吉田兼好「日、暮れ、道、遠し。我が生、既に蹉陀たり」

今日 P教授からメールをいただきました。
今日から夏休みにした、とのことです。
『徒然草』の「第百十二段」が引かれていました。

兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫
「人間の儀式、いづれの事か、去り難からぬ。世俗の黙(もだ)し難きに従ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(いとま)も無く、一生は雑事(ざふじ)の小節に障(さ)へられて、空しく暮れなん。日、暮れ、道、遠し。我が生(しやふ)、既に蹉陀(さだ)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。信をも、守らじ、礼儀をも、思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂(ものぐる)ひとも言へ、現無(うつつな)し、情け無しとも思へ。譏(そし)るとも、苦しまじ。誉(ほ)むとも、聞き入じれ。」

◇ 以下、「現代語訳」です。
「人間が生きている限りしなくてはならない社交儀礼は、どれもしないわけにはいかない。だからといって、世間のしがらみを捨てきれずに、これらのことを必ずしていると、願望も多く、体も辛く、精神的な余裕もなくなって、肝心の一生が、次から次に押し寄せてくる雑事にさえぎられてしまい、空しく暮れてしまう。もう人生が暮れるような晩年になっても、まだ究めようとする道は遠い。自分の人生は、すでに不遇のうちに終わろうとしている。まさに、白楽天の「日、暮れ、道、遠し。我が生(しやふ)、既に蹉陀(さだ)たり」という状況だ。もうこうなったら、すべての縁を打ち捨てるべき時である。私は、約束も、もう守るまい。礼儀も、気にしまい。このような決心が出来ない人は、私のことをもの狂いとも言え。しっかりとした現実感がなく、人情がないと思ってもよい。他人がどんなに私のことを非難しても、少しも苦しくはない。逆に、私のことを褒めてくれても、そんな言葉を聞く耳は持たない。」
(註)「蹉陀」は躓く。転じて好機を失う。挫折する。(兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫)
島内裕子は「徒然草の中でも、最も激烈な段である」と書いている。

2016/10/15 に「小林秀雄『末期の眼』」と題するブログを書きましたが、その思いはいまも変わりません。
「日、暮れ、道、遠し。我が生、既に蹉陀たり。諸縁を放下すべき時なり」
P教授の教えにしたがい、身支度を整えます。

◇ 島内裕子「徒然草の達成と現代」
兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫 489頁)
は名文です。遠く、私のおよぶところではありません。ぜひ書店で立ち読みしてください、とはいえ、田舎の書店でのこと、書棚には並んでいませんでしたが。