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TWEET「ほんの手遊びとはいえ」

 過去3か月間に、 木坂 涼「魚(うお)と空」の閲覧が、5101 回あった。また、過去30日間に、 3049 回の閲覧があった。そして、いまもなお読まれ続けている。 2018/06/26 木坂 涼「魚(うお)と空」 光村図書出版『国語 1』(70-71頁) 急降下。 鳥が 翼(つばさ)で 海を打つ。 鳥は もう摑(つか)んでいる。 波は 海のやぶれ目を ごまかしている 魚は 海を脱(ぬ)けでる 初めて そして たった一度だけ。 空の高見(たかみ)で もうひとつの空へ のまれる  「海のやぶれ目」の意味が解らない子どもたちが結構います。「もうひとつの空」とは、「彼岸」という意味なのでしょうか。  釣り上げた「ちびっこ(ブラック)バス君」を宙づりにすると、「キョトンとした顔つき」をしてぶら下がっていることがあります。はじめてふれた世界に何が起きたのかわからないのでしょう。「ちびっ子バス君」たちにとっては、手荒い洗礼です。水面とは、水中と空中を分かつ一枚のフィルムです。釣りとは、一枚のフィルムをはさんでの攻防です。 2018/09/03 「詩一篇_木坂 涼『魚(うお)と空』の閲覧数について」  2018/06/26 に、手遊びに書いた、 詩一篇_木坂 涼「魚(うお)と空」 の閲覧数が 100を越え、意外に思っています。   光村図書出版『国語 1』からの引用です。中学生諸君の閲覧なのでしょうか。毎日のように 読まれています。 過去 閲覧数の最も 多いブログは、 「小林秀雄が解釈する、本居宣長『敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花』」(2017/04/02) で、 総閲覧総数 32348 と、他を圧倒している。第2位が急伸の、 詩一篇_木坂 涼「魚(うお)と空」( 2018/06/26) で、 総閲覧総数 9944 .。第3位が、 小林秀雄「中原中也の思い出」(2017/08/110) で、 総閲覧数 1859 。第4位が同じく小林秀雄の、 中原中也「ああ、ボーヨー、ボーヨー」(2017/08/11) で、 総閲覧数 1821  となっている。  閲覧数上位のブログを、つらつらと眺めていると、硬派なブログで占められていることが見て取れる。私のブログ中の “古典” である。  しかし、「 詩一篇_木坂 涼『魚(うお)と空』」だけは解せない。ほんの “ 手遊び ”...

木田元「小林秀雄の言語観」

木田元「小林秀雄の言語観」 第十二章 言葉について 木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』文藝新書 ランボオの「千里眼」  ランボオの言語観がそのまま小林秀雄のそれだということにはならないであろうが、その傾倒ぶりからすれば、いちおうそう考えておいてもよいのではなかろうか。(183頁)  然(しか)し、彼(ランボオ)自身が否定しようがしまいが、彼の「言葉の錬金術」からは、正銘の金が得られた。その昔、未だ海や山や草や木に、めいめいの精霊が棲んでいた時、恐らく彼等の動きに則(のっと)って、古代人達は、美しい強い呪文を製作したであろうが、ランボオの言葉は、彼等の言葉の色彩や重量にまで到達し、若(も)し見ようと努めさえするならば、僕らの世界の至る処に、原始性が持続している様を示す。僕等は、僕等の社会組織という文明の建築が、原始性という大海に浸っている様を見る。「古代の戯れの厳密な観察者」ーー厳密という言葉のマラルメ的意味を思いみるがよい。(同前(「全作品」15『モオツァルト』所収)、一三九ページ)(184-185頁) 『本居宣長』の「言霊」  小林秀雄は、最後の大仕事『本居宣長』においては、この「古代の戯れ」を「言霊(ことだま)」と呼んでいる。 (中略) ここでも、宣長の言語感と小林のそれとを区別する必要はあるまい。(187頁)  言語は、本質的に或る生きた一定の組織であり、この組織を信じ、組織の網の目と合体して生きる者にとっては、自由と制約との対立などないであろう。この事実を、彼(宣長)は、「いともあやしき言霊のさだまり」と言ったのだ……。(同前(「全作品」28『本居宣長(下)』所収「本居宣長補記 Ⅱ」、三0一ページ)  ランボオが「千里眼」によって透視しようとしていたものも、つまり「原始性」であり、「古代の戯れ」であり、言葉そのものの自己分節であり、自己組織化であるものがそのまま存在の自己分節になり自己組織化になるような、そうした「言葉の錬金術」と、宣長のいう「言霊の営み」とを、小林秀雄が重ね合わせて考えようとしていることは明らかであろう。  私にはこの小林の言語観と、先ほど見たハイデガーのそれとに深く通い合うものがあるように思えてならないのだ。(188-189頁)  木田元の手腕はみごとである。核心に分け入るものだった。  そして、井筒俊彦が、「存在はコトバである」と措...

小林秀雄「国語伝統の底流」

小林秀雄『本居宣長 (上)』新潮文庫 「宣長が注目したのは、国語伝統の流れであった。才学の程が、勅撰漢詩集で知られるという事になっては、和歌は、公認の教養資格の埒外(らちがい)に出ざるを得ない。極端な唐風模倣という、平安遷都とともに始まった朝廷の積極的な政策が、和歌を、才学と呼ばれる秩序の外に、はじき出した。しかし、意識的な文化の企画には、言わば文化地図の塗り替えは出来ても、文化の内面深く侵入し、これをどうこうする力はない。生きて行く文化自身の深部には、外部から強いられる、不都合な環境にも、敏感に反応して、これを処する道を開いて行く自発性が備っている。そういう、知的な意識には映じにくい、人々のおのずからな知慧が、人々の共有する国語伝統の強い底流を形成している。宣長はそう見ていた」(321-322頁) 「言語伝統は、 其処に、音を立てて流れているのだが、これを身体で感じ取っていながら、意識の上に、はっきり描き出す事が出来ずにいる。言語は言霊という自らの衝動を持ち、環境に出会い、自発的にこれに処している。事物に当って、己れを験し、事物に鍛えられて、己れの姿を形成しているものだ。」( 322頁) 「言霊」という言葉は万葉歌人によって、初めて使い出されたものだが、「言霊のさきはふ 国」とか、「言霊のたすくる国」とかいう風に使われているので明らかなように、母国の 言葉という意識、これに寄せる歌人の鋭敏な愛着、深い信頼の情から、先ずほころび出た言葉である事に、間違いない。」 ( 322頁) 「言語は、本質的に或る生きた一定の組織であり、この組織を信じ、組織の網の目と合体して生きる者にとっては、自由と制約との対立などないであろう。この事を、彼(宣長)は、「いともあやしき言霊のさだまり」と言ったのだが、この言語組織の構造に感嘆した同じ言葉は、その発展を云々する場合にも、言えた筈である。」 ( 323頁)  宣長の見識を、小林秀雄が 達意の文で綴った 。それは以下の、 レオ・ヴァイスゲルバーが命名した、 「言語共同体の法則」と同等の内容のものである。 若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 「レオ・ヴァイスゲルバーは井筒俊彦が深い関心を寄せた二十世紀ドイツの言語学者である」(222頁) 「ヴァイスゲルバーは、人間と母語の関係に着目する。母語が世界観の基盤を形成し、誰もこ...

「小林秀雄『本居宣長 (下)』_生死の問題」

  「小林秀雄『本居宣長 (下)』_生死の問題」 「私達は、史実という言葉を、史実であって伝説ではないという風に使うが、宣長は、「正実(マコ ト)」という言葉を、伝説の「正実(マコト)」という意味で使っていた(彼は、古伝説(イニシヘノツタヘゴト)とも古伝説(コデンセツ)とも書いている)。「紀」よりも、「記」の方が、何故、優れているかというと、「古事記伝」に書かれているように、ーー「此間(ココ)の古ヘノ伝へは然らず、誰云出(タガイヒイデ)し言ともなく、だゞいと上ツ代より、語り伝へ来つるまゝ」なるところにあるとしている。文字も書物もない、遠い昔から、長い年月、極めて多数の、尋常な生活人が、共同生活を営みつつ、誰言うとなく語り出し、語り合ううちに、誰もが美しいと感ずる神の歌や、誰もが真実と信ずる神の物語が生まれて来て、それが伝えられて来た。この、彼のいう「神代の古伝説」には、選録者は居たが、特定の作者はいなかったのである。宣長には、「世の識者(モノシリビト)」と言われるような、特殊な人々の意識的な工夫や考案を遥かに超えた、その民族的発想を疑うわけには参らなかったし、その「正実(マコト)」とは、其処に表現され、直かに感受出来る国民の心、更に言えば、これを領していた思想、信念の「正実(マコト)」に他ならなかったのである」(145頁)  最終章「五十」は、生死(しょうじ)の問題についての話題である。 「既記の如く、道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定(けつじょう)して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていたが、これに就いての、はっきりした啓示を、「神世七代」が終るに当って、彼は得たと言う。ーー「人は人事(ヒトノウへ)を以て神代を議(はか)るを、(中略)我は神代を以て人事(ヒトノウへ)を知れり」、ーーこの、宣長の古学の、非常に大事な考えは、此処の注釈のうちに語られている。そして、彼は、「奇(アヤ)しきかも、霊(クス)しきかも、妙(タヘ)なるかも、妙(タヘ)なるかも」と感嘆している。註解の上で、このように、心の動揺を露わにした強い言い方は、外には見られない。  宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だったわけだが、宗教を言えば、直ぐその...

小林秀雄「本居宣長の源氏物語論」

小林秀雄「本居宣長の源氏物語論」 小林秀雄『本居宣長 (上)』新潮文庫 「宣長が、思い切ってやってのけた事は、作者(紫式部)の「心中」に飛込み、作者の「心ばへ」を一たん内から摑んだら離さぬという、まことに端的な事だった。宣長は、「源氏」を精しく読もうとする自分の努力を、「源氏」を作り出そうとする作者の努力に重ね合わせて、作者と同じ向きに歩いた」(184頁)  また、小林秀雄の本居宣長に対する態度は、宣長の声に無心に耳を傾けることであった。そしてそれはそのまま、小林秀雄が、読者である私たちに付託した姿勢でもある。 「彼(本居宣長)の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。「此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるより外の儀なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし」(紫文要領、巻下)(153頁) 「生きた情(ココロ)の働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損なわず保持して行く事が難しいというところにある。難しいが、出来ることだ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである。彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝趣味の描写ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった」(154頁) 「彼(本居宣長)の言う「あはれ」とは広義の感情だが、なるほど、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かない、とは言えるが、説明や記述を受附けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」事、即ち「物のあはれを知る」事とを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。これに基いて、彼は光源氏を、「物のあはれを知る」という意味を宿した、完成された人間像と見たわけであり、この、言語による表現の在るがままの姿が、想像力の眼に直視されている以上、この像の裏側に、何か別...

「奈良大和路行_はじめに」

2023/06/05〜 2023/06/10  2023/06/10 未明に帰宅 七・七日忌法要 その後 会食 2023/06/11  忌明け( 16:35   )   2023/06/12〜 2023/06/19   2023/06/18 「瀧原宮」, 「瀧原 竝宮」, 「 伊勢神宮・外 宮」 「せんぐう館・奉納舞台」 伊藤華野「祈りの舞 インド古典の舞」奉納時間11時30分より 「神宮会館」 2023/06/19 「瀧原宮」, 「瀧原 竝宮」 ,「 伊勢神宮・ 内宮」 伊勢湾フェリー(鳥羽→伊良湖) 帰宅 2023/06/21 〜 2023/06/29 2023/06/26 Dちゃん、Kさんの結婚式  於 「ジャルダン・ドゥ・ボヌール」 大和西大寺駅 → 京都駅 →「栂尾 高山寺」 「高山寺 石水院」    2023/06/28 「大野寺」 「室生寺」 「本居宣長記念館(松阪)」 TWEET「一連の旅の終わりに」 今日の夕方、三重県松阪市の、 「本居宣長記念館」 を訪ねた。 「鈴屋(すずのや) 」は薄暗く、鎮まっていた。  いま 紀勢自動車道の奥伊勢 PA(下り)に いる。十三夜月(じゅうさんやづき)が山の端に沈もうとしている。  明日「瀧原宮」, 「瀧原 竝宮」, 「外宮」,「内宮」の順にお参りし、今回の一連の旅を終えることにする。 2023/06/29 「瀧原宮」, 「瀧原 竝宮」, 「 外宮」,「 内宮」 伊勢湾フェリー(鳥羽→伊良湖) 帰宅  往復の日数を含め、計23日にわたる参拝の道行だった。 「唐招提寺 / 薬師寺・東院堂・聖観世音菩薩像、東塔 / 興福寺・南円堂、国宝館 / 東大寺・法華堂、東大寺ミュージアム / 氷室神社 / 大野寺 / 室生寺」  この間(かん)ごく限られた寺社を何遍となく巡った。時を忘れ仰ぎ見ていると、細部が姿を現わす。全般を知るには自ら刻むほかないと思った。  以降 体が明るくなった。「眼耳鼻舌身意」が変われば、「色声香味触法」が変わる。  たとえばいま、 「 七種鈴 (松坂万古)」( 2021/10/19に、 「本居宣長記念館」 , 「ミュージアムショップ 鈴屋」 で購入)が、鮮やかな音を立てて鳴り響いている。かつてなかったことである。不思議では...

TWEET「一連の旅の終わりに」

今日の夕方、三重県松阪市にある、 「本居宣長記念館」 をたずねました。 「鈴屋(すずのや)」は鎮まっていました。  いま 紀勢自動車道」の奥伊勢 PA(下り)に います。十三夜月(じゅうさんやづき)が山の端に沈もうとしています。  明日「瀧原宮」 , 「外宮」,「内宮」の順にお参りし、今回の一連の旅を終えることにします。

TWEET「眠れぬ夜は」

 いま 忌明け後にやることを、忌明け前にやらされています。当地を離れるしかなく、そのタイミングを見計らっています。  あいにくにも台風 2号が近づきつつあり、また北朝鮮がミサイルを発射したらしく、この先の行方は不明です。 ◆ 青色の文字列にはリンクが張ってあります。クリック(タップ)してご覧ください。 小林秀雄「国語伝統の底流」

TWEET「病気療養中につき_39」

小林秀雄「もう終りにしたい 」 小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫 「考えをめぐらしていると、「歌の事」という具象概念は、詮ずるところ、「道の事」という抽象概念に転ずると説く理論家宣長ではなく、「歌の事」から「道の事」へ、極めて自然に移行した芸術家宣長の仕事の仕振りに、これ亦極めて自然に誘われる。『直毘霊(ナホビノミタマ)(古道論)』の仕上りが、あたかも「古典(フルキフミ)」に現れた神々の「御所為(ミシワザ)」をモデルにした画家の優れたデッサンの如きものと見えて来る。「古事記」を注釈するとは、モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを、画家の眼は追い、これを鉛筆の握られたその手が追うという事になる。言わば、「歌の事」が担った色彩が昇華して、軽やかに走る描線となって、私達の知覚に直かに訴える。私は、思い附きの喩(たとえ)を弄するのではない。寛政十年、「古事記伝」が完成した時に詠まれた歌の意(ココロ)を、有りのままに述べているまでだ。ーー   「九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題 披書視古    古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし」(325-326頁) 「概念」を極端に悪んだ宣長にとって、「『歌の事』という具象概念」から「『道の事』という抽象概念」へという飛躍は、及びもつかないことだった。 「歌の事」のことを「熟視」することによって、いつしかそれらは純化され、宣長はそこに、自ずからなる「道の事」をみた。  ここに、四十四巻から成る、三十五年の歳月を費やし、意を尽くした、『古事記伝』の完成をみた。 『本居宣長』の掉尾には、 「もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頼りだからだ。」(253頁) との記述があり、また、「本居宣長補記」の末尾には、 「もうお終いにする。」(368頁) の一文が見受けられる。  これらは小林秀雄の、精一杯の尽力後の、ため息混じりの言葉であろう。

TWEET「病気療養中につき_33」

本居宣長「息を殺して、神の物語に聞き入る」 小林秀雄『本居宣長 (下)』 「新潮文庫 「彼(本居宣長)にとって、本文の註釈とは、本文をよく知る為の準備としての、分析的知識ではなかった。そのようなものでは決してなかった。先ず本文がそっくり信じられていないところに、どんな註釈も不可能な筈であるという、略言すれば、本文のないところに註釈はないという、極めて単純な、普通の註釈家の眼にはとまらぬ程単純な、事実が持つ奥行とでも呼ぶべきものに、ただそういうものだけに、彼の関心は集中されていた。神代の伝説に見えたるがままを信ずる、その信ずる心が己れを反省する、それがそのまま註釈の形を取る、するとこの註釈が、信ずる心を新たにし、それが、又新しい註釈を生む。彼は、そういう一種無心な反復を、集中された関心のうちにあって行う他、何も願いはしなかった。この、欠けているものは何一つない、充実した実戦のうちに、研究が、おのずから熟するのを待った。そのような、言わば、息を殺して、神の物語に聞入れば足りるとした、宣長の態度からすれば、真淵の仕事には、まるで逆な眼の使い方、様々ないらざる気遣いがあった、とも言えるだろう」(197-198頁)  宣長にとって「神代の伝説」をよく知ることと、信仰の境地が深まることは同時進行だった。それは宣長にとって切実な問題であり、喜びでもあった。 「之を好み信じ楽しむ(好信楽) 」とは、宣長の学問に対する生涯変わらぬ態度だった。 「無心」とは「無私な心」と言い換えることができよう。 「小林秀雄」には、皆さん興味がないらしく、閲覧数が驚異的に少なくなり、すてきです。しかし私にとっては、「病気療養中」に「小林秀雄」の文章に触れることは、至福の時、自足の時間となっている。  今日、「佐井皮フ科」さんに行った。後遺症の帯状疱疹後神経痛が治るには、6か月かかるかもしれませんね、 梅雨時には痛くてつらいですよと、佐井先生にいわれました。  微熱が続いているため、叔父にさんざんいわれ、明日は、「杉浦内科」さんを受診する予定です。 「病気療養中につき」から、いつ解放されるのか、刺激的で、興味は尽きません。

TWEET「病気療養中につき_28」

 通読することを旨 とする。初読後、間もなく再読、と決めてから、積読するままになっていた大部の作品を読み、また理解するようになった。その代表例が、 ◇ 小林秀雄『本居宣長 (上,下)』新潮文庫 である。 初読、また再読に 25日を要した。特に初読は困難な道のりだった。立ち止まり、耳を澄ませて待つことを覚えた。貴重な読書体験だった。  ここに、四十四巻から成る、三十五年の歳月を費やし、意を尽くした、『古事記伝』の完成をみた。    九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題 披書視古    古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし  また、小林秀雄は、『本居宣長』を、昭和四十(1965)年、六十三歳の夏から雑誌『新潮』に十一年あまりにわたって連載した。その後一年をかけて推敲し出版した。小林秀雄は、十二年を超える歳月をかけて、本居宣長と対峙した。  これらの歳月を思えば、25日はかすんで見える。恥いるばかりである。 「稗田阿礼の『声』と本居宣長の『肉声』と、また小林秀雄と井筒俊彦と」 小林秀雄『本居宣長 上』新潮文庫 「宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う」(24頁) 『本居宣長をめぐって』 小林秀雄 / 江藤 淳 小林秀雄『本居宣長 下』新潮文庫 小林  それでいいんです。あの人(本居宣長)の言語学は言霊学なんですね。言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る。肉声だけで足りた時期というものが何万年あったか、その間に言語文化というものは完成されていた。それをみんなが忘れていることに、あの人(本居宣長)は初めて気づいた。これに、はっきり気付いてみれば、何千年の文字の文化など、人々が思い上っているほど大したものではない。そういうわけなんです。(388頁) (中略) 江藤  宣長は『古事記』を、稗田阿礼が物語るという形で、思い描いているのですね。『古事記』を読んでいる宣長の耳には、物語っている阿礼の声が現に聞えている。(391頁)  また、『本居宣長』は、小林秀雄の「肉声」が、活字の体裁をとったものである。本居宣長は、稗田阿礼の「声」を聞き、小林秀雄は、本居宣長の「肉声」...

TWEET「病気療養中につき_16」

 2023/03/10「Facebook」を書きはじめました。  同姓同名の方がいて、よく間違えられますので 、「Facebook」さんのお世話になることにしました。   2023/03/19 には、  私のブログ中の、洲之内徹さんの文章、また洲之内さんについての話題のすべてを載せました。  そして、小林秀雄 の文章、また小林秀雄に関する話題のすべてを載せようと思っていましたが、昨夜 途中で断念しました。  所詮、「Facebook」は、私の住めるような場所ではないことが、次第にわかってきました。  いまも微熱があり、寝たり起きたりの生活をしています。起きているときの手持ち無沙汰も手伝って、「Facebook」に文章を載せ続けてきましたが、それもこれで終わりにします。遅きに失した感を抱いています。  61歳になり、殊更 今年になり、虚弱体質になりました。加齢だけではすまないものを感じています。  TWEET「病気療養中につき」が続きます。 追伸:「お友達の要請」は、すべてお断りすることに決めました。悪しからず。

「伊勢・松阪の旅」

心急き、以下、「旅の覚書き」です。 2022/10/21 出発 ◇「恋路が浜」 ◇ 伊勢湾フェリー ◆「二見興玉神社」 ◆「小津安二郎 松阪記念館」 ◆「瀧原宮」 ◆「道の駅 木つつ木館」 車中泊 2022/10/22 ◆「瀧原宮」 ◆ 「伊勢神宮 外宮」 ◆「伊勢神宮 内宮」 「おかげ横丁」 「おはらい横丁」 ◇ 伊勢湾フェリー ◇「恋路が浜」 帰宅

本居宣長「息を殺して、神の物語に聞き入る」

小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫 「彼(本居宣長)にとって、本文の註釈とは、本文をよく知る為の準備としての、分析的知識ではなかった。そのようなものでは決してなかった。先ず本文がそっくり信じられていないところに、どんな註釈も不可能な筈であるという、略言すれば、本文のないところに註釈はないという、極めて単純な、普通の註釈家の眼にはとまらぬ程単純な、事実が持つ奥行とでも呼ぶべきものに、ただそういうものだけに、彼の関心は集中されていた。神代の伝説に見えたるがままを信ずる、その信ずる心が己れを反省する、それがそのまま註釈の形を取る、するとこの註釈が、信ずる心を新たにし、それが、又新しい註釈を生む。彼は、そういう一種無心な反復を、集中された関心のうちにあって行う他、何も願いはしなかった。この、欠けているものは何一つない、充実した実戦のうちに、研究が、おのずから熟するのを待った。そのような、言わば、息を殺して、神の物語に聞入れば足りるとした、宣長の態度からすれば、真淵の仕事には、まるで逆な眼の使い方、様々ないらざる気遣いがあった、とも言えるだろう」(197-198頁)  宣長にとって「神代の伝説」をよく知ることと、信仰の境地が深まることは同時進行だった。それは宣長にとって切実な問題であり、喜びでもあった。 「之を好み信じ楽しむ」とは、宣長の学問に対する生涯変わらぬ態度だった。 「無心」とは「無私な心」と言い換えることができよう。

小林秀雄「和して同ぜず」

 ここに、 四十四巻から成る、 三十五年の歳月を費やし、意を尽くした、『古事記伝』の完成をみた。    九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題 披書視古    古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし  小林秀雄は、『本居宣長』を、昭和四十(1965)年、六十三歳の夏から雑誌『新潮』に十一年あまりにわたって連載した。その後一年をかけて推敲し出版した。小林秀雄は、十二年を超える歳月をかけて、本居宣長と対峙した。 そして私は、 小林秀雄『本居宣長 (上,下)』新潮文庫 の初読、また再読に 25日を要した。特に初読は困難な道のりだった。立ち止まり、耳を澄ませて待つことを覚えた。貴重な読書体験だった。   川村次郎『いまなぜ白洲正子なのか』東京書籍  会場の「畠山記念館」に着くと、袴をつけた川瀬(敏郎)がにこやかに出迎えた。  国語学者の大野晋夫妻もきていた。正子は大野晋という名前は、「青山学院(青山二郎のもとに集まった文士たちの一団)」のころから聞いていた。岩波書店から『広辞苑』が出たのは昭和三十(一九五五)年だが、この辞書で助詞など、基礎語と呼ばれる単語千語をうけもったのが大野だった。基礎語は使われる頻度が高い分、定義をするのがむずかしい。最も厄介な言葉である。「青山学院」に集まる文士はみんな大野に一目も二目も置いていた。  小林秀雄が昭和五十二(一九七七)年、新潮社から『本居宣長』を出したとき、大野を招いて一席設けた。大野は十七歳年下だが、ただの言語学者ではなく、本居宣長をしっかり読み込み、人間を研究していることを知っていた。どうしても感想を聞いてみたかったのである。  大野は『本居宣長』を急いで読んだ。そして、宣長を論じようとすれば読み落としてはいけない一冊を読んでいないのではないかと睨み、文化勲章を受章した文壇の大御所に、思った通りのことをいった。小林は、「君の言う通りだ。しかし評論家はそれでいいんだよ」といって、笑ったという。  実は正子も『本居宣長』にはキラキラしたところがないと思ったので、小林にその通りにいったことがあった。小林は「そこが芸だ」といっただけで、釈然としないものが残っていたが、大野の指摘に得心がいった。この話を聞いたときから、「大野晋」の名は忘れられないものになった。しかし会うのは、はじめてである。...

小林秀雄「もう終りにしたい 」

小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫 「考えをめぐらしていると、「歌の事」という具象概念は、詮ずるところ、「道の事」という抽象概念に転ずると説く理論家宣長ではなく、「歌の事」から「道の事」へ、極めて自然に移行した芸術家宣長の仕事の仕振りに、これ亦極めて自然に誘われる。『直毘霊(ナホビノミタマ)(古道論)』の仕上りが、あたかも「古典(フルキフミ)」に現れた神々の「御所為(ミシワザ)」をモデルにした画家の優れたデッサンの如きものと見えて来る。「古事記」を注釈するとは、モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを、画家の眼は追い、これを鉛筆の握られたその手が追うという事になる。言わば、「歌の事」が担った色彩が昇華して、軽やかに走る描線となって、私達の知覚に直かに訴える。私は、思い附きの喩(たとえ)を弄するのではない。寛政十年、「古事記伝」が完成した時に詠まれた歌の意(ココロ)を、有りのままに述べているまでだ。ーー   「九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題 披書視古    古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし」(325-326頁) 「概念」を極端に悪んだ宣長にとって、「『歌の事』という具象概念」から「『道の事』という抽象概念」へという飛躍は、及びもつかないことだった。 「歌の事」のことを「熟視」することによって、いつしかそれらは純化され、宣長はそこに、自ずからなる「道の事」をみた。  ここに、 四十四巻から成る、 三十五年の歳月を費やし、意を尽くした、『古事記伝』の完成をみた。 『本居宣長』の掉尾には、 「もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頼りだからだ。」(253頁) との記述があり、また、 「本居宣長補記」の末尾には、 「もうお終いにする。」(368頁) の一文が見受けられる。  これらは小林秀雄の、精一杯の尽力後の、ため息混じりの言葉であろう。

井筒俊彦「本居宣長の『物のあはれ』論」

 昨日はブログを読んで過ごした。 「 “引用” は人の為ならず」ということを実感した。デジタルデータ化すれば、検索も容易である。  井筒俊彦は、深層意識的言語学者である。井筒の文章は緻密であり明晰である。また、国語国文学者とは、自ずから視座が異なり 興味深い。  通読を旨とする、そして初読後 間もなくの再読、という読書習慣が身についた。私にとっては、斬新な出来事である。  以下、長い引用である。   井筒俊彦『意識と本質 ー 精神的東洋を索めて ー 』岩波文庫  2021/03/23 「およそ概念とか概念的・抽象的思惟とかいうものを極度に嫌った本居宣長は、当然のことながら、中国人のものの考え方にたいしてほとんど本能的とでも言いたいほどの憎悪の情を抱いた。彼の目に映じた中国人は「さかしらをのみ常にいひありく国の人」、人間本然の情をいつわり、それにあえてさからってまで、大げさで仰々しい概念を作り出し、やたらに「こちたく、むつかしげなる事」を振りまわさずにはいられない人たちである。 (中略)  宣長にとって、抽象概念はすべてひとかけらの生命もない死物に過ぎなかった」(34頁) 「中国的思考の特徴をなす ー と宣長は考えた ー 事物に対する抽象的・概念的アプローチに対照的な日本人独特のアプローチとして、宣長は徹底した即物的思考法を説く。世に有名な「物のあはれ」がそれである。物にじかに触れる、そしてじかに触れることによって、一挙にその物の心を、外側からではなく内側から、つかむこと、それが「物のあはれ」を知ることであり、それこそが一切の事物の唯一の正しい認識方法である、という。明らかにそれは事物の概念的把握に対立して言われている。  概念的一般者を媒介として、「本質」的に物を認識することは、その物をその場で殺してしまう。概念的「本質」の世界は死の世界。みずみずしく生きて躍動する生命はそこにはない。だが現実に、われわれの前にある事物は、一つ一つが生々と自分の実在性を主張しているのだ。この生きた事物を、生きるがままに捉えるには、自然で素朴な実存的感動を通じて「深く心に感」じるほかに道はない。そういうことのできる人を宣長は「心ある人」と呼ぶ」(35 -36頁) 「では一体、「物の心をしる」とは、もっと具体的には、物の何を、どうやって知ることなのだろう。一番大切なこと...

小林秀雄「国語伝統の底流」

小林秀雄『本居宣長 (上)』新潮文庫 「宣長が注目したのは、国語伝統の流れであった。才学の程が、勅撰漢詩集で知られるという事になっては、和歌は、公認の教養資格の埒外(らちがい)に出ざるを得ない。極端な唐風模倣という、平安遷都とともに始まった朝廷の積極的な政策が、和歌を、才学と呼ばれる秩序の外に、はじき出した。しかし、意識的な文化の企画には、言わば文化地図の塗り替えは出来ても、文化の内面深く侵入し、これをどうこうする力はない。生きて行く文化自身の深部には、外部から強いられる、不都合な環境にも、敏感に反応して、これを処する道を開いて行く自発性が備っている。そういう、知的な意識には映じにくい、人々のおのずからな知慧が、人々の共有する国語伝統の強い底流を形成している。宣長はそう見ていた」(321-322頁)  宣長の見識を、小林秀雄が 達意の文で綴った 。それは以下の、 レオ・ヴァイスゲルバーが命名した、 「言語共同体の法則」と同等の内容のものである。 若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 「レオ・ヴァイスゲルバーは井筒俊彦が深い関心を寄せた二十世紀ドイツの言語学者である」(222頁) 「ヴァイスゲルバーは、人間と母語の関係に着目する。母語が世界観の基盤を形成し、誰もこの制約から逃れることはできないことを強調する。すなわち全人類は不可避的に言語共同体的に「分節」されている。人間の基盤を成す共同体はまず、「言語共同体」であることを避けられない。彼はこれを「言語共同体の法則」あるいは「言語の人類法則」と命名し、人類が生存する上での不可避な公理だと考えた」(227頁)  宣長は『古事記』の内容をそっくり信じ、「 同じ向きに歩いた」 。  井筒俊彦は、宣長の、小林秀雄の、あるいは レオ・ヴァイスゲルバーの「公理」 を 包括する形で、自らの実存的経験を体系化した。 井筒は「存在はコトバである」といい、また「言語アラヤ識」を深層領域に措定するに到った証左に、私が思いをいたしたのは、当然の成り行きだった。

「自分の声といい肉声といい」

「山の日に山気にあたる_1/3」 2022//08/11 「霊峰(富士)を前に、茫然自失として立ちつくす。私の不用意な動きが、すべてを崩壊へと導く。私は平安のうちにあるが、心奥のどこかが緊張しているような気がする。それを畏れというのかもしれない」  私の美の体験である。 「摩訶般若波羅蜜多心経」を諳んじた。間をおかずに何回か唱えると、美の体験と近似した心境になることを、数日前に気づいた。それは、「南無阿弥陀仏」の「六字名号」を唱えた後にも起こることを、はっきり自覚している。 玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書 「それでは最後に、以上の意味を忘れて『般若心経』を音読してください」(194頁) 「自分の声の響きになりきれば、自然に『私』は消えてくれるはずです」(198頁) 「声の響きと一体になっているのは、『私』というより『からだ』、いや、『いのち』、と云ってもいいでしょう。むろんそれは宇宙という全体と繋がっています」(199頁) 墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社  「念仏にしても、木魚一つでもあれば、称名の声と木魚を撃つ音と主客一如になるところ、大自然のいのちを呼吸する心境は深まりうるわけで」ある。(12頁) 「自分の声の響き」であり、「称名の声と木魚を撃つ音」である。  また、小林秀雄は、 「あの人(本居宣長)の言語学は言霊学なんですね。言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る。肉声だけで足りた時期というものが何万年あったか、その間に言語文化というものは完成されていた。それをみんなが忘れていることに、あの人は初めて気づいた。これに、はっきり気付いてみれば、何千年の文字の文化など、人々が思い上っているほど大したものではない。そういうわけなんです」(『本居宣長 (下)』新潮文庫 388頁) といっている。 「言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る」  畏怖すべきは声にあった。  いま何かが動きはじめた。言葉を弄すること、徒らに動くことの愚かさを思っている。

「小林秀雄『本居宣長 (下)』_生死の問題」

「私達は、史実という言葉を、史実であって伝説ではないという風に使うが、宣長は、「正実(マコト)」という言葉を、伝説の「正実(マコト)」という意味で使っていた(彼は、古伝説(イニシヘノツタヘゴト)とも古伝説(コデンセツ)とも書いている)。「紀」よりも、 「記」の方が、何故、優れているかというと、「古事記伝」に書かれているように、ーー「此間(ココ)の古ヘノ伝へは然らず、誰云出(タガイヒイデ)し言ともなく、だゞいと上ツ代より、語り伝へ来つるまゝ」なるところにあるとしている。文字も書物もない、遠い昔から、長い年月、極めて多数の、尋常な生活人が、共同生活を営みつつ、誰言うとなく語り出し、語り合ううちに、誰もが美しいと感ずる神の歌や、誰もが真実と信ずる神の物語が生まれて来て、それが伝えられて来た。この、彼のいう「神代の古伝説」には、選録者は居たが、特定の作者はいなかったのである。宣長には、「世の識者(モノシリビト)」と言われるような、特殊な人々の意識的な工夫や考案を遥かに超えた、その民族的発想を疑うわけには参らなかったし、その「正実(マコト)」とは、其処に表現され、直かに感受出来る国民の心、更に言えば、これを領していた思想、信念の「正実(マコト)」に他ならなかったのである」(145頁)  最終章「五十」は、生死(しょうじ)の問題についての話題である。 「既記の如く、道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定(けつじょう)して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていたが、これに就いての、はっきりした啓示を、「神世七代」が終るに当って、彼は得たと言う。ーー「人は人事(ヒトノウへ)を以て神代を議(はか)るを、(中略)我は神代を以て人事(ヒトノウへ)を知れり」、ーーこの、宣長の古学の、非常に大事な考えは、此処の注釈のうちに語られている。そして、彼は、「奇(アヤ)しきかも、霊(クス)しきかも、妙(タヘ)なるかも、妙(タヘ)なるかも」と感嘆している。註解の上で、このように、心の動揺を露わにした強い言い方は、外には見られない。  宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だったわけだが、宗教を言えば、直ぐその内容を成す教義を思うのに慣れた私達からすれば、宣長が、古伝...