投稿

11月, 2018の投稿を表示しています

TWEET「初冬をゆく_伊良湖岬」

いま「伊良湖ビューホテル」の喫茶室にいます。 波風ともに強く、伊勢湾フェリーの乗船を見合わせました。 恋路ヶ浜の沖に見えるのが、三島の『潮騒』の舞台となった神島です。 柳田が伝え、藤村が作詞した、「椰子の実」の曲が流れています。 渡り鳥のシーズンです。サシバは、伊良湖水道を越え、はるか台湾、フィリピンへと向かいます。 次回は陸路、お伊勢さんへと向かう予定 です。 FROM HONDA WITH LOVE.

「禁を破っての 三浦哲郎『忍ぶ川』です」

 学生時代には、文キャンで講演をうかがう機会に恵まれ、十月の在京時には、 P教授の口の端に上った、『忍ぶ川』を読んだ。もう小説は読まない、という禁を破ってのことだった。  芥川賞受賞作である。三浦哲郎 二十九歳の作品である。  いつの頃からか、小説は冗長で我慢ならなくなった。登場人物の挨拶にはじまり、いくつかの伏線が敷かれ、感情の表出があり、情景の描写がある。それらが鼻もちならなくなった。うるさく感じるようになった。  六十になんなんとする私にとって、青春小説を読むことほど気恥ずかしいことはなく、時に逃げ出したくなるような気分にもなる。が、三浦哲郎は寡黙だった。  選者の川端康成氏は選評に「『忍ぶ川』は私小説だそうである。自分の結婚を素直に書いて受賞した、三浦氏は幸いだと思える」と述べている(奥野健男「解説」386頁)  が、一概にそうとばかり、呑気にかまえてもいられまい。  「うちつづく子らの背信には静かに耐え得た父母も、こんなささやかなよろこびにはかくも他愛(たあい)なくとり乱すのである」(56-57頁) の一文は悲痛である。  事実は小説より奇なり。小説より奇なる事実を書いたこの作家の将来が、気が気でならない。 もう小説は読むまい、そんな頑な気持ちから解放されたいま、次は、 ◇ 井伏鱒二『貸間あり』筑摩書房 である。 以下、 「小林秀雄「井伏君の『貸間あり』」 である。

「拝復 P教授様_『バカヤロー解散』再びです」

講演中の一コマの画像といえども、たくさんの情報が盛りこまれ、あらましを知るよすがとなりました。 同志は、ありがたいですね。 「ダメゾウ」の名誉回復に、大暴れしてください。 添付記事、どうもありがとうございました。 今朝、三浦哲郎『忍ぶ川』を読み終えました。帰豊後、すぐに Amazon に注文したものです。ブログ上でお会いできれば幸いです。 今日も当地は小春日和です。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸:一昨日の午前中、父が119番通報し、消防車が来てあわてました。もちろん父の誤認です。認知症の兆候かと、おののいています。その後 父とは冷戦状態です。「バカヤロー解散」です。伊勢詣でに、赤信号が灯っています。

「転ばぬ先の杖はつかない」

 子どもたちと接する際には、「転ばぬ先の杖はつかない」ように心がけているが、時間がないことに託(かこ)つけて、「転ばぬ先の先に杖をつく」失態を繰り返している。「待つ」ことの大切さくらいの心得はあるものの、「猶予もなく」というのが実状である。  「私のカウンセリングの考え方の基本は『無為』ということです。『何もしない』ということですね。それも『何もしないことに全力を傾注する』」 とは、河合隼雄の発言である。  カウンセリングの場面と私の立ち位置と は、自ずから意を異にするが、かといって全く別の世界のできごとでもない。折り合いのつけどころを忖度し、機に応じて子どもたちと向き合うこと、いまの私にいえることはこれしきのことでしかない。 以下、 河合隼雄「何もしないことに全力を傾注する」 です。

「拝復 P教授様_数こそ質である」

「数こそ質である」ことを実感しています。 30代の講師時代、ゼミで「バカヤロー解散」をしました。 教師の伝家の宝刀です。少しの後悔もしていません。 人生は楽しいですね! 金がものを言う、金にものを言わせる世界はかないませんが、数がものを言う世界はすてきです。 今春より、「バカヤロー解散」二回、諭旨退塾処分  二名。節度なき者はお断りです。 当地は今日も小春日和です。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸: 明日でテストが終わります。今回はお伊勢詣でかと思っています。お伊勢さんから南に下って南紀白浜、ご一緒した熊楠記念館まではずいぶん距離がありますね。

「立冬を知らず、小雪みすみすまた過ぐ」

 「立冬」を知らず、「小雪」みすみすまた過ぐ、とは情けない時間の過ごしようをしたものである。  台風24号による塩害で、今秋当地では紅葉がみられなかった。木の葉は枯れて落ち、風に吹かれてカラカラと舞うばかりだった。季節感を逸した一因かもしれない。  週末には師走を迎える。情趣もなく風に吹かれて舞うばかりか。

「拝復 Dr.T様_謝礼です」

「ふらの野菜の里 野菜・果実ミックスジュース」を送っていただき、ありがとうございました。Kさんによろしくお伝えしてください。 父にはその旨伝えておきます。 見ると、温室内は空き缶であふれ、部屋には痕跡もありませんでした。うかつでした。 夏には、「 ふらの野菜の里   」 と「マルセイバターサンド」、また「白い恋人」を、Amazon とオンライン・ショップで検索しましたが、送料が高く意欲を失ないました。 今は、「マルセイバターサンド」と「白い恋人」の類似品をセブンイレブンで買っています。毎日結構食べています。 今日からテストです。テストがはじまってしまえば気が楽です。対策授業云々よりもプリント類の準備に時間がかかります。 数学と理科の計算問題のほぼすべてを個別にみるのは御免蒙りたいところですが、仕方のないことと諦めています。手のかかり過ぎそうな子は、入塾時にお断りするように心がけているのですが、どうしても何人か紛れてしまいます。一対一でみたところで、結果が出るのは稀なことで、前回の中二の女の子の数学の点数は、P点でした。 ご丁寧なご挨拶、また 細やかなお心配り、 どうもありがとうございました。 「 ふらの野菜の里  」 の到来を、 楽しみにしております。 では、では。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

シリーズ授業「バカヤロー解散です」

 昨夜中一生の子どもたちをにべもなく一掃しました。「バカヤロー解散」です。子どもたちに足蹴にされた格好です。このままでは、塾生が一人もいなくなる勢いですが、中学生におもねる気持ちはさらさらなく、それもまた良しと高をくくっています。節度なき者はお断りです。  学生時代に読んだ 池田潔『自由と規律 ー イギリスの学校生活』岩波新書 が思い出されます。古き良き時代のでき事ではなく、ましてや懐古趣味でもなく、ただ今の問題だと心得ています。

シリーズ授業「ひとへに風の前の塵に同じ」

 今日の午前中には、中二生と『平家物語』の冒頭部分を読みました。註を参照し、原文と現代語訳を照らし合わせながら読み進めるといった、「仏教の無常感」についての、ごくつまらない授業に終始しました。が、今時のお子様たちとのおつき合いには、すべてを負って立つといった覚悟が必要です。  その時々に頭に浮かんだ言葉を、中学生の理解できる言葉に、いちいち翻訳しなければなりませんが、とっさに上手い訳語がみつかるはずもなく失語症に陥ります。  「ひとへに風の前の塵に同じ」には、痛く感じ入りました。自分を塵芥の類と思えば、平安が訪れますが、「塵」」のすぐ後には、「塵にも五分の魂」と続きますので厄介です。 小林秀雄『平家物語』 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 「成る程、佐々木四郎は、先がけの勲功を立てずば生きてあらじ、と頼朝の前で誓うのであるが、その調子には少しも悲壮なものはない。勿論(もちろん)感傷的なものもない。傍若無人な無邪気さがあり、気持ちのよい無頓着さがある。人々は、「あっぱれ荒涼な(大口をたたく意)申しやうかな」、と言うのである。頼朝が四郎に生食(「いけずき」という名の名馬)をやるのも気紛(きまぐ)れに過ぎない。無造作にやって了(しま)う。」(143-144頁) 「(『平家物語』の)一種の哀調は、この作の叙事詩としての驚くべき純粋さから来るのであって、仏教思想という様なものから来るのではない。「平家」の作者達の厭人(えんじん)も厭世(えんせい)もない詩魂から見れば、当時の無常の思想の如(ごと)きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ。鎌倉文化も風俗も手玉に取られ、……」(147頁)  その際には、小林秀雄の「無常という事」についての二、三の発言が思い浮かびましたが、余計なことは口にしませんでした。私の翻訳能力をはるかに超えたものですし、翻訳なぞはもってのほか、というくらいの心得は私にもあります。 追伸: 対策授業の準備を終え、三連休を迎えました。あとは授業をするだけですので気が楽です。 以下、 小林秀雄「無常の思想の如きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ」 です。

TWEET「冬ごもりの前ぶれ」

 来週末の三連休明けに定期テストが組まれています。非情な仕打ちです。御難続きです。今日から準備にかかります。引きこもりのはじまりです。冬ごもりの前ぶれです。

TWEET「鼻つまみ者」

 平等院から宇治駅までの道すがら、紫煙をくゆらせながら歩いていた。と、若者がすれ違いざまに両手で口をふさいだ。気づいたころには、すでに遅かった。  こんな場合、口をふさぐよりも鼻をつまむのが正解のように思えてならなかった。鼻つまみ者に、鼻つまみ者呼ばわりされるのは心外だったのだろうか。鼻持ちならない、という言葉もあり、分が悪いのはどうしても若者ということになりそうである。

「眼鏡研究社 玉垣さんへ_病気見舞いと感謝の意をこめて」

イメージ
 2018/10/12 には、京都国立博物館で「京(みやこ)のかたな」展を見学し、その後平等院へ向かいました。夕日に染まる平等院を望むことが本意でしたが、あいにくの曇り空でかないませんでした。ミュージアム鳳翔館には、土門拳の一枚の写真が掲げられていました。朱に染まった甍が印象的でした。  在京中には、「眼鏡研究社 玉垣」さんで眼鏡を誂えようと思い、出立前に検索しました。するとそこには、【閉店のお知らせ】が記されており茫然としました。  はじめてうかがったのは、 1995/09/24  のことでした。以来、事あるごとにお電話をし、同じ形の眼鏡ばかりを計9点とテンプルを2組拵えていただきました。 「眼鏡研究社 玉垣」  9点の内2点が現役で、3点がなんとか体裁を保っています。    眼鏡はいうにおよばず、メガネケースやメガネ拭き、「 眼鏡のお取扱い説明書」や「お客様控」、そして茶色の紙袋にいたるまで、すべてにおいて手抜かりなくお洒落でした。 ◇2013/06/08 「眼鏡研究社 玉垣 」←【遠近両用】(現在使用中) ◇2012/06/16 「眼鏡研究社 玉垣」 ← ×2点 ◇2010/05/06 「眼鏡研究社 玉垣」 ←【テンプル】×2組 ◇2008/10/18 「眼鏡研究社 玉垣」 ← ×2点 ◇2005/07/28 「眼鏡研究社 玉垣」 ←【偏光グラス】(現在使用中) ◇1998/10/02 「眼鏡研究社 玉垣」 ◇1998/09/10 「眼鏡研究社 玉垣」 ◇1995/09/24 「眼鏡研究社 玉垣」 ←【会員証】の発行 残念でなりませんが、 くれぐれもお大事になさってください。 ご自愛ください。 一刻も早いご快癒をお祈りしております。 また、いままでのご厚意 に感謝しております。

「百閒先生の寝姿_はじめに」

 理由(わけ)もなく、ただ百閒先生の「寝姿」が気になり、手持ちの文庫に当たりました。そして、「居睡」(内田百閒『百鬼園随筆』福武書店)と「又寝」(内田百閒『蜻蛉玉 内田百閒集成15』ちくま文庫)の二つの作品を読みました。  さすがに百閒先生の「寝姿」は、美しく愉快でした。 「玄関の入口の面会謝絶の札のわきに、蜀山人の歌が貼ってある。    世の中に人の来るこそうるさけれ     とは云ふもののお前ではなし」(「又寝」220頁)  調べると、 「世の中に人の来るこそうるさけれ     とは云ふもののお前ではなし」(蜀山人) 「世の中に人の来るこそうれしけれ     とは云ふもののお前ではなし」(亭主) 「面会謝絶」(亭主) 「春夏秋冬 日没閉門」(亭主) と、内田家の玄関先は常ににぎやかだったようです。  百閒先生に倣いて、私も制札を貼るべきか否か、目下沈思黙考中です。ひとえに快眠のためです。

TWEET「MacBook Air」

「Apple Special Event 2018年10月30日」で発表された、 「MacBook Air 8.1」 を購入しました。「シルバー」で「256GBストレージ」のモデルです。  軽やかなキータッチに、文体が左右されるかが目下の最大の関心事です、とつまらないことを考えています。  各種アプリをインストールし、バックアップ等のシステムを組むためにしばらく時間がかかりそうです。厄介でもあり、楽しみでもあります。  以上、「MacBook Air」より第一信でした。

白洲正子「小林秀雄と骨董と文章と」

「小林秀雄の骨董」 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫 「当麻(たえま)」という作品の中に、次のような言葉がある。  「美しい〈花〉がある、〈花〉の美しさといふ様なものはない」   これは世阿弥(ぜあみ)の「花」について語ったもので、その前に、「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失(う)せぬところを知るべし」という花伝書の一節があるのだが、この美しい「花」を、「物」に置き換えてみれば、小林さんが美についてどういう考えを持っていたか、知ることができる。  ーー「美しい物がある、物の美しさという様なものはない」そこには叩(たた)けばピンと鳴る手応(てごた)えがあるだけで、あいまいなものは何一つ認められない。物の美しさについて、人はきりなく喋(しゃ)べることができようが、美しい物は沈黙を強いる。小林さんは終始、そこだけに焦点をしぼって書いた作家である。相手は骨董でも文学でも絵画でも変りはなかった。沈黙したものを対象に、無理に口を開かせようとはせず、我慢に我慢を重ねてつき合った後、向うが自然に秘密を明かす時まで待つ。小林さんはいつか私に、自分はある時期ものが書けなくなって、数年間黙っていたことがあるといった。何時(いつ)のことだか私は知らないが、それが骨董に熱中していた期間ではなかったであろうか。(60-61頁) 「無常といふ事」が出版されたのは昭和二十一年だが、この連載を書いたのは戦争中(昭和十七年 - 文學界)で、あきらかにそれ以前の作品とは違っている。 (中略) そのことが直接骨董と関係があるとは言い切れないが、それまでの難解で、硬質な文体とは打って変わって、李朝の陶器に見られるような、えもいわれぬ優しさと、そこはかとない悲しみに満ちており、多くの読者をとらえたのは事実である。少しも感傷的なところのない、それ故(ゆえ)にいっそう人の心を打つ優しさと悲しみは、後に「モオツァルト」の tristesse allante に受けつがれ、「本居宣長(もとおりのりなが)」の物のあはれに開花して、小林さんの文学の主調音となった。  小林が骨董をやっていなかったら、どうなっていただろう、と青山(二郎)さんはしばしばいい、私は青山さんの自慢話だと思って聞き流していたが、今はそうは思わない。フランス文学に育(はぐ)くまれた明晰(めいせき)この上ない

青山二郎「道具茶」

白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫 「『道具茶』といふ言葉は偶像崇拝の意味だらうが、茶の根源的な観点は空虚にある様に思はれる。真の意味で、道具の無い所に茶はあり得ないのである。一個の道具はその道具の表現する茶を語つてゐる。数個の道具が寄つて、それらの語る茶が連歌の様に響き合つて、我々の眼に茶道が見えるのである。何一つ教はらないのに、陶器に依(よ)つて自得するのが茶道である」(青山二郎『日本の陶器』) 「 何一つ教はらないのに」といっているように、青山さんは茶道のことなんか、何一つ知らなかった。ひたすら陶器に集中することによって、お茶の宗匠の及びもつかぬ茶道の奥儀を極めたのだ」(83頁)

「京(みやこ)のかたな_会心の一振」

  2018/10/12  に京都国立博物館で、 「京のかたな」展をみた。その際に誂えた「図録」が届いた。『特別展 京(みやこ)のかたな 匠のわざと雅のこころ』と題された「図録」は、「A4変形判」で 276頁、と大部で持ち重りのするものである。「図録」では二百件の刀剣が紹介されている。  「表紙と小口の部分を開くと」、「吉光」と銘打った短刀の全体像があらわれる。「図録」を調べると下記の短刀であった。 重要文化財 四三 短刀 銘 吉光 (名物秋田藤四郎) 一口 鉄 鍛造 平造 三ツ棟 鎌倉時代 十三世紀 京都国立博物館(71頁) 第Ⅲ章 京のかたなと吉光(鎌倉時代前期ー中期)  十三世紀初頭頃から京都・粟田口周辺に居住した刀工群を粟田口派と呼び、中でも後鳥羽上皇の御番鍛冶と伝える国友・国安を含む久国・国清・有国・国綱の六人がつとに知られています。地鉄の精緻さや焼刃の古雅さといった山城鍛冶の特徴とみられる作風の多くはこの粟田口派の作品を基準として語られる場合が多く、粟田口派の作品こそが京刀の典型と言えます。粟田口派は鎌倉時代を通して活躍し、国友の子とされる則国や彼に連なる国吉を経て、ついに稀代の名工・吉光が生まれます。吉光は山城鍛冶の一つの到達者であり、神妙無類の地鉄はここに極まり、その品位の高さは後に豊臣秀吉さえも虜にしました。  この章では粟田口派の代表工全員の作品と吉光の傑作を紹介し、その抜きん出た技量と作品の放つ品格を堪能していただきます。(56-57頁) 吉光の会心の一振が、「図録」の表紙の中央を横断する格好で描かれている。そして、その部分部分は、表・背・裏表紙の意匠として具合よくおさまっている。

「前略 Nさんへ_ラベンダーの香りに包まれて」

「ファーム 富田」 の「アロマディッシュセット」と「フェイスタオル」、どうもありがとうございました。早速 車内に置き、運転中には、ラベンダーの香りに包まれています。  教育現場は異常です。職員室の人間関係は複雑です。正常でないと知りながら、改善しようとしないのもまた教育現場です。保身、事なかれ主義の権化です。私は教育に不信感を抱き続けています。とうの昔にあきらめています。 ご無理だけはなされないように、と祈るばかりです。 くれぐれもお大事になさってください。ご自愛ください。 よろしければ、息抜きにまたご来豊ください。大歓迎です。 FROM HONDA WITH LOVE.

梅原龍三郎「春に送る」

「北京の空は裂けたか 梅原龍三郎」 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫 「小林秀雄さんは梅原先生の一番の理解者であった。」 「どういう縁でか、小林さんが慶応病院で亡(な)くなった時、梅原さんも一階上の病棟で呻吟(しんぎん)していられた。そんな時に、年下の友人を失うことは、さぞかし辛(つら)いことであろう」 「先生の深い悲しみは、小林さんの葬儀の際の弔電によく現れていた。」 「梅原さんでなくてはいえないような、直截(ちょくせつ)で、簡明な表現だった。」    美しき春を迎えし時に    悲しき報(しら)せを聞き    在りし日の    君を想うとき     哀しみは      限りなし 「これを聞いて感銘をうけぬ参列者はいなかった。」(189頁) (「新潮」追悼号)

白洲正子「三月一日の夜半すぎ」

「小林秀雄の骨董」 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫  三月一日の夜半すぎ、電話を貰(もら)って私は雨戸をあけた。空には十六夜(いざよい)の月がかがやき、梅の香りがただよっていた。私たちが病院へ駆けつけた時、小林さんは、既に亡(な)く、二、三の家族だけが静かに最期(さいご)をみとっていた。その死顔は穏やかで、やっと俺も休むことができると、呟(つぶや)いているようであった。私は、「涅槃(ねはん)」ということの意味をはじめて知った心地がして、思わず手を合わせた。(67-68頁) (「新潮」昭和五十八年四月臨時増刊号)