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9月, 2016の投稿を表示しています

「Google さんへのお願い、再び」

   ブログを書く際には、Google の Blogger を利用させていただいています。  iPad mini3 や第六世代の iPod touch で、文章を推敲する際には、画面に表示される行数に限りがあり、上に送って、それ以下の文章を表示また推敲することができなくて、不自由な思いをしております。ご検討またご改善のほど、よろしくお願い申し上げます 。 追伸:以下、 「Google さんへのお礼状です」 今回も前回同様に、Google さんの誠意あるご回答を期待しております。

「よくよくおかしな星の下に生まれたもので」

 よくよくおかしな性格に生まれたもので、我ながらあきれています。    一夏中掃除をしませんでした。気にはなっていましたが、暑い盛りに動けば汗みずくになるのは明らかで、とても掃除をする気にはなれませんでした。夏期講習をやり過ごし、改訂された教科書を読み終え、土日講習の準備を整えと、いろいろなことを一つずつ片づけ、そしてなによりも秋めき、一昨日から掃除をはじめました。秋めいたとはいえ、ここ数日間の残暑はひときわ厳しく、動けばすぐに汗ばみます。夏にかかなかった汗をいまかいています。  掃除に凝った時期があります。酸性の汚れは弱アルカリ性の重曹(炭酸水素ナトリウム)で中和し、また重曹は研磨剤にもなり、アルカリ性の汚れは酸性の酢やビネガーやクエン酸、炭酸水で中和すれば、容易に落ちます。用途別に幾種類もの洗剤をそろえる必要はなく、食品ばかりですので、体へのまた環境への負荷も少なく安心です。また、その際には、掃除をしやすいようにと、掃除を最優先に考えた部屋の配置換え、模様替えをしました。  何ヶ月かを要し、家の中がかたづくと、あらばかりが目立つようになり、応接セットを出し、フローリングの上に敷いてあったカーペットを除き、要らないなものは思い切って捨て、カーテンを新調し、電気の傘を替え、畳の張替えをしました。一応の完成をみると、私の掃除熱はみるみるうちにしぼんでいきました。  掃除熱は冷めましたが、依然中核部分は残っていますので、いまでも大いに役立っています。一昨日には学習塾の教室として使っている八畳ふた間の掃除をしました。二時間半あまりかかりました。昨日は八畳間の書斎兼寝室と廊下、それに続く階段と玄関の掃除を終えました。三時間ほどかかりました。体力がなく休み休み、一服しながらの作業ですので、なかなかはかどりません。掃除をし終えた部屋は明るく、息苦しさから解放され清々としています。  掃除をしなければしないで無頓着で、いざはじめればはじめたで隅々まで完璧にしたく、完璧を期するのは無理難題なこととは承知しつつも、心穏やかでなく、「しないよりはした方が断然マシ。しないよりはした方が断然マシ」と呪文を唱えながら、騒がしい心を鎮めています。厄介な性格です。自分でももてあましています。  今日は私のくつろぎの場である応接間と階下の廊下と台所を予定し

「教育の浄化と再生_授業時数の圧倒的な不足と職員室の人間模様」

 次回の定期テスト前 十二日間のうちに、休日が5.5日(テストの前日は午前中授業です)あります。テスト週間中(テスト前の一週間)に3.5日の休日があります。先生方も授業時間が足りなくて、さぞお困りのことと拝察いたします。授業時数が圧倒的に不足しています。か と思いきや、子どもたちが授業内容を理解しているか否かを知ってか知らぬか、進度が速すぎるとの理由で、生徒に自習をさせる先生方もいらっしゃいます。テスト範囲に指定しさえすれば、どこかで誰かが教えてくれるとでもお考えなのでしょうか。先生方の おざなりな授業のツケは、結局のところ私どものところに回ってきます。不自然です。不謹慎です。 小・中学生にとって教師は絶対的な存在であり、一つ間違えれば 教師の言動は暴挙と化します。  たとえば、冬休み直前の「天皇誕生日」をふくむ三連休、冬休み明け直後の「成人の日」をふくむ三連休。冬休みを前後しての六日間の休日、これほどまでして学校は授業日数を稼ぎたいのでしょうか、学校とは不可解きわまりないところだとつくづく思います。  職員室における先生方同士の、ぬるま湯につかったような、厳しさを欠いた人間関係。同僚の言動は、我関せずとして見て見ぬふりをし、知らぬ存ぜぬを通し、だんまりを決めこむという悪しき慣習。第三者の目はないに等しく、学校教育の現場では手を抜こうと思えばいくらでも手を抜くことができます 。個々の先生方の良心に大きく依っています。しかし、子どもたちの先生方をみる目は厳しく、ときに辛辣なことを、心しておいてほしいと思います。教育の矢面に立つ先生方に向上心がなければ、互いに切磋琢磨しなければ、また教壇に立つ先生方が積極的に発言し、その声を真摯に受けとめる教育行政に携わる方々がいなければ、教育の浄化も再生もありえないことです。  そして最後に、 先生方には、子どもたちが時折もらす小さな声に細心の注意をはらって耳を傾けてほしいと思っています。それが私の願いです。思春期の子どもたちは皆、危ない綱渡りをしています。

吉田拓郎「人間なんてラララ ラララ ララ」

 「人間なんてラララ ラララ ララ」は、 1971年 11月20日に発売された吉田拓郎さんのアルバム『人間なんて』に収録されている曲、「人間なんて」の歌詞の一節です。私は、「1989~90年頃」に流されていたという、リクルートの女性向け転職情報誌「 とらばーゆ 」のCMで知りました。以上のことはインターネットで検索してわかったことです。You Tube にもUPされています。  かなりの反響を呼んだCMだったように記憶しています。 CMでは、明石家さんまさんが歌っているとばかり思っていましたが、私の記憶違いでした 。     「人間なんてラララ ラララ ララ」と歌う、拓郎の「人間」を見る目は確かです。「人間なんて」、「ラララ ラララ ララ」 であって、それ以上でもそれ以下でもありません。  歌では、 「人間なんてラララ ラララ ララ」 「人間なんてラララ ラララ ララ」 と二回繰り返されます。このリフレインは適当ですね。  なぜか私には、さんまさんが歌ってこその歌のような気がしてなりません。

「世界地理_事故多発地域 」

 その兆しは、夏期講習の終わりころからみえはじめました。授業中に言い間違えが頻発し、子どもたちから指摘され、その都度謝まりあわてて訂正することを繰り返しています。しばらくの間は、そんな言い間違えをしたとはとても考えられませんでしたが、それも度重なると、非は私にあることに疑いの余地はなく、弱りはてています。不思議なことに症状は世界地理の授業に多発しています。これといった病因は見当たらず、治療法もなく、自然治癒力だけが頼みです。    いよいよこのあたりが身の引きどころかと意気消沈し、今月いっぱいでリタイヤし、塾を閉じようかと考えていると子どもたちに言うと、「間違いは、私たちが指摘するからいい」との、なんとも悲喜こもごものご返事をいただき、複雑な思いを抱いています。子どもたちの応援頼みの授業はいかにも心もとなく、今後の成り行きを観察しながら、引き際だけは誤らないようにと自分にい い聞かせています。当年とって五十五歳、白秋の時季を迎え、来し方行く末を真剣に考えています。

TWEET「Google さんへのお礼状です」

 ブログを書く際には、Google の Blogger を利用させていただいています。  いつのころからか、おそらく OS X がアップデイトされたころからかと思われますが、カーソルが正常に機能しなくなり、現在の位置を知ることができずに、不自由を強いられていました。そして、二十日ほど前のことだったでしょうか、Blogger の画面の右下に常駐する「フィードバックを送信」と書かれたオレンジ色のボタンをクリックしてみました。すると「問題やアイデアをご記入ください」という画面が表示されましたので、その旨を書き送信しました。しかし、その後いっこうに改善される気配はなく、無償で提供していただいている場ですし、私のような小さな人間の意見が採用されるはずもなくと思い、いつしか忘れていました。そして、不自由は当たり前とあきらめていました。ところが、一昨日カーソルが正常に機能するようになったことに気がつき驚きました。使い勝手が断然よくなりました。  Google さんの誠意あるご対応に感謝しております。どうもありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。  貴社のますますのご発展をお祈りしております。

TWEET「釣りへ行きたしと思へども、気分は晴れず」

  最盛期を迎えた今、 釣りへ行きたしと思えども、気分は晴れず、昨年度の今頃を思えば見る影もなく、ルアーを手にしても心動かず、引きこもり、鬱々たる毎日を送っています。およその見当はついていますが、私の手にはあまることで、さりとてこのまま諦めるわけにもいかず、どっちつかずで宙を舞っています。とはいえ、釣りに行けば行ったで、堰を切ったように通いつめるに違いなく、おかしな性格に生まれたものだと思っています。  トレッキングへ行きたしと思へども、気分はすぐれず、旅へ行きたしと思へども、気は萎え、そんなこんなで今日も暮れていきます。なんとも歯切れの悪い時間を過ごしております。

「秋たけなわの、『札幌南高等学校 野球部の皆さん方へ』です」

いきなり札幌第一高戦ですね。 昨年の夏の再来ですね。 望むべくもない舞台が整いましたね。 札幌第一高は、札幌支部大会を四試合連続二けたの得点で、危なげなく勝ち上がってきました。 なに臆することなく、 気合を入れて、 自分を信じて、 前だけを見て、 勝ちにいきましょう!! GOOD LUCK! FROM HONDA WITH LOVE.

「映画『優駿 ORACION』、そして祈りについて」

  同郷の杉田成道さんが監督をされ、1988年に公開された映画 『優駿 ORACION』の中で、緒形拳さんが演じる 渡海千造が歌った、童謡「おうま」。 おうまの おやこは なかよし こよし いつでも いっしょに ポックリ ポックリ あるく おうまの かあさん やさしい かあさん こうまを みながら ポックリ ポックリ あるく  強く印象に残っているシーンです。緒形拳の歌う 哀調を帯びた「おうま」は、 童謡の域を超えたものでした。息苦しいまでに切なく哀しく聴こえました。  「 ORACION」、オラシオンとはスペイン語で「祈り」を意味します。  大江健三郎は、昭和六十二年十月二日に東京女子大学で「信仰を持たない者の祈り」と題する講演を行っています。私も信仰を持つ者ではありませんが、祈りはあります。かまびすしい祈りはやりきれません。祈りは静かであってほしいと思っています。そっと手を合わす姿は美しく、祈りには祈りで応えるしかありません。  「 ORACION」、すてきな名前です。

三好達治「甃のうへ」

あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ をみなごしめやかに語らひあゆみ うららかの跫音〔あしおと〕空にながれ をりふしに瞳をあげて 翳〔かげ〕りなきみ寺の春をすぎゆくなり み寺の甍〔いらか〕みどりにうるほひ 廂〔ひさし〕々に 風鐸〔ふうたく〕のすがたしづかなれば ひとりなる わが身の影をあゆまする甃〔いし〕のうへ 「詩の出版社 Midnight Press 」 さんより引用させていただきました。  高校二年生のとき国語の授業で習いました。そのときの記憶は今も鮮明に残っています。三十八年前のことです。しっとりしていて、読むたびにしんみりとした心持ちになります。

「秋分の日に思う」

  静かに雨が降っています。雨に濡れた庭木はしめやかにたたずんでいます。お彼岸のお中日にふさわしい日になりました。  何を思うことなく、何をすることなく、『ぼんやりの時間』を過ごしています。何かをするにはもったいない日です。  弓張山地の山なみから、まっ白な雲がわいています。

TWEET「網戸に関する、たわいなくも数年来にわたっての疑問です」

 一昨年、強風にあおられ網戸をもっていかれましたので、昨日は早々に網戸を外して台風16号の北上に備えました。  細かく目のそろった網戸の網はみごとなできばえで、美しくさえありますが、時として、網戸についてのたわいない疑問が私の頭をよぎります。  一枚の網戸の、網の部分と網の目の部分の比率は、いかほどなのでしょうか。私の目には、網の目は全体の六割ほどに映ります。もし網目の比率が六割だと仮定すれば、窓の四割を閉めきったのと同じことになります。網戸の用途は虫除けであって、通気は二の次、三の次ということなのでしょうか。風鈴と同様で涼をとるもの、ということなのでしょうか。  網戸の網と網の目の比率が気がかりなのは、私だけなのでしょうか。上手い計測 法はないものでしょうか。たわいなくも、私にとっては数年来にわたっての疑問です。 追伸:久しぶりに二階の網戸を外し、窓を開け放つと、予想外の明るい世界が広がり、心もとなくぎこちなく、外に引きずり込まれそうな危うさを感じました。

吉田兼好「日、暮れ、道、遠し。我が生、既に蹉陀たり」

今日 P教授からメールをいただきました。 今日から夏休みにした、とのことです。 『徒然草』の「第百十二段」が引かれていました。 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫 「人間の儀式、いづれの事か、去り難からぬ。世俗の黙(もだ)し難きに従ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(いとま)も無く、一生は雑事(ざふじ)の小節に障(さ)へられて、空しく暮れなん。日、暮れ、道、遠し。我が生(しやふ)、既に蹉陀(さだ)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。信をも、守らじ、礼儀をも、思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂(ものぐる)ひとも言へ、現無(うつつな)し、情け無しとも思へ。譏(そし)るとも、苦しまじ。誉(ほ)むとも、聞き入じれ。」 ◇ 以下、「現代語訳」です。 「人間が生きている限りしなくてはならない社交儀礼は、どれもしないわけにはいかない。だからといって、世間のしがらみを捨てきれずに、これらのことを必ずしていると、願望も多く、体も辛く、精神的な余裕もなくなって、肝心の一生が、次から次に押し寄せてくる雑事にさえぎられてしまい、空しく暮れてしまう。もう人生が暮れるような晩年になっても、まだ究めようとする道は遠い。自分の人生は、すでに不遇のうちに終わろうとしている。まさに、白楽天の「日、暮れ、道、遠し。我が生(しやふ)、既に蹉陀(さだ)たり」という状況だ。もうこうなったら、すべての縁を打ち捨てるべき時である。私は、約束も、もう守るまい。礼儀も、気にしまい。このような決心が出来ない人は、私のことをもの狂いとも言え。しっかりとした現実感がなく、人情がないと思ってもよい。他人がどんなに私のことを非難しても、少しも苦しくはない。逆に、私のことを褒めてくれても、そんな言葉を聞く耳は持たない。」 (註)「蹉陀」は躓く。転じて好機を失う。挫折する。(兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫) 島内裕子は「徒然草の中でも、最も激烈な段である」と書いている。 2016/10/15 に 「小林秀雄『末期の眼』」 と題するブログを書きましたが、その思いはいまも変わりません。 「日、暮れ、道、遠し。我が生、既に蹉陀たり。諸縁を放下すべき時なり」 P教授の教えにしたがい、身支度を整えます。 ◇  島内裕子 「徒然草の達成と現代」 ( 兼好,島内裕子校訂

「三世東次郎『乱れて盛んになるよりも、むしろ堅く守って滅びよ』」

「大蔵流狂言 山本家」  この夏、P教授から教えていただきました。この夏一番の贈り物です。 「徳川幕府の式楽の伝統を継承する大蔵流狂言の家柄。 初世山本東次郎則正(隠居名・東1836(天保7)-1902(明治35))に発する。 二世東次郎則忠(初め泰太郎1864(元治1)-1935(昭和10))は1898年(明治31)家督を相続、三世東次郎則重(前名河内晋1898(明治31)-1964(昭和39))が1935年(昭和10)家督を継ぐ。 現在、長男の四世東次郎則壽(1937(昭和12)-)、三男則俊(1942(昭和17-)、および その子息たち、泰太郎、則孝、則重、則秀が杉並能楽堂を拠点に公演、普及活動に努めている。」  「三世東次郎は『乱れて盛んになるよりも、むしろ堅く守って滅びよ』とその高い志を説き、武家式楽にふさわしい品格ある剛直な芸風を目指した。」  三世東次郎の「乱れて盛んになるよりも、むしろ堅く守って滅びよ」の言葉は鮮烈です。時流に媚びることのはしたなさを説き、滅びの美学を謳っています。三世東次郎の、また大蔵流狂言 山本家の矜持です。

TWEET「トイレットペーパーの摩訶不思議 その二」

 2016/07/29 に 「トイレットペーパーの摩訶不思議」 と題するブログを書きました。その後、表と裏がひっくり返っているトイレットペーパーを何度か目にしました。  今使用しているトイレットペーパーは頂き物で、表に柄が印刷された二枚重ねの上等な代物ですので瞭然です。  今朝も反転していました。好機の到来とばかり、表裏を反転させる方法を探るべく、トイレットペーパーを自室に持ちこみました。あっけない幕切れでした。二重になった「表(上)っ側」のトイレットペーパーの端を持って一周させるだけのことでした。数々のご家庭のトイレットペーパーは、時には表を見せ、時に裏を見せながら、やせ細っていくのでしょう。我知らず、裏を使用している期間も決して短かくないことと思われます。  検索すると、二枚重ねのトイレットペーパーやティッシュペーパー等は、紙の裏どおしが重ね合わされているために、両面とも表であることがわかりました。  しかし、ふだんは一枚重ねのトイレットペーパーを使っている私は、相も変わらず裏ばかりを使わざるをえないことに変わりはなく、ご機嫌斜めでしたが、ホルダーにトイレットペーパーの前後を逆にセットすればいいことに、いまさらながらに気がつき、カットする際には多少の不自由は強いられますが、少し腹の虫がおさまりました。

「子どもの、本のもち方について」

 すべての子どもたちにとって読書は害悪である、とはゆめゆめ思っていませんが、お母さんの読み聞かせを、居住まいを正してお行儀よく聴いている女の子を見るにつけ、一心に書を読みふける子どもたちを見るにつけ、「本のもち方」に「本のもたせ方」に危うさを感じることがしばしばあります。  これは単なる私の憶測にすぎませんが、子どもたちが「本のもち方」を誤まると、後で取り返しのつかないような事態が起こらないか、と心配の念が頭をもたげます。私の杞憂であれば、それにこしたことはなく、それでいっこうに構わないのですが。

TWEET「彼岸花の咲くころ」

 彼岸花は突然花をつけます。お彼岸の時分、頃合いを見計らうようにして花を咲かせます。葉もなく茎だけをすらりと伸ばした不思議な花です。彼岸に咲くという蓮華、此岸に咲く曼珠沙華(彼岸花)。私にとって妖艶な彼岸花は、花ではなく華です。  朝起きてカーテンを開けると、彼岸花の艶やかな赤い花が目に飛びこんできました。時期を逸することなくいつもの道の片隅に、昨夜来の台風の影響で茎を傾けたままの格好で花を咲かせていました。姿勢を正し直立したいつもの姿を見せるのも時間の問題かと思われます。  明日はお彼岸のお中日です。しめやかに、そっと合掌する日です。

TWEET「慶祝!閲覧数 50000 件突破!!」

前略  閲覧数が 50000件を超え、50115 件になりました。不覚にもつい今しがた気がつきました。皆々様方のおかげです。どうもありがとうございました。今後ともよろしくお願い申しあげます。                                       草々

TWEET「三度 文章の習い初めです」

 夏期講習に明け暮れた夏。そして、改訂された教科書を読んで過ごした休み明け。およそ二か月の空白の時間に、すっかり閲覧数を減らしてしまいました。  初心にかえって、三度(みたび) 文章の習い初(ぞ)めです。「TWEET(小鳥のさえずり)」と銘うって、文章のお稽古をはじめました。  この間の統計を見ると、インターネットで調べものをしている人が、偶然にも私のサイトに立ちよったことがはっきりと見てとれます。ある程度の数の文章を書いた故のことだと思っています。  スピーカーにはエージング(慣らし運転)が必要です。エージング後のスピカーの音の変わりように期待しています。ぐるりを見渡せど、閲覧者の顔は思い浮かばず 、自分だけが恃みです。

「民間を恃まない、教育の浄化と再生について」

 豊橋市内における歯科医院の数はコンビニの数より多いといわれていますが、学習塾の数はその比ではないと思われます。個別指導で懇切丁寧に、より解りやすく解るまで、どんな質問にも即座に答え、休日にも開いている自習室を備え、と今時の学習塾は至れり尽くせりです。子どもたちのお客様あつかい化が進み、子どもたちは自ら考えることをやめ、自律心を失うばかりです。転ばぬ先の杖はつきたくないものです。  子どもたちは学校の授業で解らなければ塾で教えてもらえばいいと思い、学校の先生方も塾を頼み、もはや自浄を期することは困難です。  この世の中から学習塾や予備校の類の学校教育の下請け機関がなくなれば、子どもたちは自学自習をするのでしょうか。活字を厭うことなく読むのでしょうか。学校の先生方はそれだけの覚悟をもって授業をされるのでしょうか。日本の子どもたちの学力は著しく低下するような気がしてなりません。  ちなみに当塾の(高校)受験生の家庭での受験勉強の時間はゼロです。結局は塾で抱えざるをえなくなります。  落ちるところまで落ちなければ、教育の浄化も再生もないと考えています。学校教育、民間の教育機関も含め、子どもたちを取りまく今の教育界の惨状は目にあまります。  常に教えてくれる誰かが隣にいて、質問をすればすぐに答えてくれる環境に身を置かなければ、学ぶことができないというのはさびし過ぎます。近い将来行きづまるのは目に見えています。インターネットが普及し、自学自習をする環境が整った今、教育界は時流に逆行しています。  一刻も早い教育の浄化と再生を切に願っております。

TWEET「iPhone 7,iPhone 7Plus を見にいく」

 昨夜、ヤマダ電機 テックランド豊川店 iに、 Phone 7,iPhone 7Plus を見にいってきました。嵐の前の静けさか、店内に 人はまばらでした。事前にスペックを見ていきましたが、iPhone の使用者でない私には対照とするものがなく、手にとって操作してみたものの、「発明」を実感するまでにはいたりませんでした。  SIMフリー化時代を迎え、お手頃な値段の  iPhone SE に人気が集中するかと思えばそうでもなく、やはりハイエンドモデルが売れ筋ようです 。 iPhone SE は一定数の数の確保を目的としたモデル のようです。  いつでもどこにも、 2013年9月に発売された  iPhone 5s が並んでいるを見て、不思議に思っていました。詳細は、以下のサイトに譲 りますが、   iPhone 5s こそが、 SIMフリー化時代の申し子だったんですね。賢い選択ですね。 「3年前の「iPhone 5s」がいまだに“現役”の理由 (1/2)」  MacBook のキータッチの軽やかさは特筆ものです。軽快で心地よく、キーに触れる楽しみがあります。タッチパネルにタッチするのに近い感触があります。それもそのはずです。 「キーボードを隅から隅まで考え直しました。」 と謳うだけのことはあります。Apple の真骨頂です。さまざまな創意がキーボードを支えていることを知り、納得しました。  ちまたでは、 MacBook Pro、MacBook Air の発売も予想されています。秋の Apple Special Event が楽しみです。  Phone 7,iPhone 7Plus の顔をのぞきにいったのですが、ミイラ取りがすっかりミイラになってしまいました。Apple マジックです 。

TWEET「おろし立て 二題」

 おろし立てのTシャツは、風合いもよく、肌ざわりも着心地も申し分なく、そう簡単には洗う気に なりません。洗濯後のTシャツは別物になってしまいます。しかし、世の中には殊勝な人たちがいるもので、買ってきたばかりのTシャツを、洗濯してから着るというのですから驚いてしまいます。誰が手にしたのか、誰が袖を通したのかわからず汚ない、というのがその理由だそうですが、汚なさに耐性のある私にとっては、とうてい納得のいかないお話です。  逆に、おろし立ての白色を基調としたスニーカーほど、履いていて落ち着かないものはありません。足元ばかりが気になって、おちおち歩いていられません。そんなとき私は庭の土でほどよく汚してから履くことに決めています。  いずれもいずれも少々汚れていることが私にとっては不可欠なようで、 以上、私の「おろし立て」二題でした。  なお、大根や生姜やわさび、ニンニクに人参、魚はおろし立てが一番なのは言うまでもないことです。

TWEET「台風16号の北上によせて」

 全く不謹慎なお話で恐縮ですが、台風が近づくとドキドキします。ワクワクします。が、暴風雨圏内に入ることはごく稀で、その落差は大きく、ガッカリします。最接近したらしたで、ただおろおろするばかりで、荒れくるう暴風、窓に瓦に容赦なくたたきつける暴雨におののき、家は揺れ心もとなく、さりとてなすすべもなく、なりをひそめやり過ごすだけです。台風一過後に広がる青空の青を見上げ、恨めしくも茫然と立ちつくします。  が、数年前から様相は一変し、今の私にとって台風は、ただただ怖いだけの存在になりました。ようやく私も人なみに、大人になったようです。  「地震雷火事親父」、火事はことさら取りあげていうまでもなく、自然は美しい姿を見せてくれる反面、ときには脅威にもなります。その両者を受け容れることができれば不足はないのですが、悠長に構えているわけにはいきません。  父は昨日八十三歳の誕生日を迎えました。若き日の「親父」は、私とよく衝突し、感情のおもむくままに怒鳴りちらし、怖くもありやりきれなくもある存在でしたが、三年前に転倒して以来、デイケアとヘルパーさんのお世話になり、介助なしには外出できない状態になりました。父の老いていく過程を目のあたりにするのは辛く、哀しいことです。人の老いの非情さを私の目の前で繰り広げる今の「親父」は、私にとってはいつになく怖い存在です。

TWEET「『傘下』に遊ぶ」

   気持ちよく雨が降っていました。   「雨が降ったら濡れればいいさ」という諦念をもつまでには至りませんでしたが、 ゴアテックス仕様のローカットのトレッキングシューズで足元をかため、少し大きめの傘をさして、散歩に出かけました。  傘をいただき、降る雨に四囲を囲まれた「傘下」は、一人を楽しむにはこの上のない空間で、居ごこちがよく、快適そのものでした。舗道を勢いよく下る降水や水たまりも意に介せず「ぴちぴちちゃぷちゃぷ」、「らんらんらん」とまでは無邪気ではありませんでしたが、私のささやかな遊びが一つまた増えました。哀しい一人遊びです。  次回は 「雨が降ったら濡れればいいさ」とうそぶき、久しぶりに雨に打たれてみようと張り切っています。  台風16号の行方が気になります。直撃しそうです。被害のでないことを祈るばかりです。

TWEET「十六夜の月」

 一昨日は仲秋の名月でした。深更、南の空に高く照る名月を鑑賞しようと、意気込んでいましたが、不覚にも、また情けなくも寝入ってしまいました。  昨夜、南の空にかかる十六夜の月を観ました。「月に叢雲、花に風」のことわざ通りのありようで、残念な思いをしました。  昨日、懸念の今年度改訂された中学校の教科書を読み終えました。私の夏の終わりです。秋のはじまりです。お月見をもって、秋を迎えられたのも、また何かのご縁ということなのでしょうか。

TWEET「夏草や」

 一夏中、庭に手を入れずに過ごしました。これは見ものとばかり、草には一本たりとも手をかけず、放っておきました。我が家の庭はすごいことになってしまいました。直立する ヒメムカシヨモギが群生し、高いものは軒を超え、いったいどこまでとどくものやらと、期待もし、また楽しみにもしていましたが、軒を 30cm ほど超えたところで、穂を出し、花を咲かせ、実を結びました。  丈の高いヒメムカシヨモギが幅を利かせ、地面にまで陽がとどかず 、いつもの夏とは植生がすっかり変わってしまいました。  三日前シルバーさんにお願いして草を取っていただきました。四人がかりで 8時から15時まで、延べ 36時間におよぶ工程でした。シルバーさんからは、「こんな家も珍しい」とのおほめの言葉を頂戴し、いたく恐縮しました。  地肌が露わになって殺伐とした庭は、季語を失い、おかげで「兵どもが夢の跡」に思いをはせるよすがを失くしてしまいました 。これもまた無常なるが故ということなのでしょうか。

「三日遅れの白露の日に思う」

 台風一過後、季節がめぐり、朝夕めっきり過ごしやすくなりました。  白露とは、「草の葉に白い露が結ぶという意味。夜の間に大気が冷え込み、草花に朝露が宿ることから名づけられたのでしょう」とのことです。白露から季節は、仲秋です。今年の仲秋の名月は、九月十五日です。  九月一日以降、今年度改訂された中学校の教科書を読んでいます。何はさておき、一日中読みふけっています。読んで理解するだけなら気が楽なのですが、子どもたちにどう説明しようか、どのように授業を組み立てようかと考えながら、下線を引き、書き込みをしながらの読書ですので思うようにははかどらず、鬱々とした気の重い毎日を過ごしています。  各教科、改善されたところもありますし、舌足らずの表現もあります。また、次回(四年後)の改訂時には明らかに修正されると思われる箇所がはっきりと見てとれます。これは今回に限ったことではありません。おなじみの光景です。安易な教科書づくりが繰り返されています。  先が見えてきました。教科書を読み終えた時点で私の夏は終わりです。その後は秋に浸ろうと思っています。ブログを書き継ごうと思っております。

「夏期講習が遺したもの」

 昨日夏期講習を終え、今日は一日中、今年度改訂された教科書を読んでいました。が、上手くありません。  おしゃべりがすぎる のは好ましくありません。 集中力を欠き、 「座 力」 を欠いています 。心がざわついています。 一人黙している時間の尊さを思 います。 内に向くべきはずの注意が、外に向かっています。 気が抜けます。回復するまでには、相当 の時間がかかりそうです。饒舌は常に禁物です。