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TWEET「春の湿原をゆく_ ハルリンドウ」

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2022/04/06 「ハルリンドウ」が気になり、「葦毛湿原(いもうしつげん)」に行った。 「ハルリンドウ」がつぼみをつけていた。それがつぼみなのか、光量の少ない夕暮れ時だったため、つぼんでいるのか、私には見当がつかなかった。 2022/04/11  2022/04/07,8,9 の 「伊勢・瀧原宮神宮と熊野三山_巡拝の旅」 中も気になっていた。  10日に行く予定だったが、所用ができて行けなかった。 「ハルリンドウ」 「ハルリンドウの群生」 「フデリンドウ」 「いのち」の先に開いた「ハルリンドウ」はかれんだった。紫に魅入られ木道上に立ちつくしていた。  紫が春を咲かせた。

TWEET「早春の湿原をゆく_一輪のタチツボスミレ」

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 葦毛(いもう)湿原の駐車場に、 16時半過ぎに 到着した。自宅から 9km、29分の道のりである。  長尾池のほとりに立つ、白木蓮が開花するのを躊躇(ためら)っている。「咲くのも散るのもただ潔く」 とは、こと木蓮に関してはいえないようである。木蓮には木蓮の事情があるのだろう。  今日は湿原を尻目に、まず 急登から登山道の分岐まで登った。半ほどまで登り、昨日と同じ岩に腰をおろした。しだいに森閑にまぎれていった。身動きもせず、木像になったかのようだったが、体は弛緩し、温もりを感じていた。脳裏 に「かつ消えかつ結」ぶ物思いから、次第に放たれていった。 まばたきが気になり目を閉じた。  今日は 分岐を左に折れ、登山道を登った。 ゆっくりした歩調で、静かに歩を進めた。 「一息峠」を目指した。「一息峠」から「神石山」 (標高 325m)の頂上までは近い。次回には頂上に立つ予定である。  日没を過ぎ、ヘッドライトの明かりを頼りに下山した。勝手知る道で平気だったが、不案内な道ではそうはいかない。野宿をして朝を待つしかないだろう。それには、それなりの装備が必要になる。  明日は荒天の予報であり、明後日からは三連休である。雨はレインウェアでしのげるものの、人出は避けようがなく、四日間の歩行訓練後の四日間の休日、とは豪勢である。  湿原の入り口の木道脇で、一輪の「タチツボスミレ」を見つけた。 「2022/03/17_タチツボスミレ」 「スミレ」と見聞きすれば、岡潔さんの風采が脳裏に浮かぶ。 「奈良市の自宅での執筆風景。岡 65歳の頃」 「奈良の自宅の前で思索にふける。65歳の頃」 ただ者ではない。ただ事ではない。

TWEET「早春の湿原をゆく_ドラミング」

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 16時半に葦毛(いもう)湿原の駐車場に到着した。  長尾池のほとりに立つ、白木蓮の花が、いまにもほどけそうだった。 「2022/03/16_白木蓮」 「THERMOS 真空断熱ケータイマグ 0.35L」に珈琲を入れ、デイパックにしのばせていった。  昨日と同じ道順をたどった。目を凝らし湿原を一巡し、その後 脇道に分入った。行きづまりでは、昨日は見られなかった幾株かのショウジョウバカマが花をつけていた。  その後、急登から登山道の分岐まで登った。半ほどまで登ったところで、岩に腰をおろし休憩した。辺りは鎮まっていた。突然 静寂が訪れた。うかつだった。はじめて知った。私の不用意な動きが四囲に伝わり、ざわめき立ちそうで、息をひそめ、鳴りをひそめていた。時間の感覚がなかった。いつまでもこうしていたかった。  ゆっくりした歩調にかわった。静かに歩を進めた。  湿原を出てすぐの、広場のベンチに座り、余韻にひたっていた。コゲラだろうか、時折 ドラミングの音が聞こえた。  駐車場までの林間につけられた道は、早夕闇だった。ヘッドライトを点けて歩いた。  東の空にかかった月が明るかった。三日後には満ちる。  書店の文房具売り場で、「丈夫なアルミ製 抜き差ししやすい! スリット加工 鉛筆(えんぴつ)キャップ 4本入り」を二つ買って帰宅した。帰宅後、珈琲の存在を思い出した。  時間の感覚があやふやで、いまもうつろのなかにある。

TWEET「早春の湿原をゆく_一株のショウジョウバカマ」

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 16時過ぎに葦毛(いもう)湿原の駐車場に到着した。  目を凝らし湿原を一巡し、その後  脇道に分入った。行きづまりで、一株のショウジョウバカマを目にした。のびやかな立ち姿だった。 「2022/03/15_一株のショウジョウバカマ」  この辺りは、木道という足枷(あしかせ)から解放された、「花見の名所」であり、対象にいくらでも近づくことができる。心ない人たちによって荒らされないことを祈るばかりである。  デイパックを背負っていった。ミネラルウォーターとヘッドライトの他、数点の登山用品を詰めこんだ。急ごしらえの荷造りだった。肩にかかる荷重はないに等しかった。内容より外見(そとみ) 、久しぶりにデイパックを背負ったことがうれしかった。  計画していた、急登から登山道の分岐までの登攀を試みた。登れるところまで登り、あとはひき返せばいい、と思っていた。しかし、息切れすることもなく、小休止することもなく、登りきった。加齢により疲れを感じない体になってしまったのだろうか。感じるのは訝(いぶか)しさばかりだった。その後、林間につけられた小さな登山道を伝って下山した。  駐車場脇の、長尾池のほとりに立つ、白木蓮のつぼみがほころびかけていた。秘められた力を感じた。明日には咲きはじめるだろう。   西の空が朱に染まっていた。 一時間半あまりの散策だった。

TWEET「早春の湿原をゆく_ショウジョウバカマ」

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 今日も花曇りの天気だった。生温かさに纏(まと)わりつかれ、ふやけ、すっかり気勢をそがれた。  15時過ぎに葦毛(いもう)湿原の駐車場に到着した。一年あまりぶりの湿原だった。このような日には散策が適当か、と思った。 「クラッグステッパー」を履いていった。 足が優しくホールドされ心地よかった。 「mont-bell 豊橋店」さんの店長さんに、 「四国遍路」用に適当なシューズを、とお願いし、購入したトレッキングシューズだった。「へんろ道」ははるかに霞み、靴だけがひとり歩きをしている。  道の感触を感じながら歩いた。湿原のとっつきまでの ごろた石の転がった道、木道、やはり腐葉土からなる道は、歩行がやんわりと受けとめられ、ふくよかだった。  ハルリンドウが目当てだったが、時期尚早だった。  ショウジョウバカマが咲いていた。 「2022/03/14_ショウジョウバカマ」   いのちに照らされた色どりは格別である。湿原に咲く可憐な花がいい。清楚な花がいい。  一時間ほどの散策だった。歩くことを続ければ、しだいに足が伸びるだろう。今日は空手だったが、次回はデイパックを背負って行こうと思っている。不要不急の装備だが、パッキングする楽しみがある。 岡潔『春宵十話』角川文庫 「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは『発見の喜び』にほかならない。」(29頁) スミレはスミレである。 いま、心地よい疲れを感じている。

TWEET「スミレはスミレ」

 朝起きると髪の毛が大変なことになっていた。外出時には帽子をかぶり、ぼろ隠しをすることにした。 TWEET「散財もまたよし_その二」 ◆ patagonia ◇ スプーンビル・キャップ 新作です。専ら琵琶湖での舟遊び用です。 「ボートに乗るときやフィッシングに最適なリサイクル・ナイロン製の軽量な帽子。日差しを遮る大型のつばと、吸湿発散性を備えたキャプリーン素材のヘッドバンド付き。つばはリサイクルした漁網から作ったブレオ社の追跡可能なNetPlus素材を使用。フェアトレード・サーティファイドの縫製を採用」 「大型のつば」は日差しを遮り、人目をはばかり、果ては浮世を凌ぐのに好都合なことに気づいた。行き着く先は「目出し帽」かと思っている。  陽の傾くころ、「春の湿原にスミレをさがしに」と思っている。 岡潔『春宵十話』角川文庫 「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは『発見の喜び』にほかならない。」(29頁)  ただし、風が止んだら との条件付きである。どこ吹く風、吹く風に誘われてとはいかず、どこまでも「へたれ」は「へたれ」である。

TWEET 「真面目(しんめんもく)」

  今日 中三生の総括(学年末)テストが終わりました。これで内申のすべてが出そろい、公立高校の志願校が決まります。  私はひと足早く昨夜でお役御免となり、今日一日はすべてを放擲し気ままに過ごすことに 決めました。  冬枯れの、植生回復中の湿原を散策し、帰宅後 午睡。その後スーパー銭湯にて入湯し、いまにいたっています。   弛緩した体では、ものを 考えることができず、時間の感覚も怪しく、ぼんやりしています。自足しております。  頭から出てくるのはせいぜい虱くらいのものである、とは誰がいったのか、よくいったものだと感心しております。

TWEET「山笑う」

 湿原へと向かう林間につけられた小径は、幾度となく通(かよ)った道である。この先どれほど歩けば赦されるのだろう。そんなとりとめもないことを思いながら向かった。  視界が開け、見ると、新緑に彩られ、綾なす山々が笑っていた。笑われるままに、たたずんでいた。

「春の湿原を行く_ハルリンドウ」

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 16時 駐車場着。車が少なく意外だった。  花期をむかえたハルリンドウが、木道わきに点在していた。処処にショウジョウバカマの花が咲き、タチツボスミレの花が見頃だった。いまにも涸れそうな、心もとない水たまりには、アズマヒキガエルのオタマジャクシが身を寄せ合うようにして蠢めいていた。時折、コゲラのドラミングの音が聞こえた。 ◇ THE NORTH FACE「シャトルデイパックスリム K」 を意味もなく背負い、一昨日届いたばかりの、季節はずれの、 ◇ THE NORTH FACE「バーブパンツ UN」 をはいての、40分あまりの湿原行だった。  清々した。  帰路、西の曇り空には満月さながらの陽がかかっていた。 「ハルリンドウ」 「ショウジョウバカマ」

「秋の湿原を行く_私のへんろ道です」

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 「秋の湿原を行く」こと、四日目にしてようやくゆっくり歩くことをおぼえた。「早足」には練習や訓練が、「遅足」には鍛錬が必要である、といったとりとめのないことを思いつつ、土の感触を感じながらゆっくりと歩を進めた。  昨日の秋雨に洗われ、ほどよく湿気を含んだ木道の感触が足に心地よかった。地下足袋で来るべきだったと後悔した。今思えば、裸足になって歩けばよかったと思う。  湿原に自生する秋の千草は皆繊細で、湿原に分け入るにはそれなりのたしなみが必要である。つつしみのないところに自然はけっして応えてくれない。  歩くにつれ、身体のこわばりが消え、体に明るさがもどった。わだかまりがなくなり心が軽くなった。宙を歩いているかのような軽やかさだった。身心が脱落したかのような錯覚を覚えた。あてもなく木道をさまよった。空中散歩を楽しんだ。ホソバリンドウやミミカキグサについては一瞥しただけで、他日を期すことにした。  湿原への入り口前の広場には、「草もみじの季節がもうすぐやってきます」と書かれた掲示板がつるされていた。 「葦毛湿原の入り口にて」

TWEET「連日の小春日和のなかで」

 野分きが秋雨前線を追いやり、連日の小春日和の中で思うことは、虫干し、衣替え、大掃除、整理整頓。そしてなによりも、失くしてしまった読書の習慣の復権。なにをするにつけしないにつけ、体力不足を痛感している。  秋の湿原をぬけ里山へ。いつもの道を、いつもの頂へ。十日ほどの歩行訓練が必要か、と思っています。  真新しいトレッキングシューズで、愛着のある登山靴で、あるいは七種類の地下足袋を履き分け、いくつかのデイパックをザックを取っ替え引っ替え。「山より道具」派ならではの私の楽しみです。  「秋の湿原を行く」シリーズのはじまりです。私の「へんろ道」です。