『翼 武満徹ポップ・ソングス』_武満徹さんの四つの詞によせて その二


武満徹「翼 武満徹ポップ・ソングス」あとがき


きっと多くの方が、なぜクラシックの、しかもこむずかしい現代音楽を書いている作曲家がこんなアルバムを作ったりするのか、不思議に思われただろう。
 『翼』といううたにも書いたように、私にとってこうした營爲(いとなみ)は、「自由」への査証を得るためのもので、精神を固く閉ざされたものにせず、いつも柔軟で開かれたものにしておきたいという希(ねが)いに他ならない。

注文した『翼 武満徹ポップ・ソングス』が手元に届き、「あとがき」を読んだときには、少なからぬ驚きがありました。というのも、私は、「『翼 武満徹ポップ・ソングス』_武満徹さんの四つの詞によせて 」に、

武満徹という「空っぽ」な人が書いた「空っぽ」な詞、私はこんな風に、武満徹さんご自身と武満徹さんが書かれた四つの詞を受け止めています。
と書いたからです。武満徹さんにとって「自由」とは、もはや実態のない抜け殻としての言葉であって、ご自身は「自由」でもなければ「不自由」でもないといった境地に遊ばれているような印象を当時もっていました。武満徹さんが書かれた「あとがき」とは、だいぶ趣を異にしています。
 それでもなお、このような澄みわたった「空っぽ」な詞は、「空っぽ」な、あるいは、「空っぽ」にごくちかしい人の仕業だとしか私には思えません。
 「こうした營爲(いとなみ)」が、「「自由」への査証を得る」ことにつながる、こういった人がいることに私は、新鮮な驚きを、また感動を覚えます。