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白洲正子「短い生をたのしまずば如何せん」

「荒川さんを憶う」 ー最期の時をたのしむー 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』新潮社  その翌年の夏、荒川(豊藏、陶芸家)さんは亡くなられた。最後のころは寝たきりであったと聞くが、それにつけてもあの時お目にかかっておいてよかったと思う。おいとまする時、荒川さんは長い間私の手を握っていて、お互いに無言で「お別れ」をしたが、死を覚悟した人との決別は、悲しいけれどもどことなく爽やかな印象を与えた。一生土を練って練りあげた骨太の手は暖かく、今でもその感触は私の掌に残っている。  同じ年の秋には、私の夫も死んだ。つづいて加藤唐九郎さんも亡くなった。あの時いっしょに訪問した美術評論家の洲之内徹さんも、つい先逹て急逝された。そうしてみんな私の周囲から姿を消して行く。いずれは私もお仲間入りをするだろうが、せめて生きている間は、生きなくてはと思う。荒川さんが示して下さったように、短い生をたのしまずば如何せんと思うこと切である。 (136-137頁)

洲之内徹「セザンヌの塗り残し」

「セザンヌの塗り残し」 洲之内徹『セザンヌの塗り残し 気まぐれ美術館』新潮社  高松から帰って二、三日後に、私はクラさんに会い、はじめにビヤホールでビールを、次にコーヒー屋でコーヒーを飲んだ。クラさんを紹介すると長くなるから、いまは、ここ数年安井賞展に続けて出品している若手の画家ということだけにしておこう。そのクラさんが、コーヒー屋を出てから有楽町の駅まで歩く途中で、私にこう言った。 「この前の、セザンヌの塗り残しの話、面白かったですね」 「僕が言ったの? 何を言ったっけ」  いつも口から出まかせに思い付きを喋っては忘れてしまう私は、すぐには思い出せなかったが、言われて思い出した。セザンヌの画面の塗り残しは、あれはいろいろと理窟をつけてむつかしく考えられているけれども、ほんとうは、セザンヌが、そこをどうしたらいいかわからなくて、塗らないままで残しておいたのではないか、というようなことを言ったような気がする。  そして、言ったとすれば、こういうふうに言ったはずだ。つまり、セザンヌが凡庸な画家だったら、いい加減に辻褄を合わせて、苦もなくそこを塗り潰してしまったろう。凡庸な絵かきというものは、批評家も同じだが、辻褄を合わせることだけに気を取られていて、辻褄を合わせようとして嘘をつく。それをしなかった、というよりもできなかったということことが、セザンヌの非凡の最小限の証明なんだ。  というふうに言ったと思うのは、実は、この頃私は、しきりに、辻褄を合わせようとする嘘ということを考えるからである。嘘というもののこの性格は、日常生活でも芸術の世界でも同じだが、芸術では致命的なのではあるまいか。これも私の、十分に時間をかけて考えてみなければならないことの一つだ。しかし、クラさんに言われて思い出すようでは心細い。  私はまた、この頃、眼の修練ということを考えている。絵から何かを感じるということと、絵が見えるということとは違う。これまた、これだけでは到底わかってもらえそうもないが、私が身にしみて感じる実感なのだ。先刻の田中の芩ちゃんが、いつか私の画廊で、冗談ではあったが、私を指して傍の人に「こいつは絵がわからないから」と言ったとき、私はつい肚を立てるのを忘れて、ほんとうにそうだなと思った。  絵から何かを感じるのに別に修練は要らないが、絵を見るには修練が要る。眼を鍛えなければならないの

洲之内徹「これが靉光か!」

「秋田義一ともう一人」 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社  これが年を取ったということかもしれないが、この頃、私は、物を考えるということをあまりしない。何か感じても感じっぱなしで、それを考えて行くということをしないのだ。 (中略)  そのゴッホの二枚目の絵の前に立ったとき、突然、私は、 「ただ絵を売るためだけなら、何も、こんないい絵を描くことはないんだよなあ」  と、思わず口の裡で呟いてしまった。そして、この、全く以ってお粗末至極な感想に呆れて笑ってしまったが、しかし、すぐに、待てよ、これはだいじなテーマかもしれないぞ、よく考えてみなきゃあ、と思った。  思ったが、それから半年以上たっても、私はそのことで何も考えていない。(295頁) 「これが靉光か!」 洲之内徹,関川夏央,丹尾安典.大倉宏 ほか『洲之内徹 絵のある一生』(とんぼの本)新潮社   靉光はかつてルオーの絵を見て、「やっちょるのお、手を抜いちょらんわい」と感心していたという。洲之内は、そんな靉光のひたむさが好きだったのだ。(88頁)

洲之内徹「絵が絵であるとき」

「男が階段を下るとき」 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社 「批評や鑑賞のために絵があるのではない。絵があって、言う言葉もなく見入っているときに絵は絵なのだ。何か気の利いたひと言も言わなければならないものと考えて絵を見る、そういう現代の習性は不幸だ」(166頁) 「今年の秋」 洲之内徹『人魚を見た人   気まぐれ美術館 』新潮社 「汗をかきながら興奮して撮影を続けていたMさんは、終ると、その間傍でただ呆んやり煙草をのんで眺めていた私に、 「取材はもういいんですか」 と、けげんそうに言った。そのとおりで、取材なんて面倒なことは、私は全然する気にならないのであった。美しいものがそこにあるという、ただそれだけでよかった」(90頁) 「秋田義一ともう一人」 洲之内徹『人魚を見た人  気まぐれ美術館 』新潮社 「最近では、九月に、旅行の帰途ふとその気になって倉敷へ寄ったとき、時間がなくて大原美術館だけ、それも本館と新館とを三十分ずつ駈足で見て廻ったが、こういう見方にも思い掛けぬ面白さがあって、特に日本人の画家のものを並べた新館では、その一人一人の画家について従来いろいろと語られている美術史家や批評家の言葉を超えたその向こうに、その画家の存在はあるのだということを、なぜかしらないが、私は強く感じた」 (中略)  私は更に、日本人の油絵は、岸田劉生だろうと萬鉄五郎だろうと小出楢重だろうと安井曾太郎だろうと川口軌外だろうと鳥海青児だろうと松本竣介だろうとその他誰であろうと、みんな共通して、われわれ日本人のある切なさのようなもの、悲しみのようなものを底に持っている、と思った」 (296頁)

「いまなぜ洲之内徹なのか」

下記の白洲正子の文章が、発端となった。 「さらば『気まぐれ美術館』洲之内徹」 白洲正子『遊鬼』新潮文庫 「小林(秀雄)さんが洲之内さんを評して、「今一番の評論家だ」といったことは、週刊誌にまで書かれて有名になったが、 (中略)  だが、小林さんの言葉は私がこの耳で聞いたから確かなことなので、一度ならず何度もいい、その度に「会ったことないの?」と問われた。  変な言いかただが、小林さんは「批評」というものにあきあきしており、作者の人生と直結したものでなくては文学と認めてはいなかったのである。小林さんだけでなく、青山二郎さんも、「芸術新潮では洲之内しか読まない」と公言していた」(220-221頁) 「自転車について」 洲之内徹『帰りたい風景 気まぐれ美術館』新潮社  「松田(正平)さんのアトリエは汚いが、汚ならしくはない。そういう汚ならしいもの、他人を意識したものが一切ない」( 286頁)  洲之内徹は、「汚ならしいもの」,「 他人を意識したもの」 を徹底して遠ざけた、清廉の人であった。洲之内の文章には温もりがあり、一流のユーモアがある。  荷風の『断腸亭日乗』といい、洲之内の『気まぐれ美術館』といい、文体らしき骨子をもたない文章に出会った意義は大きい。  なお、タイトルは、 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』 から拝借した。

小林秀雄「末期の眼」

「サヨナラ」 A・M・リンドバーグ著, 中村妙子訳『翼よ、北に』みすず書房 「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。…けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受けいれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしない Good-by であり、心をこめて手を握る暖かさなのだ ー 「サヨナラ」は。  人と別れ、遠ざかっていく人の後ろ姿を見ながら、「サヨナラ」と思うことが多くなりました。別離に際して感傷的になることが少なくなりました。別れはいずれやってきます。年齢(とし)を重ねるつれ、事実は事実としてあるがままに受け容れることができるようになってきました。言葉としては知っていても、いまにいたるまで何もわかっていなかったということです。  「四苦」を思い、「八苦」を思います。ウィキペディアには、「苦とは、『苦しみ』のことではなく『思うようにならない』ことを意味する」と書かれています。「思うようにならないこと」ならば、我が身に引きうけるしかありません。 小林秀雄最後の対談「歴史について」考える人 2013年 05月号 新潮社 「繰り返して言おう。本当に、死が到来すれば、万事は休する。従って、われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。」 ー「本居宣長 32頁」  小林秀雄の凄みのある文章です。鬼気迫るものを感じます。やがて、すべての人・もの・こと、との別離のときがやってきます。「万事が休する」ときが訪れます。自覚のある今、責任のある今を過ごすこと、「さようなら」と身を引くときの、引き際の覚悟を、小林秀雄 は、私たちに迫っているのだと思います。 「神には過去もなければ未来もなく、神は『永遠の今』という時間の表現者である」といった内容の文章を読んだ記憶があります。神に過去もなく未来もなければ、私たちに過去や未来があるはずもなく、神は「永遠の今」の表現者ですが、私たちに与えられた時間は有限です。 芥川龍之介「或旧友へ送る手記」(

アン・リンドバーグ「サヨナラ」

アン・モロー・リンドバーグ「サヨナラ」 A・M・リンドバーグ著,中村妙子訳『翼よ、北に』みすず書房 「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。…けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受けいれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしない Good-by であり、心をこめて手を握る暖かさなのだ ー 「サヨナラ」は。 「女性飛行家の草分けが書く「東洋』への旅」 アン・モロー・リンドバーグ著 / 中村妙子訳『翼よ、北に』みすず書房 狐『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』ちくま文庫  感受力も並でない。とくに日本語の「サヨナラ」について語るところ。「文字通りに訳すと、『そうならなければならないなら』という意味だという。これまで耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉を私は知らない」とアンは書く。英語でもフランス語でもドイツ語でも、別れの言葉には再会の希望がこめられている。祈りがあり、高らかな声がある。  しかし日本語の「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。「それは事実をあるがままに受けいれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている」  われわれにとっても思いがけない読みだ。須賀敦子も、そこに感銘を受けたと書いていた。アン・モロー・リンドバーグは二00一年二月、逝去。九十四歳だった。(338-339頁) 「葦の中の声」 須賀敦子『遠い朝の本たち』ちくま文庫 さようなら、についての、異国の言葉にたいする著者の深い思いを表現する文章は、私をそれまで閉じこめていた「日本語だけ」の世界から解き放ってくれたといえる。語源とか解釈とか、そんな難しい用語をひとつも使わないで、アン・リンドバーグは、私を、自国の言葉を外から見るというはじめての経験に誘い込んでくれたのだった。やがて英語を、つづいてフランス語やイタリア語を勉強することになったとき、私は何度、アンが書いていた「さようなら」について考えたことか。しかも、ともすると日本から逃

白洲正子「永井さんの『くるるの音』」

永井さんの「くるるの音」 白洲正子『夕顔』新潮文庫  昭和五十八年四月の「新潮」臨時増刊号は、小林秀雄の追悼記念号である。  その中に永井龍夫(たつお)氏が、『くるるの音』という題で、小林さんについて語っている。「伝説の第一作」、「弔詞」、「羨望(せんぼう)」とつづいた後の「附記」にはじめて出てくるのであるが、くるるというのは旧式の雨戸についている桟(さん)のことで、夕方になって、庭をひと眺(なが)めしてから、雨戸を締め、最後にくるるがコトンと落ちるのを耳にする時ほど侘(わび)しく、淋(さび)しいことはないと、そういうことが記してある。  くるるという言葉を知ったのはその時がはじめてで、私の家にも古い雨戸があるが、よほど材が枯れて軽くならないと、自然には落ちない。自然にコトンと落ちるようになった時、その家に長く住みついた感慨と愛着が湧(わ)くように思われる。  わずか半頁(ページ)にも満たない永井さんのくるるの音の印象はあまりにも強く、読んだ時たしかに耳元で聞えたし、今でも聞えているような気がするので、前に何が書いてあったか忘れていた。今度読み直してみて、前段の三章があってこそくるるの音が生きて、ひびいてくるのだということが解った。  それについては皆さん御承知のことだから、かいつまんで記しておくと、第一章は、小林さんと初対面の時の憶(おも)い出話、次の「弔詞」はお葬式の際に読んだもので、小林さんに語りかけるかたちで、再会を信じていたが果たせなかったことを淡々と述べた後、「あなたの好きな菜の花が咲きました。さようなら。小林さん」と、六十年の友情と鞭撻(べんたつ)に深い思いをこめて語っている。  三番目の「羨望」の章は、小林さんが大手術をして鎌倉(かまくら)の家に戻った時、玄関でひと目会っただけで帰ったこと、その後は小林家のそばを通っても、遠慮して見舞に立ち寄らなかったことを、私は遺族からも聞いていたが、江戸っ子の永井さんは、何事につけてもよく気がつく、思いやりの深い人物だったのである。  永井さんの文章について今さら云々(うんぬん)するのもおこがましいが、その三章を通じて悲しいなんて言葉は一つもなく、寂光のように明るく静かな空気がただよっている。そこには二人の間にかもされた友情が如実(にょじつ)に描かれており、簡潔な筆致の奥に一つの歴史が紛(まが)うことなく流れてい

小林秀雄「梅原さんの言葉は絵なんだ」

「北京の空は裂けたか 梅原龍三郎」 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫 「それについて思い出すのは、四月に出版された「新潮」の「小林秀雄追悼記念号」に、吉井画廊の吉井長三さんが書いている話である」  ーーある日、吉井さんが、梅原さんのお宅へ行くと、先生はこんなことをいわれた。 「今朝起きたら、バラの花がとても美しかった。それで、十五号のカンバスにさらっと描いてみたが、一寸(ちょっと)いいのが出来た。絵具がまだぬれてるので、そこに裏返しにして立て懸けてあるから、よかったら見給(たま)え」  そこで吉井さんは探してみたが、そんな絵はどこにもない。先生は勘違いをされていたのである。その話を小林さんにすると、吉井さんは叱(しか)られた。 「絵は、実際には描いてなかったって? だから何なのだ。勘違いが、おかしいか。…お前はな、それは、大変なことを聞いているんだぞ。判(わか)るか。梅原さんは、行住座臥(ざが)、描いているんだ。筆を持たなくたっても、描いているんだ。常に描いているから勘違いもする。…だいたい、梅原さんの言葉は、もう言葉でない。絵なんだ。言葉が絵なんだ」から、君は大事に聞いて、記録しておけ、といわれたそうである。  小林さんが昂奮(こうふん)している様子が目に見えるようだが、私もこの文章を読んだ時は感動した。それはまだ小林さんが元気な時の話で、たぶん二、三年前の出来事であろう。(187-188頁) 「新潮」昭和五十八年四月臨時増刊号

「梅原龍三郎 弔電」

「北京の空は裂けたか 梅原龍三郎」 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫 「小林秀雄さんは梅原先生の一番の理解者であった」 「どういう縁でか、小林さんが慶応病院で亡(な)くなった時、梅原さんも一階上の病棟で呻吟(しんぎん)していられた。そんな時に、年下の友人を失うことは、さぞかし辛(つら)いことであろう」 「先生の深い悲しみは、小林さんの葬儀の際の弔電によく現れていた」 「梅原さんでなくてはいえないような、直截(ちょくせつ)で、簡明な表現だった。    美しき春を迎えし時に    悲しき報(しら)せを聞き    在りし日の    君を想うとき     哀しみは      限りなし  これを聞いて感銘をうけぬ参列者はいなかった」(189頁)

白洲正子「三月一日の夜半すぎ」

「小林秀雄の骨董」 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫  三月一日の夜半すぎ、電話を貰(もら)って私は雨戸をあけた。空には十六夜(いざよい)の月がかがやき、梅の香りがただよっていた。私たちが病院へ駆けつけた時、小林さんは、既に亡(な)く、二、三の家族だけが静かに最期(さいご)をみとっていた。その死顔は穏やかで、やっと俺も休むことができると、呟(つぶや)いているようであった。私は、「涅槃(ねはん)」ということの意味をはじめて知った心地がして、思わず手を合わせた。(67-68頁) 「新潮」昭和五十八年四月臨時増刊号

小林秀雄「バカ、自分のことは棚に上げるんだ!」

「小林秀雄氏」 白洲正子『夢幻抄』世界文化社  そんなことを考えていると、色んなことが憶い出される。はじめて家へみえたとき、 ー その頃は未だ骨董の「狐」が完全に落ちてない時分だったが、「骨董屋は誰よりもよく骨董のことを知っている、金でいえるからだ」という意味のことをいわれた。私にはよくのみこめなかったが、少時たって遊びに行ったとき、沢山焼きものを見せられ、いきなり値をつけろという。 「あたし、値段なんてわかんない」 「バカ、値段知らなくて骨董買う奴があるか」  そこで矢つぎ早に出される物に一々値をつけるハメになったが、骨董があんなこわいものだとは夢にも知らなかった。その頃小林さんは、日に三度も同じ骨董屋に通ったという話も聞いた。  あるとき、誰かがさんざん怒られていた。舌鋒避けがたく、ついに窮鼠猫を嚙むみたいに喰ってかかった。 「僕のことばかし責めるが、じゃあ一体、先生はどうなんです?」 「バカ、自分のことは棚に上げるんだ!」  最近はその舌鋒も矛(ほこ)をおさめて、おとなしくなったと評判がいい。 (15-26頁)  事ここに極まった。

「『本居宣長』をめぐって 小林秀雄 / 江藤淳」

「『本居宣長』をめぐって 小林秀雄 / 江藤淳」 小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫 「学問をする喜び」 江 藤  もう一つ、これもやや自由な感想ですが、あの中には先ほど申し上げた通り、中江藤樹や伊藤仁斎や荻生徂徠(契沖、賀茂真淵、上田秋成、堀影山)などが登場して、江戸の学問が展開されていくさまが生き生きと描かれています。それにつけても反省してみると、日本人の学問の経験といいますか、まねびの喜びというものは結局、あの時期にきわまっていたのではないかという気がして来ました。あれに匹敵するようなまねびというか、学問探求の楽しみや喜びを、明治以来百何年間果してわれわれは経験し得たのかと考えてみると、きわめて懐疑的になります。藤樹も仁斎も徂徠も、真淵も宣長も非常に豊かで、しかも、喜びに満ちていたという事実を振り返ると、大きく見れば明治以来、もう少し細かく言えば最近三十数年の学問というものは、いったいどういうことになっちゃっているんだろうと思わざるを得ません。 小 林  学問をする喜びがなくなったのですね。(中略)宣長にとって学問をする喜びとは、形而上なるものが、わが物になる喜びだったに違いないのだから。 江 藤  そうでしょうね。 小 林  学問が調べることになっちまったんですよ。 江 藤  調べるために調べるという同義語反復におちいってしまった…。 小 林  道というものが学問の邪魔をするという偏見、それがだんだん深くなったんですね、どういうわけだか。 江 藤  つまり、小林さんのおっしゃる道というものは、発見を続けていって、その果てに見えはじめるというようなものだろうと思いますが…。 小 林  そうなんですね。 江 藤  ところが、いまは逆に道の代用品にイデオロギーというような旗印を最初に掲げておいて、その正しさを証明していくという考え方が流行しているように思われます。(378-379頁) 江 藤  明治末期、大正初年から、すでに学ぶ喜びが欠落しはじめたということになると、日本人の身についた本当の学問というものは、荒涼とした戦国の余塵を受けながら、中江藤樹のような人が学問に志したときから宣長の出現に至るまでの、たかだか百五十年ほどの間にできあがったということになるのだろうか、その学問こそわれわれがいつもそこへ還っていかなければならない本物の学問なのだろうか、という切実

小林秀雄「鉄斎,光悦,雪舟を書く」

小林秀雄「鉄斎の自在」 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 「鉄 斎 II」 「志などから嘗(かつ)て何かが生れた例(ため)しはない」(173頁) 「絵かきとして名声を得た後も、鉄斎は、自分は儒者だ、絵かきではない、と始終言っていたそうだが、そんな言葉では、一体何が言いたかったのやら、解らない。絵かきでないといくら言っても、本当に言いたかった事は絵にしか現れなかった人なのだから、絵の方を見た方がはっきりするのである」( 175-176頁) 「鉄斎は画家を信じなかったが、画家の方で鉄斎を信じた」(178頁) 「鉄 斎 III」 「鉄斎の筆は、絵でも字でも晩年になると非常な自在を得て来るのだが、この自在を得た筆法と、ただのでたらめとの筆とが、迂闊(うかつ)な眼には、まぎれ易いというところが、贋物(にせもの)制作者の狙いであろう。例えば、線だけをとってみても、正確な、力強い、或(あるい)は生き生きとした線というような尋常な言葉では到底間に合わない様な線になって来るので、いつか中川一政氏とその事を話していたら、もうこうなると化けているから、と氏は言っていた。まあ、そんな感じのものになって来るのである。岩とか樹木とか流木とかを現そうと動いている線が、いつの間にか化けて、何物も現さない。特定の物象とは何んの関係もない線となり、絵全体の遠近感とか量感とかを組織する上では不可欠な力学的な線となっているという風だ。これは殆(ほとん)ど本能的な筆の動きで行われている様に思われる。最晩年の紙本(しほん)に描かれた山水(さんすい)などに、無論線だけには限らないが、そういう言わば抽象的なタッチによって、名伏し難い造型感が現れているものが多い」(180-181頁) 「(八十歳の半ば頃を過ぎると)鉄斎の絵は、どんなに濃い色彩のものでも、色感は透明である。この頃を過ぎると、潑墨(はつぼく)は次第に淡くなり、そこへ、大和絵(やまとえ)の顔料(がんりょう)で、群青(ぐんじょう)や緑青(ろくしょう)や朱が大胆に使われて、夢の様に美しい。ああいう夢が実現出来る為には、自然を見てみて、それがいったん忘れられ、胸中に貯えられて了わなければならないであろう」 (182頁)  我知らず、鉄斎は、思想を絵にする他なかった。鉄斎の絵に仮託し、小林秀雄が語るのは、宗(おおもと)の教えである。晩年の無頓着で

小林秀雄「中原中也の思い出」

「中原中也の思い出」 小林秀雄『人生について』中公文庫  「中原に最後に会ったのは、狂死する数日前であった」(74頁)とは、凄絶な一文である。    汚れつちまつた悲しみに    今日も小雪の降りかかる    汚れつちまつた悲しみに    今日も風さへ吹きすぎる  中原の心の中には、実に深い悲しみがあって、それは彼自身の手にも余るものであったと私は思っている。彼の驚くべき詩人たる天資も、これを手なずけるに足りなかった。彼はそれを「三つの時に見た、稚厠(おかは)の浅瀬を動く蛔虫(むし)」と言ってみたり、「十二の冬に見た港の汽笛の湯気」と言ってみたり、果ては、「ホラホラ、これが僕の骨だ」と突き付けてみたりしたが駄目だった。言い様のない悲しみが果しなくあった。私はそんな風に思う。彼はこの不安をよく知っていた。それが彼の本質的な抒情詩の全骨格をなす。彼は、自己を防禦する術をまるで知らなかった。世間を渡るとは、一種の自己隠蔽術に他ならないのだが、彼には自分の一番秘密なものを人々と分ちたい要求だけが強かった。その不可能と愚かさを聡明な彼はよく知っていたが、どうにもならぬ力が彼を押していたのだと思う。 (中略) 汚れっちまった悲しみに…これが、彼の変らぬ詩の動機だ、終りのない畳句(ルフラン)だ」(74-75頁) 「詩もとうとう救う事が出来なかった彼の悲しみを想うとは。それは確かに在ったのだ。彼を閉じ込めた得態の知れぬ悲しみが。彼は、それをひたすら告白によって汲み尽くそうと悩んだが、告白するとは、新しい悲しみを作り出す事に他ならなかったのである。彼は自分の告白の中に閉じこめられ、どうしても出口を見附けることが出来なかった。彼を本当に閉じ込めている外界という実在にめぐり遭う事が出来なかった」(76頁) 「彼を本当に閉じ込めている外界という実在にめぐり遭う事が出来なかった」とは、人やもの、こととの関係を著しく欠いていたということであろう。身体の感覚が怪しく、たゆたうような人生を送ったことがうかがえる。時に救いの対象ともなる「外界という実在」と没交渉のままに、心の内奥に巣くった「汚れつちまつた悲しみ」と対峙し続けた生涯。  「驚くべき詩人たる天資も」「手なずけるに足りなかった」「 得態の知れぬ悲しみ 」を、目の前にさし出されると、いたたまれなくなる。  三十歳という若さで、この世を去った

中原中也「ああ、ボーヨー、ボーヨー」

「中原中也の思い出」  小林秀雄『人生について』中公文庫 「晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。樹蔭の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何んという注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果しなく、見入っていると切りがなく、私は、急に厭な気持ちになって来た。我慢が出来なくなって来た。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変らずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。  二人は、八幡宮の茶店でビールを飲んだ。夕闇の中で柳が煙っていた。彼は、ビールを一と口飲んでは、「ああ、ボーヨー、ボーヨー」と喚いた。「ボーヨーって何んだ」「前途茫洋さ、ああ、ボーヨー、ボーヨー」と彼は眼を据え、悲しげな節を付けた。私は辛かった。詩人を理解するという事は、詩ではなく、生れ乍らの詩人の肉体を理解するという事は、何んと辛い想いだろう。彼に会った時から、私はこの同じ感情を繰返し繰返し経験して来たが、どうしても、これに慣れる事が出来ず、それは、いつも新しく辛いものであるかを訝った。彼は、山盛りの海苔巻を二皿平げた。私は、彼が、既に、食欲の異常を来している事を知っていた。彼の千里眼は、いつも、その盲点を持っていた。彼は、私の顔をチロリと見て、「これで家で又食う。俺は家で腹をすかしているんだぜ。怒られるからな」、それから彼は、何んとかやって行くさ、だが実は生きて行く自信がないのだよ、いや、自信などというケチ臭いものはないんだよ、等々、これは彼の憲法である。食欲などと関係はない。やがて、二人は茶店を追い立てられた」(72-73頁) 「ボーヨー、ボーヨー。前途茫洋」とは真理であり、「自信がある」といい、「自信がない」というも、「自信などという」つまらないものは、いつも「ケチ臭い」。中原中也の口をついて出ることばと小林秀雄の呼応は

ゴッホ「絵の中で、私の理性は半ば崩壊した」

「ゴッホ」 小林秀雄『人生について』中公文庫 「ゴッホが、大色彩画家として現れるのは、アルル以後の制作によってである。それは、誰も知る通りだ。彼が、アルルに来たのは、一八八八年の二月、春を告げる西北風(ミストラル)が荒れ狂い、雪は、見る見る消えて、巴旦杏(アマンド)の花が咲く。彼の色彩の目覚めは、まるで季節に脅迫される様に起った。「緊急」と書かれたカンヴァスや絵具の註文が、弟の許に殺到する。「灼けつく様な太陽の下で、ただもう刈り取ろうと夢中になって、口も利かない百姓の様に、急いで、急いで、急いで描き上げた黄金色の風景」とゴッホは書く。もうミレーもドラクロアも印象派もない。考えあぐねた色彩論のことごとくが、アルルの太陽の中で燃え上る。十二時間休みなしに働き、十二時間前後不覚に眠りこむという日がつづく。彼は、「これは死ぬか生きるかの努力」だったと言っている。「恋愛するものの慧眼と盲目とで」「機関車」の様に働くと書いている。絵は忘我と陶酔とのうちに成り、「自分で自分の仕事の判断もつかぬ。善し悪しも見えぬ」と言う。併し、大事なのは、彼自身この異常な精神の昂揚のうちに、何か不吉なもののあるのをはっきり嗅ぎつけていた事である。脅迫するものは太陽だけではない。自分を襲うものは自分自身の中にもある。書簡を読んで行くと、大発作の起った十二月が近づくにつれ、彼の予感が、次第に強くなって来るのがはっきりわかるのである。サン・レミイの病院にあって、「自分に振られた狂人の役を、素直に受け容れよう」と心を定めて了ったゴッホは、前年、アルルで達した「黄色の高い色調」を回想し、あれほどの黄金色の緊張を必要とし、これに達し得たというのも、心が狂わなければ不可能な事だったっであろうと言っている」(107-108頁) 「かって、ゴッホについて書いた動機となったものは、彼が自殺直前に描いた麦畑の絵の複製を見た時の大きな衝撃であったが、クレーラー・ミューラーの会場で実物を見た。絵の衝撃については、心の準備は出来ている積りでいたが、やはりうまくいかなかったのである。色は昨日描き上げた様に生ま生ましかった。私の持っている複製は、非常によく出来たものだが、この色の生ま生ましさは写し得ておらず、奇怪な事だが、その為に、絵としては複製の方がよいと、私は見てすぐ感じたのである。それほど、この色の生ま生ましさは堪え難いも

「小林秀雄、梅原龍三郎とピカソの腕力について語る」

「梅原龍三郎 美術を語る」 『直観を磨くもの ー 小林秀雄対談集 ー』新潮文庫 小林 ぼくはピカソという人は、だいたい文学的な人だと思うんですがね、初めからの画を見ると。 梅原 そう。初めごろの画は、文学的というか…。 小林 一種センチメンタルなものがあるでしょう。一種の妙な、浪漫派文学みたいなものがね。 梅原 やっぱりスペイン人の血っていうものが、ハッキリとあるんじゃないかと思うんだけどね。(後略) 小林 ぼくはピカソのああいうセンチメンタルな、浪漫派文学みたいな、若いころのものは、あの人が何をやろうが、決して消えていないと思うんですよ。 (中略) 小林 ピカソという人は、もっと眼が悪いとか手が悪いとかなら別だけれども、手と眼がたいへんな技巧だもんだから、あれだけやれるんじゃないかな。 梅原 とにかく何をやっても人をひきつける力があるんだから、やはり腕力の物凄(ものすご)いやつだと思うな。(笑う) (中略) 梅原 デッサン力は非常に強くてね、デッサンがうまいのは、近世で一番て言っちゃヘンだけど、現代で一番うまいと思うな。 小林 あたしもそんなふうな気がする。実にうまい。 梅原 写実的なものを描くと、そのうまさがハッキリするな。ずいぶんヘンテコなものを描いてもうまいんだしね。その点、あれは恐ろしいやつだと思うな。 小林 魔法使いみたいな腕ですな。あの腕は確かに純粋に画書きの腕で…。何んでも出来るから何んでもやっちゃった、ということでしょうね、あの人はそういう腕があるから画書きとしているんでね。案外、ぼくは詰らん男みたいな気がするんです。そういうふうにぼくは考えるんですがね、どうも言葉が足りない 梅原 いや、ぼくにはその気持ちは判るな。 (中略) 梅原 みんなと同じようなことをやってるのは面白くない、というようなことを、若いころから言っていて、それがね、あいつ、腕力が強いから、余裕をもって何んでもやれるんでね 小林 そういう所は偉いな。あの線というのは、ぼくは偉いものだと思う。ほんとに、物を見たまま手が動いちゃうようなものですな。 梅原 そういうものだ。 小林 眼と同じような早さで動いてるような線ですな、あの線は 梅原 一代の化けものみたいなやつだと思うけどね、あれは。 小林 ぼくはある人のピカソに関する本を読んでいたら、若いころにいろいろデッサンをやってて、そのデッ

「雪舟における『間』について」

 長い間気になっていることがある。  それは雪舟の画中の平面についてのことである。 ◇ 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 ◆「雪 舟」 を三読四読したばかりの私が、畏れ多くも、しかし私が覚えた感慨は感興として如何ともしがたく、思い切って書くことにした。 白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社 いま私は、 ◇「雪舟〈山水長巻〉春景部分 1486 紙本墨画淡彩 39,8×1653 毛利博物館」 ◇「雪舟〈慧可断臂図〉1496 紙本墨画淡彩 183,8×112,8 斎年寺」 を見ている。小片である。  〈山水長巻〉では、「開鑿(かいさく)された」平らかな「山径」、切り立った岩肌に広がる垂直面、そして渓流にかかった岩橋の平面の美しさが眼をひく。雪舟の画のなかにあって、「平面」が「間(ま)」になっており、その「間」の置き方の上手さが、雪舟の構図の上手さとなっている。  〈慧可断臂図〉における、「入門の決意を示すため、左腕を切り落として達磨に差し出す」「神光(後の慧可)」の、額や眉根に深く刻まれた皺は悲壮である。達磨は面壁の姿勢を崩さないが、虚ろな、戸惑いの眼をしている。達磨の纏う衣の線は柔らかく、身体を消失し、宙をたゆたっているかのようである。  薄衣(うすぎぬ)を一枚を纏っただけの達磨は、淡彩の「平面」として描かれ、達磨自身が「間」になっている。また、背景のおよそ半分が「平面」で構成されており、世界は深い沈黙の内にある。  雪舟における平面のなす意味について、たわいもないことを長い間考えてきた。  雪舟の描く平面は時宜を得て美しい。

「桂離宮_石橋のある風景」

 2022/08/08 に「三徳山 三佛寺 投入堂」について書いた。今回は「桂離宮」についての記述である。2022/03/09 の「改訂編」である。 俵万智,十文字美信 他『桂離宮』(とんぼの本)新潮社  桂離宮は華奢である。  各部材は建物の荷重をかろうじて支え、各室は枯淡の美に蓋われている。それは、庭に配された飛石や延段、池に掛けられた石橋と相即不離の関係にあり、それらの石材によって補償されているかのようである。  襖に目を奪われる。それだけを取りあげて話題にしたとき、困惑するような色づかいも、大胆なその意匠も、それぞれに適所を得てみごとに鎮まり、各所に調べを添えている。  美は常に危うさをはらんでいるが、桂離宮は、すんでのところで、高次の調和を呈している。  本書には、三つの石橋の写真が載っている。いずれも一つの石材から成るもので、上面はきれいな平面を成している。その美しさは縦横の比、また高さの比率からなるものであろう。石橋の寸法に合わせて、池を修正したかのようにさえ思われる。 「5m 余りの大石橋」は、力学的な関係からか厚みがあり重厚である。側面には凹凸が刻んであるが、単調になることを避け、見る者を飽きさせない工夫であろう。池の狭い箇所に掛けられた「反橋」は、橋を反らせることによって長さを補完しているのであろう。もう一つの石橋にはこれといった特徴はみられないが、この石橋を基本形と考えてよさそうである。私は細工の施されていないこの石橋が一番好きである。  桂離宮は贅を尽くして簡素に作られた建築である。理にかなわないことはないはずである。  彼のブルーノ・タウトが称えた美を前に立ちつくしていたい。美を体験するとは、すなわち、自足した平安な沈黙の内にあることにほかならない。  今秋が楽しみである。

本居宣長「息を殺して、神の物語に聞き入る」

小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫 「彼(本居宣長)にとって、本文の註釈とは、本文をよく知る為の準備としての、分析的知識ではなかった。そのようなものでは決してなかった。先ず本文がそっくり信じられていないところに、どんな註釈も不可能な筈であるという、略言すれば、本文のないところに註釈はないという、極めて単純な、普通の註釈家の眼にはとまらぬ程単純な、事実が持つ奥行とでも呼ぶべきものに、ただそういうものだけに、彼の関心は集中されていた。神代の伝説に見えたるがままを信ずる、その信ずる心が己れを反省する、それがそのまま註釈の形を取る、するとこの註釈が、信ずる心を新たにし、それが、又新しい註釈を生む。彼は、そういう一種無心な反復を、集中された関心のうちにあって行う他、何も願いはしなかった。この、欠けているものは何一つない、充実した実戦のうちに、研究が、おのずから熟するのを待った。そのような、言わば、息を殺して、神の物語に聞入れば足りるとした、宣長の態度からすれば、真淵の仕事には、まるで逆な眼の使い方、様々ないらざる気遣いがあった、とも言えるだろう」(197-198頁)  宣長にとって「神代の伝説」をよく知ることと、信仰の境地が深まることは同時進行だった。それは宣長にとって切実な問題であり、喜びでもあった。 「之を好み信じ楽しむ」とは、宣長の学問に対する生涯変わらぬ態度だった。 「無心」とは「無私な心」と言い換えることができよう。

小林秀雄「和して同ぜず」

 ここに、 四十四巻から成る、 三十五年の歳月を費やし、意を尽くした、『古事記伝』の完成をみた。    九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題 披書視古    古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし  小林秀雄は、『本居宣長』を、昭和四十(1965)年、六十三歳の夏から雑誌『新潮』に十一年あまりにわたって連載した。その後一年をかけて推敲し出版した。小林秀雄は、十二年を超える歳月をかけて、本居宣長と対峙した。 そして私は、 小林秀雄『本居宣長 (上,下)』新潮文庫 の初読、また再読に 25日を要した。特に初読は困難な道のりだった。立ち止まり、耳を澄ませて待つことを覚えた。貴重な読書体験だった。   川村次郎『いまなぜ白洲正子なのか』東京書籍  会場の「畠山記念館」に着くと、袴をつけた川瀬(敏郎)がにこやかに出迎えた。  国語学者の大野晋夫妻もきていた。正子は大野晋という名前は、「青山学院(青山二郎のもとに集まった文士たちの一団)」のころから聞いていた。岩波書店から『広辞苑』が出たのは昭和三十(一九五五)年だが、この辞書で助詞など、基礎語と呼ばれる単語千語をうけもったのが大野だった。基礎語は使われる頻度が高い分、定義をするのがむずかしい。最も厄介な言葉である。「青山学院」に集まる文士はみんな大野に一目も二目も置いていた。  小林秀雄が昭和五十二(一九七七)年、新潮社から『本居宣長』を出したとき、大野を招いて一席設けた。大野は十七歳年下だが、ただの言語学者ではなく、本居宣長をしっかり読み込み、人間を研究していることを知っていた。どうしても感想を聞いてみたかったのである。  大野は『本居宣長』を急いで読んだ。そして、宣長を論じようとすれば読み落としてはいけない一冊を読んでいないのではないかと睨み、文化勲章を受章した文壇の大御所に、思った通りのことをいった。小林は、「君の言う通りだ。しかし評論家はそれでいいんだよ」といって、笑ったという。  実は正子も『本居宣長』にはキラキラしたところがないと思ったので、小林にその通りにいったことがあった。小林は「そこが芸だ」といっただけで、釈然としないものが残っていたが、大野の指摘に得心がいった。この話を聞いたときから、「大野晋」の名は忘れられないものになった。しかし会うのは、はじめてである。

小林秀雄「もう終りにしたい 」

小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫 「考えをめぐらしていると、「歌の事」という具象概念は、詮ずるところ、「道の事」という抽象概念に転ずると説く理論家宣長ではなく、「歌の事」から「道の事」へ、極めて自然に移行した芸術家宣長の仕事の仕振りに、これ亦極めて自然に誘われる。『直毘霊(ナホビノミタマ)(古道論)』の仕上りが、あたかも「古典(フルキフミ)」に現れた神々の「御所為(ミシワザ)」をモデルにした画家の優れたデッサンの如きものと見えて来る。「古事記」を注釈するとは、モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを、画家の眼は追い、これを鉛筆の握られたその手が追うという事になる。言わば、「歌の事」が担った色彩が昇華して、軽やかに走る描線となって、私達の知覚に直かに訴える。私は、思い附きの喩(たとえ)を弄するのではない。寛政十年、「古事記伝」が完成した時に詠まれた歌の意(ココロ)を、有りのままに述べているまでだ。ーー   「九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題 披書視古    古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし」(325-326頁) 「概念」を極端に悪んだ宣長にとって、「『歌の事』という具象概念」から「『道の事』という抽象概念」へという飛躍は、及びもつかないことだった。 「歌の事」のことを「熟視」することによって、いつしかそれらは純化され、宣長はそこに、自ずからなる「道の事」をみた。  ここに、 四十四巻から成る、 三十五年の歳月を費やし、意を尽くした、『古事記伝』の完成をみた。 『本居宣長』の掉尾には、 「もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頼りだからだ。」(253頁) との記述があり、また、 「本居宣長補記」の末尾には、 「もうお終いにする。」(368頁) の一文が見受けられる。  これらは小林秀雄の、精一杯の尽力後の、ため息混じりの言葉であろう。

井筒俊彦「芭蕉の本質論」

井筒俊彦『意識と本質 ー精神的東洋を索めてー』岩波文庫  2022/01/24  前項の繰り返しになるが。  昨日はブログを読んで過ごした。 「“引用” は人の為ならず」ということを実感した。デジタルデータ化すれば、検索も容易である。  井筒俊彦は、深層意識的言語学者である。井筒の文章は緻密であり明晰である。また、国語国文学者とは、自ずから視座が異なり興味深い。  通読を旨とする、そして初読後 間もなくの再読、という読書習慣が身についた。私にとっては、斬新な出来事である。  以下、長い引用である。 「話が大へん廻り道してしまったが、もともと私はここで芭蕉の本質論について語りたかったのだ。「本質」の直観的把握におけるマーヒーヤ(「本質」の普遍性)とフウィーヤ(「本質」の個体性)の結び付き。この問題を芭蕉はある独自の仕方で解決した」(53頁) 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と門弟に教えた芭蕉は、「本質」論の見地からすれば、事物の普遍的「本質」、マーヒーヤ、の実在を信じる人であった。だが、この普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個物の個的実在性として直観すべきことを彼は説いた。言いかえれば、マーヒーヤのフウィーヤへの転換を問題とした。マーヒーヤが突如としてフウィーヤに転換する瞬間がある。この「本質」の次元転換の微妙な瞬間が間髪を容れず詩的言語に結晶する、俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジーであった。  一々の存在者をまさにそのものたらしめているマーヒーヤを、彼は連歌的伝統の術語を使って「本情」と呼んだ。千変万化してやまぬ天地自然の宇宙的存在流動の奥に、万代不易な実在を彼は憶った。「本情」とは個々の存在者に内在する永遠不易の普遍的「本情」。内在するといっても、花は花、月は月という『古今』的「本質」のように、事物の感覚的表層にあらわに見える普遍者ではない。事物の存在真相に隠れた「本質」である。「物と我と二つになりて」つまり主体客体が二極分裂して、その主体が自己に対立するものとして客観的に外から眺めることのできるような存在次元を仮りに存在表層と呼ぶとして、ここで存在深層とは、この意味での存在表層を越えた、認識的二極分裂以前の根源的存在次元ということである。  このように本来的に存在深層にひそむ「本情」は、当然、表層意識では絶対に捉えられない

井筒俊彦「本居宣長の『物のあはれ』論」

 昨日はブログを読んで過ごした。 「 “引用” は人の為ならず」ということを実感した。デジタルデータ化すれば、検索も容易である。  井筒俊彦は、深層意識的言語学者である。井筒の文章は緻密であり明晰である。また、国語国文学者とは、自ずから視座が異なり 興味深い。  通読を旨とする、そして初読後 間もなくの再読、という読書習慣が身についた。私にとっては、斬新な出来事である。  以下、長い引用である。   井筒俊彦『意識と本質 ー 精神的東洋を索めて ー 』岩波文庫  2021/03/23 「およそ概念とか概念的・抽象的思惟とかいうものを極度に嫌った本居宣長は、当然のことながら、中国人のものの考え方にたいしてほとんど本能的とでも言いたいほどの憎悪の情を抱いた。彼の目に映じた中国人は「さかしらをのみ常にいひありく国の人」、人間本然の情をいつわり、それにあえてさからってまで、大げさで仰々しい概念を作り出し、やたらに「こちたく、むつかしげなる事」を振りまわさずにはいられない人たちである。 (中略)  宣長にとって、抽象概念はすべてひとかけらの生命もない死物に過ぎなかった」(34頁) 「中国的思考の特徴をなす ー と宣長は考えた ー 事物に対する抽象的・概念的アプローチに対照的な日本人独特のアプローチとして、宣長は徹底した即物的思考法を説く。世に有名な「物のあはれ」がそれである。物にじかに触れる、そしてじかに触れることによって、一挙にその物の心を、外側からではなく内側から、つかむこと、それが「物のあはれ」を知ることであり、それこそが一切の事物の唯一の正しい認識方法である、という。明らかにそれは事物の概念的把握に対立して言われている。  概念的一般者を媒介として、「本質」的に物を認識することは、その物をその場で殺してしまう。概念的「本質」の世界は死の世界。みずみずしく生きて躍動する生命はそこにはない。だが現実に、われわれの前にある事物は、一つ一つが生々と自分の実在性を主張しているのだ。この生きた事物を、生きるがままに捉えるには、自然で素朴な実存的感動を通じて「深く心に感」じるほかに道はない。そういうことのできる人を宣長は「心ある人」と呼ぶ」(35 -36頁) 「では一体、「物の心をしる」とは、もっと具体的には、物の何を、どうやって知ることなのだろう。一番大切なことは、さきにも一言し

小林秀雄「国語伝統の底流」

小林秀雄『本居宣長 (上)』新潮文庫 「宣長が注目したのは、国語伝統の流れであった。才学の程が、勅撰漢詩集で知られるという事になっては、和歌は、公認の教養資格の埒外(らちがい)に出ざるを得ない。極端な唐風模倣という、平安遷都とともに始まった朝廷の積極的な政策が、和歌を、才学と呼ばれる秩序の外に、はじき出した。しかし、意識的な文化の企画には、言わば文化地図の塗り替えは出来ても、文化の内面深く侵入し、これをどうこうする力はない。生きて行く文化自身の深部には、外部から強いられる、不都合な環境にも、敏感に反応して、これを処する道を開いて行く自発性が備っている。そういう、知的な意識には映じにくい、人々のおのずからな知慧が、人々の共有する国語伝統の強い底流を形成している。宣長はそう見ていた」(321-322頁)  宣長の見識を、小林秀雄が 達意の文で綴った 。それは以下の、 レオ・ヴァイスゲルバーが命名した、 「言語共同体の法則」と同等の内容のものである。 若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 「レオ・ヴァイスゲルバーは井筒俊彦が深い関心を寄せた二十世紀ドイツの言語学者である」(222頁) 「ヴァイスゲルバーは、人間と母語の関係に着目する。母語が世界観の基盤を形成し、誰もこの制約から逃れることはできないことを強調する。すなわち全人類は不可避的に言語共同体的に「分節」されている。人間の基盤を成す共同体はまず、「言語共同体」であることを避けられない。彼はこれを「言語共同体の法則」あるいは「言語の人類法則」と命名し、人類が生存する上での不可避な公理だと考えた」(227頁)  宣長は『古事記』の内容をそっくり信じ、「 同じ向きに歩いた」 。  井筒俊彦は、宣長の、小林秀雄の、あるいは レオ・ヴァイスゲルバーの「公理」 を 包括する形で、自らの実存的経験を体系化した。 井筒は「存在はコトバである」といい、また「言語アラヤ識」を深層領域に措定するに到った証左に、私が思いをいたしたのは、当然の成り行きだった。

「自分の声といい肉声といい」

「山の日に山気にあたる_1/3」 2022//08/11 「霊峰(富士)を前に、茫然自失として立ちつくす。私の不用意な動きが、すべてを崩壊へと導く。私は平安のうちにあるが、心奥のどこかが緊張しているような気がする。それを畏れというのかもしれない」  私の美の体験である。 「摩訶般若波羅蜜多心経」を諳んじた。間をおかずに何回か唱えると、美の体験と近似した心境になることを、数日前に気づいた。それは、「南無阿弥陀仏」の「六字名号」を唱えた後にも起こることを、はっきり自覚している。 玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書 「それでは最後に、以上の意味を忘れて『般若心経』を音読してください」(194頁) 「自分の声の響きになりきれば、自然に『私』は消えてくれるはずです」(198頁) 「声の響きと一体になっているのは、『私』というより『からだ』、いや、『いのち』、と云ってもいいでしょう。むろんそれは宇宙という全体と繋がっています」(199頁) 墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社  「念仏にしても、木魚一つでもあれば、称名の声と木魚を撃つ音と主客一如になるところ、大自然のいのちを呼吸する心境は深まりうるわけで」ある。(12頁) 「自分の声の響き」であり、「称名の声と木魚を撃つ音」である。  また、小林秀雄は、 「あの人(本居宣長)の言語学は言霊学なんですね。言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る。肉声だけで足りた時期というものが何万年あったか、その間に言語文化というものは完成されていた。それをみんなが忘れていることに、あの人は初めて気づいた。これに、はっきり気付いてみれば、何千年の文字の文化など、人々が思い上っているほど大したものではない。そういうわけなんです」(『本居宣長 (下)』新潮文庫 388頁) といっている。 「言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る」  畏怖すべきは声にあった。  いま何かが動きはじめた。言葉を弄すること、徒らに動くことの愚かさを思っている。

『徒然草』_「第二二0段 何事も、辺土は賤しく」

TWEET「『徒然草』_原文の姿を知らず」 2021/06/05 ◇ 兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 を現代語訳で読んだ。原文の味わいを知らず、素っ気ない読書に終始した。 「 第二一九段 四条の黄門」, 「第二二0段 何事も辺土は」の二編は 特に面白かった。いずれも楽器の音についての話題である。 「第二二0段  何事も、辺土は賤 しく」 島内裕子校訂訳『兼好 徒然草』ちくま学芸文庫 「何事も、辺土は賤(いや) しく、頑な(かたく)ななれども、天王寺の舞楽のみ、都に恥ぢず」と言へば、天王寺の 伶人 の申し侍りしは、「当寺の楽(がく)は、良く 図 を調べ合はせて、物の音のめでたく調(ととの)ほり侍る事、外よりも勝(すぐ)れたり。故は、太子の御時(おんとき)の図、今に侍るを博士とす。所謂(いはゆる)、六時堂(ろくじどう )の前の鐘なり。その声、 黄鐘調 (わうしきでう)の最中(もなか)なり。寒・暑に従ひて、上がり下がり有るべき故に、二月、涅槃会より聖霊会(しょうりょうえ)までの中間を、指南とす。秘蔵の事なり。この一調子を以(もち)て、いづれの声をも、調(ととの)へ侍るなり」と申しき。   凡(およ)そ、鐘の声は、黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度(あまたたび)鋳替へられけれども、叶はざりけるを、遠国(をんごく)より尋ね出だされけり。浄金剛院(じやうこんがうゐん)の鐘の声、また黄鐘調なり。 ◇ 伶人:楽人。 ◇ 図:図竹。調子笛のこと。 ◇ 黄鐘調:おうしきじょう。 「寒・暑に従ひて、上がり下がり有るべき故に」「 お釈迦様の入滅された二月十五日の 涅槃会から、 聖徳太子の命日である二月二十二日の聖霊会 までの期間の鐘の音を、基準としているのです」。  鋭敏な耳の持ち主を以って “ 伶人 ” というのか 、この兼好法師との分り合いの世界は、すてきである。 「祇園精舎の鐘の声」は 黄鐘調の音(ね)であり、 黄鐘調の音であってこそ、「諸行無常」と響くことを知った。 土門拳『古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』小学館文庫 「法隆寺と斑鳩」 金堂にせよ、五重塔にせよ、 振り仰いだときの厳粛な感銘は格別である。 古寺はいくらあっても、 その厳粛さは法隆寺以外には求められない。 それは

TWEET「自足した平安のうちにある」

 幾時からか、人と話さない日が続いている。 かといって、まったく人に会わないわけではなく、夜の大規模小売店には毎日のように買い物に出かけている。私にとってマスクとは、誰彼ともなく口は利きません、という意思表示である。 小林秀雄「季」 小林秀雄『人生について』中公文庫 「瞑想という言葉があるが、もう古びてしまって、殆ど誰も使わないようになった。言うまでもなく瞑とは目を閉じる事で、今日のように事実と行動とが、ひどく尊重されるようになれば、目をつぶって、考え込むというような事は、軽視されるのみならず、間違った事と考えられるのが当然であろう。しかし、考え詰めるという必要が無くなったわけではあるまいし、考え詰めれば、考えは必然的に瞑想と呼んでいい形を取らざるを得ない傾向がある事にも変わりはあるまい。事実や行動にかまけていては、独創も発見もないであろう。そういう不思議な人間的条件は変更を許さぬもののように思われる」(179頁)  自足した瞑想という喜びは突然やってきて、突然去っていく。 「友情と人嫌ひ」 河上徹太郎『詩と真実』 「饒舌に聞き手が必要であるやうに、沈黙にも相手が要る。そして恐らく饒舌よりも相手を選ぶものだ。私と小林秀雄との交友はそんな所から始まった」 「小林と私」 河上徹太郎『わが小林秀雄』昭和出版  「彼とのつき合ひも中学上級以来からだから随分古い。古い点ではお互に最古参だらう。文壇では二人を親友の部類にいれてゐる。いはれて不服はないが、然し考へて見ると、深入りしてつき合った時期は先づない」(61-62頁) 「遊びに来て一言も口をきかないで、それでつき合ひの目的を達して別れた覚えもある。「君子の交り淡々として水の如し」といふのはこのことなのだらうか?」(61-62頁)  私にはこういった幸せな交りはない。 ただ、沈黙していることに充足を覚えるならば、この自足した平安のうちにあればいい、と思っている。この行方は不分明であるが、饒舌の行方はかなり怪しい、とにらんでいる。

「小林秀雄『本居宣長 (下)』_生死の問題」

「私達は、史実という言葉を、史実であって伝説ではないという風に使うが、宣長は、「正実(マコト)」という言葉を、伝説の「正実(マコト)」という意味で使っていた(彼は、古伝説(イニシヘノツタヘゴト)とも古伝説(コデンセツ)とも書いている)。「紀」よりも、 「記」の方が、何故、優れているかというと、「古事記伝」に書かれているように、ーー「此間(ココ)の古ヘノ伝へは然らず、誰云出(タガイヒイデ)し言ともなく、だゞいと上ツ代より、語り伝へ来つるまゝ」なるところにあるとしている。文字も書物もない、遠い昔から、長い年月、極めて多数の、尋常な生活人が、共同生活を営みつつ、誰言うとなく語り出し、語り合ううちに、誰もが美しいと感ずる神の歌や、誰もが真実と信ずる神の物語が生まれて来て、それが伝えられて来た。この、彼のいう「神代の古伝説」には、選録者は居たが、特定の作者はいなかったのである。宣長には、「世の識者(モノシリビト)」と言われるような、特殊な人々の意識的な工夫や考案を遥かに超えた、その民族的発想を疑うわけには参らなかったし、その「正実(マコト)」とは、其処に表現され、直かに感受出来る国民の心、更に言えば、これを領していた思想、信念の「正実(マコト)」に他ならなかったのである」(145頁)  最終章「五十」は、生死(しょうじ)の問題についての話題である。 「既記の如く、道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定(けつじょう)して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていたが、これに就いての、はっきりした啓示を、「神世七代」が終るに当って、彼は得たと言う。ーー「人は人事(ヒトノウへ)を以て神代を議(はか)るを、(中略)我は神代を以て人事(ヒトノウへ)を知れり」、ーーこの、宣長の古学の、非常に大事な考えは、此処の注釈のうちに語られている。そして、彼は、「奇(アヤ)しきかも、霊(クス)しきかも、妙(タヘ)なるかも、妙(タヘ)なるかも」と感嘆している。註解の上で、このように、心の動揺を露わにした強い言い方は、外には見られない。  宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だったわけだが、宗教を言えば、直ぐその内容を成す教義を思うのに慣れた私達からすれば、宣長が、古伝

天人 深代惇郎「夕焼け雲」

解説 辰濃和男 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫 「深代惇郎と私は、同期だった。  深代は四十六歳で亡くなり、私はいま、深代が書いた『天声人語』のゲラの一ページ一ページを丁寧に読んでいる。まだ若いころの彼の姿をしばらく追って時を過ごすこともあった。  彼が亡くなった直後、ある会合でお会いした作家の有吉佐和子さんは、こういっていた。 『深代さんはものすごく勉強していたわ。もう、オドロキでした』  深代の作品の中で一印象に残るのはどれか、私は「夕焼け雲」(五〇三頁)をあげたい」(525頁) 深代惇郎「夕焼け雲」 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫 「夕焼けの美しい季節だ。先日、タクシーの中でふと空を見上げると、すばらしい夕焼けだった。丸の内の高層ビルの間に、夕日が沈もうとしていた。車の走るにつれて、見えたり隠れたりするのがくやしい。斜陽に照らされたとき、運転手の顔が一杯ひっかけたように、ほんのりと赤く染まった。  美しい夕焼け空を見るたびに、ニューヨークを思い出す。イースト川のそばに、墓地があった。ここから川越しに見るマンハッタンの夕焼けは、凄絶といえるほどの美しさだった。摩天楼の向こうに日が沈む。赤、オレンジ、黄色などに染め上げた夕空を背景にして、摩天楼の群れがみるみる黒ずんでいく。  私を取りかこむ墓標がある。それがそのまま、天空に大きな影絵を映し出しているように思えた。ニューヨークは東京と並んで、世界でもっとも醜い大都会だろう。その摩天楼は、毎日のお愛想にいや気がさしている。踊り疲れた踊り子のように、荒れた膚をあらわにしている。だが夕焼けのひとときだけは、ニューヨークにも甘い感傷があった。  もう一つ、夕焼けのことで忘れがたいのは、ドイツの強制収容所生活を体験した心理学者V・フランクルの本『夜と霧』(みすず書房)の一節だ。囚人たちは飢えで死ぬか、ガス室に送られて殺されるという運命を知っていた。だがそうした極限状況の中でも、美しさに感動することを忘れていない。  囚人たちが激しい労働と栄養失調で、収容所の土間に死んだように横たわっている。そのとき、一人の仲間がとび込んできて、きょうの夕焼けのすばらしさをみんなに告げる。これを聞いた囚人たちはよろよろと立ち上がり、外に出る。向こうには「暗く燃え上がる美しい雲」がある。みんなは黙って、ただ空をながめる。息も絶え

安西均「お辞儀するひと」

安西均「お辞儀するひと」 中国残留孤児の第七次訪日団四十五人は、三月三日(昭和六十年)午前十時十分、成田空港から日航機で中国へ戻って行った。それを報道する翌日の朝刊の写真には ー めいめい手を振って別れの 挨拶をする、一行から少し離れ、 床に手荷物の紙バッグを置き、 こちらに向って、深々と 頭を下げてゐる女のひと。 劉桂琴(りうけいきん)さんといふさうだ。 推定(何と悲しい文字だらう)四十四歳。 前夜、叔父と名乗る人が、空港へ 駆けつけてきたが、別人だった。 記者団の質問に「日本が私の生みの親、 中国が育ての親です」と答へたきり、 深夜、ホテルの自室で、大好きな ハルビンの民謡を歌ってゐたさうだ。 桂琴さんの写真に添へて「だれにともなく 深く一礼」と説明がある。だれにともなく! こんなにも美しく、哀しいお辞儀の姿を、 私はかつて見たことがない、ただの一度も。 私は思はず胸のうちで、この姿に 会釈を返す。このひとが戻っていく国の言葉で 〈再見(ツアイチエン)〉と言ひたい気がする。 東京の空までが、春近い気配にうるみ、 じっと雨を耐へてゐる朝だ。 ◇ 光村図書『国語 3』179-181頁(平成十四年二月五日発行) 中学校3 年生の国語の教科書に掲載されている、安西均さんの 詩です。  77回目の「終戦の日」を迎えました。  戦争には、戦勝国はなく、皆敗戦国です。少しの想像力を働かせれば、ひとりの死は、決して匿名の個人の死では なくなります。  これほど「 美しく、哀しい」お辞儀を、私は知りません。これを写真におさめた記者がいて、詩に託した安西さんがいて、また私たちがいます。この平和への願いが、波紋のように広がっていくことを望んでいます。  政治に、キリスト教的な倫理観を求める愚は承知していますが、海千山千の世界は私の住めるところではありません。  私は言葉の力を信じています。

TWEET「生兵法」

 2022/06/28より、畳の上に一人用のテントマットを敷き、寝袋を夏布団がわりにして寝ている。10日ほど前から、赤い湿疹ができ、かゆみを覚えるようになった。湿疹は両足の甲と脛、前腕部に集中している。寝ている最中に、テントマットをまたぎ、畳に接触してもおかしくない部位ばかりである。ダニの仕業かと思い、皮膚科への受診を考えていた。  が、つい今し方、検索すると、ステロイドに加え、かゆみ止めの配合された塗り薬が適当らしく、乾燥肌用の塗り薬と成分が類似していて、早速塗布した。  今夜からは、テントマットの下に、グランドシートを敷くことした。それでも対応できない場合には、テント泊である。  ダニ退治は考えていない。むしろ共存共栄を考えている。生兵法と対症療法で挑む、はじめての夏である。

「祖霊を祀る」

 今日からお盆である。祖霊を迎える大切な日である。宗派によっては、迎え火を焚き、送り火を焚く。京都「五山送り火」、大文字の炎は、あまりにも有名である。 「死・再生の思想 ー 鳥が運んだものがたり」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  特に縄文時代、しかし弥生時代にも多分に縄文が残っているでしょう、殷的なものが。それから、やはり「死・再生」です。魂が古い屍を去って、あちらへ行く。無事あちらへ送らなくちゃいけない。そういうのが大きな願いなんですね。生まれるのは、今度はあちらからこっちへ帰って来る。  死・再生というのは東洋の重要な宗教儀式だと思っているんですが、例の伊勢神宮の柱ですね。 編集部  心(しん)の御柱(みはしら) 梅 原  御遷宮(ごせんぐう)ですね、柱の建て替え。それと同じようなものが「諏訪(すわ)の御柱(おんばしら)」。 (また能登の「真脇(まわき)遺跡のウッドサークル」) (中略)  だから御遷宮のように木を作り替える。ウッドサークルは縄文まで遡るんですよ。それはやはり生命の再生。木は腐る、だから腐らないうちに、神の生命が滅びないうちに、また新しい神の命を入れ替えてですね、ずっと伝える。こういうのがですね、私、日本の宗教の基本だと思ってますが、こういう儀式をもっと壮大にしたのが殷の姿だと、字の作り方なんかで感じました。 白 川  中国ではね、鳥形霊(ちょうけいれい:鳥の信仰は全世界に分布する。鳥は必ず水鳥・渡り鳥である)という考え方があるんですが、これはやはり祖先が回帰するという考えに繋がっておるんじゃないかと思う。季節的に決まった鳥が渡って来るでしょ。 梅 原  水鳥ですね。鳥の信仰は殷にはありますか、鳥は霊ですか。 白 川  あります、鳥は霊です。星でも鳥星(ちょうせい)ちゅう星を特別に祀っています。どの星のことか知らんけど、甲骨文に出て来る。特別の信仰を持っておったんではないかと思うんですがね。  鳥星は「好雨(こうう)」の星と考えられていたので、「止雨(しう)」を祈るんです。甲骨文にそのことが書いてある。 梅 原  (前略)だから今の日本でやる玉串奉奠(たまぐしほうてん)というのは、あれ、(鳥の)羽根ですね。ひらひらしているの。これはやっぱり僕は共通の信仰だった気

TWEET「歳時」

 いま美しいことばに出会いたいと、しきりに思う。それには、「歳時記」を繰るのが適当か、と思っている。  2015/09/08 に、「俳句の角川」を信じて、 ◆『合本俳句歳時記 第四版』角川学芸出版  をインストールした。万を持しての登場である。  日本人の歳時によせる思いは、細やかである。いまそれにならいたいと思う。

TWEET「用の美」

 一昨日のブログに、 「山人が “用” のためにつけた径(みち)を俯瞰したとき、幾筋かの径筋が細線として映える。 用の美である」 と書いた。 「用の美である」で結ぶことは、あらかじめ決めていた。 「俯瞰」という言葉が浮かび、「細線」という言葉が浮かぶまでに、1日をゆうに越えた。  文章を書くとは、こういったことの繰り返しだと思っている。  この数日間、人と話していない。痛痒は感ぜず、清清としている。

「山の日に山気にあたる_3/3」

高桑信一『古道巡礼 山人が越えた径』ヤマケイ文庫 「仕事の径(みち)は暮らしの延長線上にあった。径は、その仕事の目的によって、たどる径筋がまるで異なっていたのである。たとえばマイタケ採りの径なら、マイタケの出るミズナラの木を効率よくめぐるように付けられているし、それがゼンマイ採りの径なら、ゼンマイの生えている渓の奥まで、険しい溪筋を避けながら、山肌の弱点を縫ってつづいていた。それらの径には無駄というものがなかった。(中略)そのような無駄を排した径が、原生の自然と見事に融和しながら、一条の美しいラインとして山中につづいていたのである」(8頁) 「径は目的によって拓かれ、目的を失うことによって消え果てた」(392頁) 「滅びゆくものに、かぎりない愛着をおぼえて止まないのは、無常への追認である」(394頁) 「そんなはかない、常ならぬものへの諦観と覚悟をいざなう滅びゆく存在が、私を捉えて離さなかったのだ」(394頁)  高桑信一の ◇ 高桑信一『古道巡礼 山人が越えた径』ヤマケイ文庫 は、 ◇ 高桑信一『山の仕事、山の暮らし』 ヤマケイ文庫 と同様に、入念なフィールドワークに基づいた、一級の山の民俗誌の風格がある。  山人が “用” のためにつけた径を俯瞰したとき、幾筋かの径筋が細線として映える。 用の美である。  確かに、高桑さんの文章は上手いが、ときに洒脱にすぎるのが難点である。

「山の日に山気にあたる_2/3」

「山で死んでも許される登山家」 山野井泰史『垂直の記憶 岩と雪の7章』ヤマケイ文庫 「僕は計画の段階では死を恐れない。しかし、山に行くと極端に死を恐れはじめる。  なぜ、誰にも必ず訪れる死を恐れるのだろう。  この世に未練があるから恐いのか、死ぬ前にあるだろう痛みが恐いのか、存在そのものがなくなる恐怖なのか ー 。しかし、クライミングでは死への恐怖も重要な要素であるように思える。 「不死身だったら登らない。どうがんばっても自然には勝てないから登るのだ」  僕は、日常で死を感じないならば生きる意味は半減するし、登るという行為への魅力も半減するだろうと思う。  いつの日か、僕は山で死ぬかもしれない。死ぬ直前、僕は決して悔やむことはないだろう。一般的には「山は逃げない」と言われるが、チャンスは何度も訪れないし、やはり逃げていくものだと思う。だからこそ、年をとったらできない、今しかできないことを、激しく、そして全力で挑戦してきたつもりだ。  かりに僕が山で、どんな悲惨な死に方をしても、決して悲しんでほしくないし、また非難してもらいたくもない。登山家は、山で死んではいけないような風潮があるが、山で死んでもよい人間もいる。そのうちの一人が、多分、僕だと思う。これは、僕に許された最高の贅沢かもしれない。 (中略)  ある日、突然、山での死が訪れるかもしれない。それについて、僕は覚悟ができている」(178-179頁) 「山で死んでもよい人間もいる。そのうちの一人が、多分、僕だと思う。これは、僕に許された最高の贅沢かもしれない」。  山野井泰史のいう死とは、不慮の死をいうのだろう。自然の脅威に人は翻弄される。非業の死を遂げたといえば、周囲も山野井自身も納得するだろう。この天才クライマーにとって、それ以外の死は考えられなかった。これは天性と周到な準備に因るものである。  死の話題が二つ続いた。 山の本を読むとは特異な体験をすることである。逸脱から免れるために、次は「山人」の話である。  宮沢賢治『なめとこ山の熊』には、鷹揚な死、殊更でない死が描かれている、といえば、また逸脱か。「青空文庫」で、どうぞ。

「山の日に山気にあたる_1/3」

 富嶽遥拝の旅を続けている。  静岡県掛川市の「小夜の中山峠」、富士宮市の「富士山本宮浅間大社」,「山宮浅間大社」、また「本栖湖」から遥かに仰いだ富士の高嶺は美しく尊かった。「人穴富士講遺跡」,「村山浅間神社」,「白糸の滝」、 また「道の駅 朝霧高原」,「静岡県富士山世界遺産センター」も忘れられない。  目を移せば、「伊吹山」、那智山中にかかる「那智の滝」、いずれも御神体である。  いま信仰の対象としての山に興味がある。  霊峰を前に、茫然自失として立ちつくす。私の不用意な動きが、すべてを崩壊へと導く。私は平安のうちにあるが、心奥のどこかが緊張しているような気がする。それを畏れというのかもしれない。  ブログ内を「ヤマケイ文庫」で検索すると、17の文章が表示された。 遠藤甲太「松濤明の遺書」 松濤明『新編・風雪のビヴァーク』ヤマケイ文庫 「一九四九年一月四日から六日にかけての「手記」。われわれはこの種の文章を、ひとつの文学作品として読むほかないのだけれど、私の知るかぎり松濤の遺書は、自衛隊員・マラソンランナー円谷幸吉の遺書と並んで、最も衝撃的な文学上の奇蹟である。円谷書が自死する哀しみの至純さにおいて言語を絶しているとすれば、松濤書はその対極。あくまで死と闘い、ついに倒れんとする瞬間の圧倒的な臨場感(リアリティ)において、やはり言語を絶している」(337-338頁) 「壮絶な手記を残して風雪の北鎌尾根に消えた松濤明」 萩原浩司『写真で読む 山の名著 ヤマケイ文庫50選』ヤマケイ文庫 『風雪のビバーク』は、戦前・戦後にかけて数々の初登攀記録を打ち立て、風雪の北鎌尾根に逝った希代のアルピニスト、松濤明の遺稿集である。松濤は一九四九(昭和二四)年一月に、奇しくも加藤文太郎と同じ風雪の槍ヶ岳北鎌尾根で遭難するが、遺体のかたわらで発見された手帳の壮絶な手記が耳目を集めた。そこには遭難に至った経緯が細かに記され、最後には岳友と共に死を受け入れてゆく過程と心情が描かれていた。(34頁) 「風雪のビヴァーク」 松濤明『新編・風雪のビヴァーク』ヤマケイ文庫 1月6日 フーセツ 全身硬ッテカナシ、何トカ湯俣迄ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス  オカアサン  アナタノヤサシサニ タダカンシャ. 一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス。  何ノコーヨウモ出来ズ死ヌツミヲオユルシ下サイ.

「中西進、秋を思う」

 立秋の日を調べると、2022/08/07 だった。知らずにやり過ごした。野分というほどの風が吹き、風が運ぶ残暑が恨めしい。 2020/07/07  書店の参考書売り場で、通りすがりに、 ◇『2021年度受験用 豊田工業高等専門学校』英俊社 を手に取り、レジへ向かった。時期尚早のため、「国立高専」の過去問しか並んでいなかった。2860円というお値段に慌てた。  国語 大問2 の問題文を幾度か読んだ。引用した古文を題材にしての考察(鑑賞文)である。  以下、その出典を最近のものから順に並べたものである。 ◇ 中西進『ことばのこころ 』東京書籍 ◆ 藤田正勝『日本文化をよむ 5つのキーワード 』岩波新書 ◇ 大輪靖宏『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』祥伝社 ◆ 小林一彦『NHK『100分de名著』ブックス 鴨長明 方丈記』NHK出版 ◇ 森朝男『読みなおす日本の原風景 古典文学史と自然 (はなわ新書)』塙書房  うかつにも中西進しか知らなかった 。「三夕の歌」が二つの問題文で話題になっている。明恵上人の名が見えるのもうれしい。  なかでも中西進の作品が際立っている。『紫式部日記』の冒頭部分,「三夕の歌」を引いての「秋」についての随想である。 「特段にどこの何が秋めくというのでもなく、それでいて秋のけはいがたつという季節の体感こそが、じつはこの国の秋の感触なのだろう。  空もおおかたの様子が艶だといい、秋のけはいとともに感じるものは、これまた風のけしきだという。  とくに涼気が漂ってきた、天地宇宙の全体が緊張へと向かっていく、そんな季節の移行が秋なのであろう」 「こうした作者の目や耳に、あれこれの景物が一つの生命体をなして感じられることこそ、自然の季節を深めゆく営みとの、いちばん深い対面なのであろう。  この文章が、名文をもって聞こえる理由も、そこにあるにちがいない。  自然は人事を包含してしまうものだということを、この文章を見ながら、わたしはつくづくと思う」 「また三首に共通することば遣いは、「なかりけり」「なき」「なかりけり」という否定である。秋の風景は否定の言い方と、心の深奥(しんおう)の部分で、無意識的に結びついているのにちがいない」  古典と中西進が響き合うと、これほどすてきな文章が生まれる。  憂いなく、静謐な秋を願うばかりである。  古典の世界の住人に教えを請う

小林秀雄と谷崎潤一郎の『文章読本』

谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫  当書には、志賀直哉『城の崎にて』からの引用がある。また、「故芥川龍之介氏はこの『 城の崎にて 』を志賀氏の作品中の最もすぐれたものの一つに数えていました」(27頁)との一文がみられる。 「こゝには温泉へ湯治に来ている人間が、宿の二階から蜂の死骸を見ている気持と、その死骸の様子とが描かれているのですが、 それが簡単な言葉で、はっきりと現わされています。 (中略) この文章の中には、何もむずかしい言葉や云い廻しは使ってない。普通にわれわれが日記を附けたり、手紙を書いたりする時と同じ文句、同じ云い方である。それでいてこの作者は、まことに細かいところまで写し取っている」(27頁) 「一体、簡潔な美しさと云うものは、その反面に含蓄がなければなりません。 単に短かい文章を積み重ねるだけでなく、それらのセンテンスの孰れを取っても、それが十倍にも二十倍にも伸び得るほど、中味がぎっしり詰まっていなければなりません」(139頁) ○ 含蓄について 「 含蓄 と云いますのは、前段「品格」の項ににおいて説きました「饒舌を慎しむこと」がそれに当ります。なお云い換えれば、「イ あまりはっきりさせようとせぬこと」及び「ロ 意味のつながりに間隙を置くこと」が、即ち含蓄になるのであります」 (218頁) (中略) この読本は始めから終りまで、ほとんど含蓄の一事を説いているのだと申してもよいのであります。 (219頁) 井伏君の「貸間あり」 小林秀雄『考えるヒント』文春文庫 「作者は、尋常な言葉に内在する力をよく見抜き、その組合せに工夫すれば、何が得られるかをよく知っている。彼は、そういう配慮に十分自信を持っているから、音楽からも絵画からも、何にも盗んで来る必要を認めていない。敢えて言えば、この小説家は、文章の面白味を創り出しているので、アパートの描写などという詰らぬ事を決して目がけてはいない。私は、この種の文学作品を好む」(35-36頁) 「彼の工夫は、抒情詩との馴れ合いを断って、散文の純粋性を得ようとする工夫だったに相違ない」(40頁) 「正宗白鳥の作について」 『小林秀雄全作品 別巻2 感想 下』新潮社 「(内村鑑三の)極度に簡潔な筆致は、極度の感情が籠(こ)められて生動し、読む者にはその場の情景が彷彿(ほうふつ)として来るのである」(230頁) 「(内村鑑三『

TWEET「感想を添える」

 引用してそのままにしてあるブログが相当数あると思われます。下手なことを書くと、かえって本文を汚(けが) す結果になるとの思いがあったからです。  いま それらのブログに感想 を添え、「改訂編」として載せています。気の遠くなるような作業 です。  引用文に、自分の文章が似てくるのはおかしく、 そうと決まれば、小林秀雄の文章を最優先するのが賢明ですね。  「改訂編」のみ残し、後は「下書き」にします。「再掲」も下書きにし、贅肉を落とします。

小林秀雄「壺中天」

白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社  秦秀雄君の家で、晩飯を食っていると、部屋の薄暗い片隅に、信楽(しがらき)の大壷がチラリと見えた。持って行けよ、と壷は言っているので、鎌倉まで自動車に乗せて来た。どんな具合にだか知らないが、いずれ、秦君は勘定を附けにやって来るだろうが、この程度の壷は、ともかく一応は黙って持って還らないといけない。(壷)  私は、壷が好きだ。……古信楽の壷は、特に好きだ。その「けしき」が、比類がないからだ。「けしき」という言葉も面白い言葉である。これも、実体感、或は材質感のなかに溶けこんだ一種の色感を指していうものだ。(信楽大壷)  「壺中天(こちゅうてん)」という言葉がある。焼き物にかけては世界一の支那人は、壷の中には壷公という仙人が棲んでいると信じていた。焼き物好きには、まことに真実な伝説だ。私の部屋にある古信楽の大壷に、私は何も貴重なものを貯えているわけではないが、私が、美しいと思って眺めている時には、私の心は壺中にあるようである。(信楽大壺)(88頁)  私はこの話が好きである。 いくら “ 近代批評の神様 ” とはいえ、簡単にこしらえた文章とは思えない。この 簡潔さといい、言葉の置き方 といい、随所に小林秀雄らしさを感じる。  結びの一文に託された思いが、最初にあったのだろう。それにしてもみごとな終息である。  89頁には写真が載っている。たいした物であることくらいは、私にもわかる。

土門拳「古寺を訪ねて_小品群_まとめて」

 四分冊になっている、 ◇ 土門拳『古寺を訪ねて』小学館文庫 の各章の扉には、折々の写真とともに、土門拳の文章が引かれている。この感性、この知性、この筆力にしてこの写真であることを彷彿とさせる小品群である。看過するにはいかにも惜しく、納めさせていただくことにした。  各地で読むのを楽しみにしている。 土門拳『古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』小学館文庫 「法隆寺と斑鳩」 金堂にせよ、五重塔にせよ、 振り仰いだときの厳粛な感銘は格別である。 古寺はいくらあっても、 その厳粛さは法隆寺以外には求められない。 それは見栄えの美しさというよりも、 もっと精神的な何かである。 そこに飛鳥を感じ、聖徳太子を想い見る。 いわば日本仏教のあけぼのを 遠く振り仰ぐ想いである。 「東大寺と平城京」 東大寺の伽藍の中で、創建のままに残って、 天平の壮大なロマンチシズムを今に伝える建造物は、 転害門一棟だけなのである。 千二百年来、大屋根をどっしりと支える檜の円柱、 その円柱を受ける花崗岩の礎石。 その円柱と礎石を見ているだけで、 こころの安らぎを覚えるのである。 「浄瑠璃寺と石仏」 こんな山の中に美しい大伽藍をつくったのは、 どういう考えだったのであろうか。 そして京から奈良から、 野越え山越え浄土信者たちは詣でたのであろうか。 その道のりの遠さは、 彼岸への遠さと似ていたのであろうか。 浄瑠璃寺境内に雨におもたくぬれるさくらは、 ものうく、あまく、人の世のさびしさ、 あわれさをいまさらのように考えさせている。 土門拳『古寺を訪ねて 奈良 西ノ京から室生へ』小学館文庫 「薬師寺」 薬師寺東塔は、 日本の塔の中で、最も奇抜な、 変化に富んだ、剛柔繁簡かねそなわった、 見れども飽かぬ美しい塔であるとぼくは思う。 今に残る白鳳時代唯一の建築として 貴重なばかりでなく、 その豪壮雄偉な建築美において、 日本一の塔といってよい。 「唐招提寺」 唐招提寺の諸仏や諸堂には、 厳粛、重厚、壮大の感じがみちている。 大陸的なおおらかさがあふれている。 造営に当たった大部分の人が 中国人だったからだろうといってしまえば、 あまりに簡単であるが、 鑑真和上その人の宗教的な気宇の大きさ、はげしさ、 きびしさが全体を支配しているからだと、 ぼくは思う。 「飛鳥の里と南大和の寺」 千二百年の昔、飛鳥の里は、 日本文化の