折り返し地点をとうに過ぎ、少なからぬ危機感を抱いています。焦燥感にまとわりつかれています。身辺の整理を、優先順位をつける必要を感じています。

TWEET「校正」

卒塾生で、私大で 入試業務を担当している女の子がいます。来塾された折、校正について聞くと、 「大学案内の原稿には、四人の職員が目を通していますが、一年後に間違いに気づくこ ともあります。一番怖いのは、入学金や授業料などの数字の間違いです。」 と言っていました。 写真館にお勤めの女の子は、 「卒業アルバムの、個人写真の名前を間違えないように細心の注意をはらっています」 と話していました。 校正とは字面を追う作業ですので消耗します。 誤字脱字は、ハナからあきらめています。自分が書いた文章を、自分一人で校正するのはどだい無理なお話です。いたし方のないことです。誤字で最も多いのは漢字変換の誤りです。はじめに変換された漢字で確定してしまうことがままあります。直筆の文章ではありえないことです。 追記: 写真館にお勤めの女の子の、かぶれてかゆそうな手が気になりました。聞くと、着物を着つける際に、着物についたホコリが原因でかぶれます、とのことでした。介護士の女の子は、ゴム手袋に手を通す際に、手の滑りをよくするために、手袋の内側に塗布された粉末でかぶれます、と話していました。痛々しい手を目の当たりにして、かけてあげる言葉も見つからないままに、立ち尽くしていました。

「音は何をしても変わる」

音と は何をしても変わるものだそうですが、残念ながら、その微妙な違いを、私は聴き分けることができません。私の耳の問題であるとともに、音響機器に起因 する面も多分にあると思っています。音響機器が それなりの音を鳴らしてくれなければ、お手上げです。 デルタ社さんの、フルトヴェングラー「バイロイトの第9」が届きました。早速 聴き比べをしているのですが、多少の違いが感じられる程度です。一点の曇りなく晴れわたり、どこまでも清澄に、というわけではありません。もったいないお話です。しばらく聴き比べを続けるつもりです。音響機器に由来する 問題だと思っています。音に走りたくなります。今懸命にブレーキをかけています。

フルトヴェングラー「バイロイトの第9」マスタリングのことども。

下記のようなサイトがあります。貼りつけさせていただいたのは、はじめのごく一部です。信憑性、真偽のほど、出来不出来 、人の好悪の問題は、私には判断がつきかねますが、しかし、このような精巧で、精緻、精細な サイトが存在することに、私は新鮮な驚きをおぼえています。ぜひ一度ご覧になってみてください。居ながらにして、このような情報に接することができる時代はすてきです。 「演奏開始前のフルトヴェングラーの足音と拍手が入っているマスターを保有しているのは日本だけのようで,日本でしか発売されたことがないが,これが本番の演奏会の録音なのか疑問視する見方もある。」 「EMIから発売された『バイロイトの第9』はリハーサル音源を中心とした編集盤とみられる。」 こんな文章に接するとガッカリしてしまいます。贋作をつかまされたような気になります。由々しき問題です。「編集盤」ならば、明記されてしかるべきだと思います。それがせめてもの良心というものです。誠意というものです。後は聴き手が判断することです。 ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」(EMI録音) 1951年に再開されたバイロイト音楽祭でのライヴ録音。 フルトヴェングラーの全録音中随一の名演として聴き継がれてきたもの。 演奏開始前のフルトヴェングラーの足音と拍手が入っているマスターを保有しているのは日本だけのようで,日本でしか発売されたことがないが,これが本番の演奏会の録音なのか疑問視する見方もある。 ●この日の演奏会のライヴ録音はバイエルン放送にも保存されており,2007年7月に日本フルトヴェングラーセンターがCD頒布を行った。 ●EMI盤と,バイエルン放送音源とでは演奏の大半が異なっており,バイエルン放送音源の方は当日の演奏の本番テイクを収録しているとされていることから,EMIから発売された「バイロイトの第9」はリハーサル音源を中心とした編集盤とみられる。 ●演奏終了後の拍手にはいくつかのパターンがある。どれが演奏当日のオリジナルな拍手なのかは不明。 ・拍手無し ・最後の音の残響が消える辺りから拍手が始まり,最初はパラパラとしているのが徐々に強くなって,間もなくフェードアウトしながら9秒ほど収録されている(パターンLP1)。  ・最後の音の後,すぐに盛大な拍手が始まり,途中からフェードアウトしながら15秒

フルトヴェングラー「バイロイトの第9」1951年7月29日

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー「ベートーヴェン:交響曲第9番《合唱つき》[バイロイトの第9 / 第2世代復刻]」 1951年7月29日 delta classics  EMI盤でしか聴いたことがありません。今日中には手元に届きます。デルタ社さんの「バイロイトの第九」、とても楽しみにしています。   マスタリング、リマスタリングは、臆することなくいえば「記録芸術」です。いかに技術が長足の進歩を遂げようとも、ゆきつくところは人の感性であって、創造力です。 私には遠くおよびもつかない、かけ離れた世界のできごとです。   演奏の一回性ということを思います。後世に遺そうという企図は 作品を変えずにはおきません。まず、時が、ところが圧倒的に違います。これは、文化や自然全般についていえることです。本来の姿をそのままに遺すことは不可能です。人の手が加わります。後には擬似的なものが遺るだけです。自然は不自然なものになります。逆説めいた宿命です。 トップカスタマーレビュー 5つ星のうち 5.0 名演奏!!!名復刻!!! 投稿者 jimi-lee 投稿日 2007/1/28 形式: CD 素晴しい復刻である!!!  ここ数年バイロイトの板起しのリリースが続き、食傷ぎみではあったが、このディスクは素晴しい音質である。オーボエ・フルートなど高音部は伸びやかになり、コントラバス・ティンパニなど低音部は膨らまずに引き締まり、リアルで熱気を帯びた音がスピーカーから突き出して来る。  かと言って、変なデフォルメのない、自然でノーブルな美しい音色が聴かれる。  他社既発売のものに比べ、更についたてを一枚取りはずしたような、眼前に迫って来る音像となっている。まさに、オーケストラの直前で聴く臨場感がある。  元々音が良くないと思っていたバイロイトとは信じられない!!  また、デルタ独自のノイズ除去により、レコードのトレースの際の物理的雑音は驚異的な少なさである。また、その処理による音質への影響は全く感じられない。 (当然、聴衆の雑音は残っている、また咳などのリアルなこと・・・)  正規CD、レコードからの板起しにかかわらず、現在入手できるメディアの中で、トップクラスの音質である事は間違いない。  迷うことなく、当デ

フルトヴェングラー「第五交響曲」1947年5月27日

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー「ベートーヴェン:交響曲第5番」 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ユニバーサル ミュージック クラシック を購入し、聴いています。歓喜に満ちています。  聴くということと指揮をするということ、演奏を することの近さ に思いをいたしております。よく聴くということは至難であって、創造の世界です。マスタリング、リマスタリングの世界も然りだと思っております。 私には遠くおよびもつかない、かけ離れた世界のできごとです。   演奏の一回性ということを思います。後世に遺そうという企図は、かつて成功した試しがありません 。まず、聴き手が聴く、時が、空間が圧倒的に違います。これは、文化や自然一 般についてもいえることです。保存とは、人の手の入った擬似的な形を遺すことでしかありません。逆説めいた宿命です。 小林利之「フルトヴェングラーの『第5』録音」(ジャケットより)  1947年、ようやくベルリン・フィルハーモニーを指揮できる状況になり、5月25日から29日にかけて、前後4回の演奏会の指揮台にフルトヴェングラーは立つ事になった。廃墟のままのベルリン、戦後のおそろしいほどの衣食住の窮乏が続いていた時代である。1枚の入場券のために幾日も前から行列に並んだ人や、当時、貨幣なみに通用していた貴重な配給のコーヒーやタバコ、中には大切にしていた自分の靴を差し出す人もあったという。ティタニア・パラストの舞台に「フルトヴェングラーが現れると、ホールをうずめた2000の聴衆はまるで狂気にかられた様だった。立ち上がり、拍手し、大声で叫ぶ。オーケストラの楽員たちも起立した。ーー(中略)フルトヴェングラーは《エグモント》序曲、《田園交響曲》および、第5を演奏した。演奏が終わったとき、喝采は何時はてようともしなかった。もう聴衆はこのホールから出て行かないのか、と思われるほどの場面が長くつづいた」(クルト・リース『フルトヴェングラー、音楽と政治』より)。  このCDに聴く「第5」と《エグモント》序曲は、歴史的なフルトヴェングラーのベルリン・カムバック・コンサートの第3日目にあたる1947年5月27日の演奏である。 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー「ベートーヴェン:交響曲第5番」 5つ星のうち 5.0