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永井荷風「日記作法」

永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』(とんぼの本)新潮社 「日記というものはつまらない記事のあいだにときどき面白い箇所がある。そういう風にしなくては味がありません」と荷風は語る(中村光夫『《評論》永井荷風』)。」  四十二年の長きにわたって書き続けられた『断腸亭日乗』。「日乗」は「日記」のことだ。連綿とした日々の記録でありながら、読む者を決して飽きさせない。本人が言うところの「面白い箇所」を巧妙に仕立てながら、さらりと書いてのけた荷風一流の「味」が魅力なのだ。(97頁)  詩人の田村隆一は、日記を長く続けるコツは感想を書かないことだと言っている。後で読み返すと自己嫌悪に駆られることが多い。だから日記というものは大抵あとで焼却されたり、どこかに放り込まれて行方不明になってしまうのだ。そうならないためには、その日の天気や、会った人、読んだ本など、事実だけを淡々と書くべきだ、という。なるほど荷風が『断腸亭日乗』を書き出したのは、満三十八歳。以来七十九歳の生涯を閉じるまで、延々と書き続けられたのは、素っ気ないほどの記述の仕方にあったのかもしれない。(88-89頁)  荷風が目指したのは、成島柳北の日記。荷風によれば、「学者でもあり、政治家でもあり、それに粋人ですから着物のことでも、食べ物のことでも実にくわしく書いてあります。柳営の虫干しのことや、そのあとで食事をいただく献立までくわしく書きとめてある。明治になつてから向島へ家を建てる普請の入費、大工の手間から材木の値段まで明細につけてありますよ」(『荷風思出草』)(97頁)  柳北同様、荷風も日々の大事から雑事までのあれこれを、執拗に書き記した。読者は私生活をのぞき見るように荷風の行動を追い、暮らしぶりに思いを馳せることができる。(97頁) 「荷風」とは、「蓮池を吹く風」であることを知った。

「幸田露伴『断腸亭日乗』を称する」

永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』(とんぼの本)新潮社  荷風の転居と前後して、幸田露伴も病身ながら、伊東から市川の菅野に移り住んでいた。露伴は荷風の『濹東綺譚』を読み、「涼しい文章だよ」とある編集者相手に褒めたという。そして娘の幸田文に、これは読むようにとすすめた唯一の小説だった。(72頁)

「永井荷風_破蓮」

永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』新潮社 「破れた蓮の葉はひからびた茎の上にゆらゆらと動く。長い茎は動く葉の重さに堪へず已に真中から折れてしまつたのも沢山ある。揺れては触合ふ破蓮(やれはす)の間からは、殆んど聞き取れぬ程低く弱い、然し云はれぬ情趣を含んだ響が伝へられる。」 (92頁) 荷風が見て取った、蕭条たる景色の美である。 以下、孫引きです。 「余韻が縹渺と存するから含蓄の趣を百世の後に伝ふるのであらう」(漱石『草枕』)

「荷風散人」

   『濹東綺譚』が手元にある。あるというのは、あたためてきたということであり、読んだということではない。荷風との交友はいまだ緒に就いたばかりである。  荷風は、江戸の情緒を求め、下町を歩いた散人であり、けっして高踏的ではない。 ◇  永井永光 , 水野恵美子 , 坂本真典『永井荷風   ひとり暮らしの贅沢』 (とんぼの本) 新潮社  のとびらには、浅草ロック座の楽屋でのことであろうか、四人の裸体の踊り子に取り巻かれ、ご満悦な荷風の写真が載っている。彼女たちは皆若くもなく、美しい姿態の持ち主たちでもない。  「三島由紀夫は『一番下品なことを、一番優雅な文章、一番野蛮なことを一番都会的な文章で書く』と『永井荷風[文芸読本]』の座談会で語っている」(31頁) (昭和二十年八月六日 広島市へ原子爆弾投下) 「昭和二十年八月初六、陰、S氏広嶋より帰り其地の古本屋にて購ひたる仏蘭西本を示す、その中にゾラのベートイユメーン、ユイスマンの著寺院などあり、借りて読む、」(36頁) (昭和二十年八月十五日 終戦) 「出発の際谷崎(潤一郎)君夫人の贈られし弁当を食す、白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり、欣喜措く能はず、食後うとうとと居眠する中山間の小駅幾箇所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停車場をも後にしたり、農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る、〈以下略〉」(47頁) 「昭和二十二年 一月初八。雪もよひの空くもりて寒し。小西氏の家水道なく炊爨盥漱(すいさんかんそう)共に吹きさらしの井戸端にて之をなす困苦いふべからず。〈以下略〉」 「一月廿一日。晴。北風寒し。井戸端の炊事困苦甚し。」 「二月廿五日。晴れ。今日も暖なり。井戸端の炊事も樹下の食事も楽しくなれり。〈以下略〉」(49頁) 「昭和二十四年六月十五日。晴。〈中略〉帰途地下鉄入口にて柳島行電車を待つ。マツチにて煙草に火をつけむとすれども川風吹き来りて容易につかず。傍に佇立みゐたる街娼の一人わたしがつけて上げませう。あなた。永井先生でせうといふ。どうして知ってゐるのだと問返すに新聞や何かに写真が出てゐるぢやないの。鳩の町も昨夜よんだわ。〈以下略〉」(61頁) 「年は廿一二なるべし。その悪ずれせざる様子の可憐なることそゞろに惻隠の情を催さしむ。」(62頁)  『断腸亭日乗』は「死の前...

永井荷風「余も其時始て真の文豪たるべし」

永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』(とんぼの本)新潮社(35-36頁)  司会者から「この頃露伴全集を読んでいるようですね」と話を向けられると荷風は「文章がうまいですね。とてもわれわれじやあれだけ書けませんよ」と答え、谷崎も「どこを開けてみても、たいがい退屈しないな、『露伴全集』だったら。鷗外さんもだけれども、露伴、鷗外だね、退屈しないのは。どいうわけかな」と続ける。特に、荷風は鷗外の熱心な読者というだけに留まらなかった。信奉者ともいえるほど心酔し、鷗外の居住まいや精神、すべてにおいて崇拝していた。自分の一生を終えるなら鷗外の命日、七月九日に死にたいとまで口にした。 大正十一年七月十九日。 帝国劇場にて偶然上田敏先生未亡人令嬢に逢ふ。上田先生の急病にて世を去られしは七月九日の暁にて、森先生の逝去と其日を同じくする由。〈中略〉余両先生の恩顧を受くること一方ならず、今より七年の後七月の初にこの世を去ることを得んか、余も其時始て真の文豪たるべしとて笑ひ興じたり。  荷風の亡骸の傍らには、鷗外作品の中でも最も熟読した『澀江抽斎』のページが開かれたままになっていたという。 文学者にならうと思つたら 大学などに入る必要はない。 鷗外全集と辞書の言海とを毎 日時間をきめて三四年繰返し て読めばいゝと思つて居ります。    『鷗外全集を読む』より

「永井荷風_破蓮」

 『曇天』 永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』新潮社 「破れた蓮の葉はひからびた茎の上にゆらゆらと動く。長い茎は動く葉の重さに堪へず已に真中から折れてしまつたのも沢山ある。揺れては触合ふ破蓮(やれはす)の間からは、殆んど聞き取れぬ程低く弱い、然し云はれぬ情趣を含んだ響が伝へられる。」 (92頁) 荷風が見て取った、蕭条たる景色の美である。 以下、孫引きです。 「余韻が縹渺と存するから含蓄の趣を百世の後に伝ふるのであらう」(漱石『草枕』)

TWEET「インフルエンザ 蔓延の、兆候の報に接し」

 百閒先生に倣いて、玄関先の入り口に制札を貼ろうか、と考えている。 「予防接種を受けられたあなたへ 吾 保菌者との接触を好まず。 また、流行を追わず」 破蓮(やれはす)敬白 いかがなものであろうか?

TWEET「制札」

 インフルエンザの蔓延により、一昨日から中学三年生が五日間の学年閉鎖になった。そして、総括(学年末)テストが、閉鎖明けの二日間に延期された。  手をこまねいてみているわけにもいかず、13:00〜16:00 の暖かい時間帯に授業を組んだ。予期せぬことで準備に追われている。入試を視野に入れての授業である。「冬の後始末講習」である。 一昨日は早朝三時に起床し、昨朝は五時、今朝は四時に起きた。 「ひとえに君たちへの愛の賜物です」 というと、子どもたちは大笑していた。  それにしても、暗雲垂れ込め…。  百閒先生に倣いて、玄関先の入り口に制札を貼ろうか、とも考えている。 「予防接種を受けた君たちへ 吾 保菌者との接触を好まず。 また、流行を追わず」 破蓮(やれはす)敬白 いかがなものであろうか? 以下、 「百閒先生の寝姿_はじめに」 です。 追伸:これで、テスト前 十日間のうち、八日が休みになりました。冬休みの続編です。

「『とんぼの本』_危うきに遊ぶ」

2017/11/26 のブログに、  「『とんぼの本』は、誠によくできた本ですが、その便利さゆえに、どこか不自由で窮屈な感じがしています。手っとり早いことの危うさを感じています。やはり、「君子危うきに近寄らず」ということなのでしょうか」 と書きましたが、書いたまでのことで、その後にいたっても、その勢いは止まず、 ◇ 松居竜五,ワタリウム美術館  [編]『 クマグスの森ー 南方熊楠の見た宇宙』 (とんぼの本)新潮社 を求めて、書店に行きましたが、置いてなく、 ◇白洲信哉 [編]『天才 青山二郎の眼力』(とんぼの本)新潮社 ◇洲之内徹,関川夏央,丹尾安典.大倉宏 ほか『洲之内徹 絵のある一生』 (とんぼの本)新潮社 の二冊をを買ってきました。そして、 ◇ 松居竜五,ワタリウム美術館  [編]『 クマグスの森ー 南方熊楠の見た宇宙』 (とんぼの本)新潮社 を、Amazon に注文しました。 ◇ 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』新潮文庫 「名人」ならずとも「危うきに遊ぶ」ところに面白みがあります。「とんぼの本」づいています。しかし、「とんぼの本」との心中は、御免こうむります。 以下、ラインアップです。思い入れのある方たちの名前が並んでいます。 ◇白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社 ◇白洲正子,牧山桂子 ほか『白洲正子と歩く京都』(とんぼの本)新潮社 ◇芸術新潮編集部 [編]『司馬遼太郎が愛した「風景」』(とんぼの本)新潮社 ◇司馬遼太郎,白洲正子,水上勉 他『近江路散歩』 (とんぼの本) 新潮社 ◇永坂嘉光,静慈圓『空海の道』 (とんぼの本)新潮社 ◇須賀敦子,松山巖,アレッサンドロ・ジェレヴィーニ,芸術新潮編集部『須賀敦子が歩いた道』(とんぼの本)新潮社 ◇永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』(とんぼの本)新潮社

永井荷風「日記作法」

永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』 (とんぼの本) 新潮社 「日記というものはつまらない記事のあいだにときどき面白い箇所がある。そういう風にしなくては味がありません」と荷風は語る(中村光夫『《評論》永井荷風』)。」  四十二年の長きにわたって書き続けられた『断腸亭日乗』。「日乗」は「日記」のことだ。連綿とした日々の記録でありながら、読む者を決して飽きさせない。本人が言うところの「面白い箇所」を巧妙に仕立てながら、さらりと書いてのけた荷風一流の「味」が魅力なのだ。(97頁)  詩人の田村隆一は、日記を長く続けるコツは感想を書かないことだと言っている。後で読み返すと自己嫌悪に駆られることが多い。だから日記というものは大抵あとで焼却されたり、どこかに放り込まれて行方不明になってしまうのだ。そうならないためには、その日の天気や、会った人、読んだ本など、事実だけを淡々と書くべきだ、という。なるほど荷風が『断腸亭日乗』を書き出したのは、満三十八歳。以来七十九歳の生涯を閉じるまで、延々と書き続けられたのは、素っ気ないほどの記述の仕方にあったのかもしれない。(88-89頁)  荷風が目指したのは、成島柳北の日記。荷風によれば、「学者でもあり、政治家でもあり、それに粋人ですから着物のことでも、食べ物のことでも実にくわしく書いてあります。柳営の虫干しのことや、そのあとで食事をいただく献立までくわしく書きとめてある。明治になつてから向島へ家を建てる普請の入費、大工の手間から材木の値段まで明細につけてありますよ」(『荷風思出草』)。(97頁)  柳北同様、荷風も日々の大事から雑事までのあれこれを、執拗に書き記した。読者は私生活をのぞき見るように荷風の行動を追い、暮らしぶりに思いを馳せることができる。(97頁)

「幸田露伴『断腸亭日乗』を称する」

永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』 (とんぼの本) 新潮社  荷風の転居と前後して、幸田露伴も病身ながら、伊東から市川の菅野に移り住んでいた。露伴は荷風の『濹東綺譚』を読み、「涼しい文章だよ」とある編集者相手に褒めたという。そして娘の幸田文に、これは読むようにとすすめた唯一の小説だった。 (72頁)

「永井荷風_破蓮」

永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』新潮社 「破れた蓮の葉はひからびた茎の上にゆらゆらと動く。長い茎は動く葉の重さに堪へず已に真中から折れてしまつたのも沢山ある。揺れては触合ふ破蓮(やれはす)の間からは、殆んど聞き取れぬ程低く弱い、然し云はれぬ情趣を含んだ響が伝へられる。」(92頁) 荷風が見て取った、蕭条たる景色の美である。 以下、孫引きです。 「余韻が縹渺と存するから含蓄の趣を百世の後に伝ふるのであらう」(漱石『草枕』)

「荷風散人」

 『濹東綺譚』が手元にある。あるというのは、あたためてきたということであり、読んだということではない。荷風との交友はいまだ緒に就いたばかりである。  荷風は、江戸の情緒を求め、下町を歩いた散人であり、けっして高踏的ではない。 ◇  永井永光 , 水野恵美子 , 坂本真典『永井荷風   ひとり暮らしの贅沢』 (とんぼの本) 新潮社  のとびらには、浅草ロック座の楽屋でのことであろうか、四人の裸体の踊り子に取り巻かれ、ご満悦な荷風の写真が載っている。彼女たちは皆若くもなく、美しい姿態の持ち主たちでもない。  「三島由紀夫は『一番下品なことを、一番優雅な文章、一番野蛮なことを一番都会的な文章で書く』と『永井荷風[文芸読本]』の座談会で語っている」(31頁) (昭和二十年八月六日 広島市へ原子爆弾投下) 「昭和二十年八月初六、陰、S氏広嶋より帰り其地の古本屋にて購ひたる仏蘭西本を示す、その中にゾラのベートイユメーン、ユイスマンの著寺院などあり、借りて読む、」(36頁) (昭和二十年八月十五日 終戦) 「出発の際谷崎(潤一郎)君夫人の贈られし弁当を食す、白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり、欣喜措く能はず、食後うとうとと居眠する中山間の小駅幾箇所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停車場をも後にしたり、農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る、〈以下略〉」(47頁) 「昭和二十二年 一月初八。雪もよひの空くもりて寒し。小西氏の家水道なく炊爨盥漱(すいさんかんそう)共に吹きさらしの井戸端にて之をなす困苦いふべからず。〈以下略〉」 「一月廿一日。晴。北風寒し。井戸端の炊事困苦甚し。」 「二月廿五日。晴れ。今日も暖なり。井戸端の炊事も樹下の食事も楽しくなれり。〈以下略〉」(49頁) 「昭和二十四年六月十五日。晴。〈中略〉帰途地下鉄入口にて柳島行電車を待つ。マツチにて煙草に火をつけむとすれども川風吹き来りて容易につかず。傍に佇立みゐたる街娼の一人わたしがつけて上げませう。あなた。永井先生でせうといふ。どうして知ってゐるのだと問返すに新聞や何かに写真が出てゐるぢやないの。鳩の町も昨夜よんだわ。〈以下略〉」(61頁) 「年は廿一二なるべし。その悪ずれせざる様子の可憐なることそゞろに惻隠の情を催さしむ。」(62頁) ...

永井荷風「余も其時始て真の文豪たるべし」

永井永光 , 水野恵美子 , 坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』 (とんぼの本) 新潮社 (35-36頁) 司会者から「この頃露伴全集を読んでいるようですね」と話を向けられると荷風は「文章がうまいですね。とてもわれわれじやあれだけ書けませんよ」と答え、谷崎も「どこを開けてみても、たいがい退屈しないな、『露伴全集』だったら。鷗外さんもだけれども、露伴 、鷗外だね、退屈しないのは。どいうわけかな」と続ける。 特に、荷風は鷗外の熱心な読者というだけに留まらなかった。信奉者ともいえるほど心酔し、鷗外の居住まいや精神、すべてにおいて崇拝していた。自分の一生を終えるなら鷗外の命日、七月九日に死にたいとまで口にした。 大正十一年七月十九日。 帝国劇場にて偶然上田敏先生未亡人令嬢に逢ふ。上田先生の急病にて世を去られしは七月九日の暁にて、森先生の逝去と其日を同じくする由。〈中略〉余両先生の恩顧を受くること一方ならず、今より七年の後七月の初にこの世を去ることを得んか、余も其時始て真の文豪たるべしとて笑ひ興じたり。  荷風の亡骸の傍らには、鷗外作品の中でも最も熟読した『澀江抽斎』のページが開かれたままになっていたという。  文学者にならうと思つたら 大学などに入る必要はない。 鷗外全集と辞書の言海とを毎 日時間をきめて三四年繰返し て読めばいゝと思つて居ります。    『鷗外全集を読む』より