投稿

6月, 2019の投稿を表示しています

TWEET「自讃」

「◯◯さんの今回のテスト週間中の頑張りを、きっと誰もほめてくれないと思う。高校・大学に進学しても、社会人になっても、おそらく誰もほめてくれないだろうね。そうしたら、どうするの?」 とたずねると、 「自分でほめる」 との、女の子からの明快な回答が返ってきました。 「春に笑えばそれでいい。一喜一憂はやめようね」 とだけ、つけ加えておきました。

「夏至から三日後の今日_アホらし」

2019/06/16 「拝復 P教授様_アホらし」  資源回収の振替休日(三連休)を含む、5日連続の、中3生の定期テスト対策授業の真っ最中です。計13,5時間に加えて、中1,2生 5時間の通常授業、合計 18,5時間の長丁場です。06/27 まで拘束されます。テスト前11日間のうち5日の休日があります。  ひとえに委細おかまいなしの中学校の先生方の尻拭いです。  なんの因果か、「アホらし」としかいいようがありません。 FROM HONDA WITH LOVE. 2019/06/25 「前略 P 教授様_アホらし」  その後、自転車操業のスリリングな毎日を過ごし、 明日から三日間の第二テストがはじまります。  昨今の喧(かまびす)しい教育の経済格差の問題は、大学を除けば、明らかに公教育に携わる先生方のあり様(よう)に起因するものです。遠因ではなく近因であることに思いをいたしたとき、「隗より始めよ」としか申し上げよう がありません。 「隗より始め」なければならないほど、低迷している職員室の惨状をまず知っていただきたいと思っています。順位を違(たが)えることなく、まず足下(そっか)を見つめ直せば、教育改革は長足に進展する、と私は信じております。  言葉少なにいえば、露見しなければ、とはいえ子どもたちは敏感に感じとっていますが、何をしてもしなくても 委細おかまいなし という体質、風通しが悪く、自律なく、誠意なく、粗野で野放図、ということです。  思えば、「アホらし」としかいいようがありません。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸: ◇  工藤勇一『学校の「当たり前」をやめた。 ― 生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革』時事通信社 ◇  多田慎介『「目的思考」で学びが変わる —千代田区立麹町中学校長・工藤勇一の挑戦』ウェッジ  上記の二冊を購入しようかどうか、ずいぶん長く迷っていました。市内の図書館では常に「貸出中」でした。そして、つい今しがた、 ◇ 『西郷孝彦,工藤勇一 対談 これからの学校教育のかたち』(すばる Digital Book,Kindle版)集英社 を目にし、早速 ダウンロードしました。2019/06/21 に発刊されたばかりの電子書籍です。324円とお手頃なお値段がつけられています。  久しぶり

小林秀雄「面倒になったからだ」

若松英輔『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』慶應義塾大学出版会 の166頁には、 「小林は、ランボーが詩を棄てた原因を、『面倒になった』からだといった。」 との一文があるが、歯切れのよい、いかにも小林秀雄らしい物言いである。  「感 想」 小林秀雄『人生について』中公文庫 終幕は、死刑を宣告された法廷であるが、彼(ソクラテス)は「弁明」の終りに臨んで、「裁判官たる市民諸君、実は、驚くべき事が、私に起ったのである」と冒頭し、次の様な打明話をする ー 、平素あれほど馴染みだった例のダイモンの声が、私の最悪の日に当って沈黙して了った。瑣細な事にでも、あれほど屢々私に干渉した声は、今日、家を出た時から、私の言動に、例の禁止の命令を全く発しなくなって了ったのである。(226頁)  ダイモンが、「禁止の命令を全く発しなくなって了った」のは、死を覚悟したソクラテスには、何もかもが「面倒」になってしまったからであろう。一切を「面倒になった」と、打ち遣ったからこそ浮かぶ瀬があったのだと思う。  以来、「面倒になった」と投げ遣りになることも訓練次第、と思うようになった。

星野道夫「ハント・リバーを上って」

◇ 星野道夫『イニュニック [生命]』新潮文庫  は、2015/06/19 付の 『テンカラ「書籍編」』 の項で引用させていただいた、湯川豊さんの特集記事「山と渓流の図書館」で知りました。「ハント・リバーを上って」をまっ先に読みました。とても大切なことが書かれています。すてきなことばで彩られた作品です。 「ハント・リバーを上って」 星野道夫『イニュニック [生命]』新潮文庫  私たちは、この土地を波のように通り過ぎてゆくカリブーの神秘さに魅かれていた。その上でニックは、一頭のカリブーの死は大きな意味をもたないと言う。それは生え変わる爪のように再び大地から生まれてくるのだと…。「追い詰められたカリブーが、もう逃げられないとわかった時、まるで死を受容するかのように諦めてしまうことがあるんだ。あいつらは自分の生命がひとつの繋ぎに過ぎないことを知っているような気がする」  僕はそんなニックの話を面白く聞いていた。個の死が、淡々として、大げさではないということ。それは生命の軽さとは違うのだろう。きっと、それこそがより大地に根ざした存在の証なのかもしれない。  僕は以前から気になっていたことを急に聞いてみたくなった。 「ニック、オオカミは殺しのための殺しをすると思うかい? つまり獲物を食べるのではなく、生命を奪うためだけのハンティングのことさ。一度そんな場面に出くわしたことがあるんだよ」  僕は何年か前、早春のツンドラで見た、生まれたばかりのカリブーの子を次から次へと殺しながら走るオオカミの姿を思い出していた。 「オレはあると思う。きっと、死はやつらにとって芸術なのさ。それは人間のもつ狭い善悪の世界の問題ではないんだ。そして、そのことは少しもオオカミの存在を低くするものではない。それがオオカミなんだ…」 クリアランス・ウッドは、「人々がまだ狩りをしながら動物のようにさまよっていた時代の、駆りたてられるような狩猟への思い」をもち、皆から「畏敬の念をもって」見つめられている「本物のハンター」、「本物の猟師」である。  「クリアランスが今ここにいたら、オレたちのことを不思議な生きものを観察するような目で見るだろうな。クリアランスには考えられないんだ、なぜそんなことを心配するのかと。そしてその目は、徹底的に相

TWEET 「ただあきれるばかり」

 昨夜の中三生の授業のはじめに息まいた。 「臨戦態勢につき、週末に授業を組みます。もし足並みがそろわないようならば、二回に分けてもいいし、三回に分けてもいいと思っている。  ひとりの参加者もなければ、僕はひとりで勝手に授業をする。人が聞いていようがいまいがいっこうに平気で、ただ授業をすることに喜びを覚える、授業のために授業をする。これが理想の授業者のあり方だと思っている。授業者の遊戯三昧ということである。  もしひとりを寂しく思えば、僕は壁や天井に向かって授業をする。   とにかく週末は部活以外には予定を入れないでほしい」  途中には「(笑)」,「(あきれる)」,「(ただあきれるばかり)」,「(あやしい)」といった文字が列をなし、「臨戦態勢」,「授業者」と板書したものの、「遊戯三昧 」と板書しようにも覚束ず、恥じ入った。  壁に耳あり。壁に向かって話すことくらいは、なんでもないことである。天井にしても然りである。授業時には弱り切って天井を仰いでばかりいる。

TWEET「僕は無智だから反省なぞしない」

「こちらは市の上下水道局です。豊橋市内ではいま水不足ため、節水にご協力ください」  つい今しがた、豊橋市役所の街宣車が、節水の呼びかけにまわってきた。 私が苦言を呈した 2019/05/27 以来のことである。  吹きかえられていた。依然 素人の物言いであるが、それをどうこういうつもりはない。   早速 返礼の電話をした。  「貴重なご意見、どうもありがとうございました。またよろしくお願いします」 とのことだった。  大人気なかったのは、お役所だったのかそれとも私だったのか。 「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」 と言った、小林秀雄に倣うことにした。 以下、 「動詞_荒ぶる_その二」 下記、 「拝復 P教授様_悪しき道徳教育の、18歳の残滓です」

TWEET「螢狩り_恋慕の情」

 いつもの池のほとりの、いつもの場所に座し、目を凝らしていたが、十分ほどの間(ま)をおいては繰り返される明滅を、目にするばかりだった。「ほのかにうち光て行く」景色は望めなかった。  時季外れの恋慕の情を目にした格好だった、と簡単に文を結んでしまうのは不憫で、逡巡していると、アン・モロー・リンドバーグの「サヨナラ」を思い出した。 アン・モロー・リンドバーグ「サヨナラ」 A・M・リンドバーグ『翼よ、北に』中村妙子訳、2002年、みすず書房 「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。…けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受けいれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしない Good-by であり、心をこめて手を握る暖かさなのだ ー 「サヨナラ」は。  日本には「サヨナラ」があった。これに優る言葉は思い当たらず、「サヨナラ」を結びの語とすることにした。 以下、 アン・リンドバーグ「サヨナラ」 です。

TWEET「梅の実の入るころ_螢狩り」

「夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、螢の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くもをかし。雨など降るもをかし。」  今季は今夜を逸すれば他になく、「月(満月)のころ」,「闇(新月のころ)」,「螢の多く飛びちがひたる」ことは、望むべくもないが、せめて、「ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行く」ほどのことはと、夏の夜に望みを託している。  「雨など降るもをかし」とは一概にはいえず、「をかし」というには、私の場合 いろいろな注文がつくことになる。

TWEET「梅の実の入るころ_全力疾走」

 一昨日 梅雨入りした。  2019/06/26,27,28 には、定期テストが組まれている。15日前に当たる明後日以降は、臨戦態勢につき全力疾走、と中三生には告げてある。  テスト前の11日間に5日の休日があるが、さして珍しいことではなく、常態化している。授業時数が圧倒的に不足し、子どもたちにとっては御難な時代であるが、先生方はそれ相応にやり過ごし委細構わずである。実入りのいいのは、お利巧さんたちぞろいの教育業界の方たちばかりか、と思っている。  かなうならば、公教育には見切りをつけ信頼のおける私学へ、というのが賢明な選択だと思う。現行の「この国のかたち」ゆえのことである。  梅雨時には梅雨時の趣があり、子どもたちを情趣なく興趣もない全力疾走へと駆り立てるのは心苦しい。

「芒種の翌日に_ごろ寝セット」

 二階にある私の部屋は、低い天井と屋根瓦の照り返しが相俟って、梅雨入りを前にして早くも、日中にはいたたまれない熱気をはらんでいる。  家捜しをしていると、押入れから、 ◇「NIPPON NO NATSU ごろ寝マット + 枕  SET」榎本株式会社  (ごろ寝マット:140 × 55cm、 枕:45 × 20cmφ) なるものが見つかった。存在さえ忘れ、十年以上眠っていた代物である。  早速 仏間でごろ寝を決めこんでいる。カヤックとの添い寝を楽しんでいる。我が家の御仏らは、私の狼藉に、そろって眉をひそめていることは容易に察しがつくが、私はといえば、どこ吹く風で、行儀も作法もなにもなく、いっこうに平気である。  140cm という丈は、膝下がマットからはみ出し、涼感が得られ、願ったり叶ったりの寸法である。  「ごろ寝」にマットがあり、枕があるのは、腑に落ちないが、快眠さえ得られれば不足はなく、私の「NIPPON NO NATSU」の季語として定着しそうな勢いである。

TWEET「火の粉が降りかかった」

これで積年の恨みが晴れました。 溜飲が下がりました。 先月の中旬以降、心が荒んでいます。荒ぶっています。 その火の粉が三人に降りかかったということです。 過ちを犯した際に、その過ちといかに対するかで、人の真価が問われると思っております。 ご丁寧なご挨拶、どうもありがとうございました。 くれぐれもご自愛ください。 GOOD LUCK! FROM HONDA WITH LOVE.

TWEET「私の禁忌する今時」

 私の禁忌する「今時」、私の困惑している「今風」、私の手には負えない「今様」、せめて私の身辺からだけでも、人員の整理がつかないものか。整理がつかないようならば、孤立の道を選ぶしかない。もちろん無援は覚悟のうえでのことである。 「今時」か「無援」かの択一を迫られれば、迷わず私は、「無援」を選ぶ。

「拝復 P教授様_言葉が生まれるのを待つ」

 作文を書いている最中に、あるいは推敲中に、文章をぼんやり眺めていると、無意識のうちに、適当な語が浮かんでくることがあります。これらの言葉は、深層から表層にのぼってきたもので、きわめて的確です。我知らず、忘却の彼方より、適切な一語が、ということです。  これは深層意識のなせる技であり、深層領域には、我々が見聞したことのすべてが記憶されていることの証左であると、私は受け止めています。  小林秀雄は、「机の前に座って言葉が生まれるのを待つ」といい、「言葉が言葉を生む」といっています。「どんな作品になるか、はじめからそんなことが解っていたら、おもしろくないじゃないか」とも発言しています。  井筒俊彦も、「机の前に座って言葉が生まれるのを待つ」と書いています。  彼らの「書く」という営為は、両氏の「実存体験」であって、それらの作品は、彼らの「存在論的風景」であると、私は勝手に認識しております。 たびたびのお便り、どうもありがとうございました。 FROM HONDA WITH LOVE.

TWEET「神々のお出でましの間に間に」

「言葉」, 「ことば」, 「コトバ」の荒びゆえに、「こころ」は亡ぶ。主客の転倒なきことを旨としている。 「井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。「言語哲学者」としての空海の内に、井筒は同様のものを認めた。空海は、日本で最初の「深層的言語哲学者」だった。  なお、「井筒俊彦の風景」としての「空海の風景」とは、「言語に関する真言密教の中核思想を、密教的色づけはもちろん、一切の宗教的枠づけから取り外し」、「一つの純粋に哲学的な、あるいは存在論的な立場」( 『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ 1983年-1985年』 慶應義塾大学出版会 、「言語哲学としての真言」,425頁)から眺めた際に広がる「空海の風景」のことである。」  心が荒んでいる。荒ぶった心を鎮めるには、洗練された言葉と馴れ合うに如くはなく、と認識している。  「はじめにことばありき」。言葉を整えるのが先決である。  思えば、令成になり、わずかばかりの活字しか目にしておらず、今日を令成の「読書はじめ 」とすることにした。  神無月である。神々のお出ましの間に間に、ひとり抜け駆けしての読書である。  まず、ブログに引用したあれこれの文章を読み直すことからはじめることにする。 以下、 ◇ 「存在はコトバである」_「井筒俊彦の風景」としての「空海の風景」〈『意識と本質』_はじめから〉 ◇  井筒俊彦「『言語哲学としての真言』_はじめから」 ◇  井筒俊彦「『意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る』_はじめから」 です。

TWEET「以上、お知りおきください」

 文学から足を洗えないままにいます。なんでもありのヤクザな世界です。生半(なまなか)な分別があるだけに、厄介で、ヤクザよりもヤクザな世界の住人である、と自認しております 。人間の業ということを思います。  以降、真剣での果たし合い以外はお断りいたします。  「荒ぶる」の鎮静を思いつつ、 以上、お知りおきください。

「動詞_託(かこ)つ」

2019/05/30 「メールでのやり取りは、時間がかかり、困惑しています。うんざりしています。嫌気がさしております。 」 2019/05/31 「いまだ仔細は把握されていないように感じています。いまだ取っ付きで、その先があります。  さすがにもう疲れました。消耗しました。寛恕してください。  申し訳ありませんが、これを 最後に、音信不通とさせていただきます。」  上記の二文は、2019/05/25 に、故あって退塾していただいた塾生の、お母さんに宛てて書いたメールの掉尾です。一昨日にはまる一日、 昨日にはおよそ半日、メールばかり書いて過ごしたような感触を抱いています。使い慣れない iMessage(SMS)でのやり取りでしたので、ぐったりしています。  その後早速、「着信拒否」にしました。  知ってか知らずか、執拗に詰めよられると、頑なになり、殻に閉じこもるといった性癖が、私にはあります。次なる一手は、と思えど、思いつかず、行方をくらますしかないと覚悟しています。  「堪える・耐える」の意味に、「応える」の漢字が当ててあったりしますので、再読三読を強いられ、熟読にはうってつけの教材かと、思ったりもしています。  いよいよ夜逃げです。要不要を分かつ必要に迫られています。60L のザックに納まりきらないものは、打ち遣っての失踪です。  一人がいい。一人でいい。  邪魔立ては許されません。許しません。

「拝復 P教授様_とめどない「沈」の連鎖です」

「荒ぶりようは、ブログで拝見しておりました。 カヌーも人間も復元力!」 とめどない 負のスパイラルに絡めとられています。 まもなく、「荒ぶる_その三」をアップします。 思いがけずも、涼風に吹かれた思いがしております。 早々のご丁寧なご返信、どうもありがとうございました。 すてきな週末をお過ごしください。 FROM HONDA WITH LOVE. 以下、 「動詞_託(かこ)つ」 です。