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8月, 2018の投稿を表示しています

シリーズ授業「死に損ないのような」

 つい今しがた、夏休みボケで、死に損ないのような、瀕死の状態の、中二生の子どもたちとの授業を終えました。馴れっこになっていますので、空まわりこそしませんが、手ごわく、授業らしきものに終始しました。  「死に損ない」と言い、「瀕死の状態」と言っても、異界の住人たちには意味不明らしく、打たれ強い人たちです。

BRUTUS「刀剣」2018年9月15日号

 インターネット上では、軒並み売り切れですが、郊外の小さな書店に行くと、並んでいました。予想通りです。地方都市住まいの数少ない特典の一つです。  この年齢(とし)になって「BRUTUS」を手にするとは、ゆめゆめ思いもしませんでした。意に反し、広告ばかりをながめています。新しくもあり、奇しくもあり、「BRUTUS」は、いまも変わらず「BRUTUS」です。 「京(みやこ)のかたな 匠のわざと雅のこころ_京都国立博物館」  一昨夜 偶然にも、 「京(みやこ)のかたな 匠のわざと雅のこころ」 展 が、京都国立博物館にて、2018/9/29〜11/25 の日程で開かれることを知りました。  都落ちした素浪人には気になるところです。

「初秋の湿原を行く_植生のかわるころ」

 一昨日と昨日の二日間にわたって、初秋の湿原に遊んできました。一日で植生のかわることに目を見はりました。  黄色のミミカキグサの群生に紛れ、ムラサキミミカキグサ、ホザキノミミカキグサの混淆する配色の妙はみごとでした。  裸足にサンダル履きはルール違反ですね。偏光グラスが、木道の照り返しをやわらげ快適でした。ようやく疲れを感じる体になりました。

「京(みやこ)のかたな 匠のわざと雅のこころ_京都国立博物館」

 昨夜 偶然にも、 「京(みやこ)のかたな 匠のわざと雅のこころ」 展 が、京都国立博物館にて、2018/9/29〜11/25 の日程で開かれることを知りました。  都落ちした素浪人には気になるところです。

「2018年_夏期講習の置きみやげ」

「わーい」と喜んではみたものの、おしゃべりがすぎる のは好ましくありません。 集中力を欠き、 「座 力」 を欠いています 。心がざわついています。 一人黙している時間の尊さを思 います。 内に向くべきはずの注意が、外に向かっています。 気が抜けます。回復するまでには、相当 の時間がかかりそうです。饒舌は禁物です。

TWEET「わーい」

つい今しがた、夏期講習(夏のボランティア活動)が終わりました。 とり急ぎまして、ご報告まで。 FROM HONDA WITH 💕.

「身を、動詞『やつす』」

 内に向くべきはずの眼が、外に向かっています。夏期講習の弊害です。饒舌は身を細らせます。  時間がこま切れにされています。  いつも誰彼といっしょは、身をやつします。

TWEET「受験参考書を繰る」

 十六夜の月が明るく、みごとです。  月の出が、一日におよそ一時間ずつ遅くなるのを知ったのは、一昨年の暮れのことでした。理解するまでに、結構な時間を費やしました。  受験勉強は人のためならず、と再認識しました。その年の公立高入試で出題され、なぜか、あわてました。

「初秋の湿原を行く_ああもだえの子」

 昨夕初秋の湿原に行ってきました。素足にサンダル履きでの散策でした。サンダルはソールが薄く、土の感触、木道の感触が心地よく、歩くことが楽しみでした。  あちこちにシラタマホシクサの群生がみられました。一週間前にはみられなかった景色です。雪白の珠は、皆小粒で、これから花期を迎えます。頭花を下から見やれば平たく、球体とばかり思っていた頭花は、半球であることを知りました。  サギソウは見あたらず、自然は悠久かと思えば、さにあらず、「相似たる」にすぎません。  後ろ手に、うつむきかげんの姿勢で歩くことが、いつしか習いとなりました。私から積極的に挨拶することはありませんよ、という表明です。道行く人たちとの、平地での挨拶は煩わしく、煩瑣です。  予期せぬ、 「こんにちは」 の声に、 「こんにちは」 と応え、顔をあげると、そこには息も絶えだえの青年の顔がありました。 「お疲れのご様子ですね」 と声をかけると、 「あっ、いえ、はい」 との、弱々しい笑みと返事が返ってきました。  道にでも迷ったのでしょうか。それとも、向こう見ずなトレッキングの成れの果てだったのでしょうか。命からがらの姿は、可笑しくて仕方ありませんでした。  足繁く通いつめることにします。秋の湿原に遊びます。

TWEET「もう幾日か夜空を渡れば」

静かな夜です。 いま、南の空に満月がかかっています。 もう幾日か夜空を渡れば、仲秋です。 李白を思うにつけ、白洲正子を読むにつけ、思うのは仲秋の夜の舟遊びのことばかりです。 以下、 「白洲正子の本領_仲秋の名月」 です。

TWEET「西陽をまぶしく感じるころ」

 今日、明日の予想最高気温が 35℃,36℃ と、真夏の再来です。朝夕だけでも過ごしやすくなることを、と祈っています。  毎年このころになると、西陽が強くなったと感じるのは、私の思いすごしなのでしょうか。来春まで、運転中には、偏光グラスが欠かせなくなります。フレームは、祖父の遺品です。  老眼が進行し、レンズの交換を余儀なくされるたびに、いよいよかなと思い、おろおろしています 。 追伸:下記、検索結果です。引用(ほぼ改)です。 「冬の西日が眩しいのは?」  空気が澄んでいるからです。秋から冬にかけては、大陸から乾燥した北西の季節風が吹き、かっらと乾き、陽ざしの妨げになるものがありません。  夏には、海上から湿った南東の季節風が吹き、湿気が陽光を少なからずさえぎります。 眼鏡店では、サングラスではなく、偏光グラスを勧められました。

中井久夫「まだそのバランスシートは書かれていない」

「ある教育の帰結」 中井久夫コレクション『「思春期を考える」ことについて』ちくま学芸文庫 中井久夫「高度成長によって、われわれは大量の緑とともに大量の青春を失った」  高度成長は終わったが、そのバランスシートはまだ書かれていない。しかし、その中に損失として自然破壊とともに、青春期あるいは児童期の破壊を記してほしいものである。われわれは大量の緑とともに大量の青春を失ったと言えなくもない。(68頁)  積読が活きた夏であった。  一冊の本からそれは数冊の本へと波及し、そしてそのほとんどが積んである書籍で間に合った。結構な冊数の本が、いまだに積んだままになっている。有意味な収集であるが、日の目を見るかどうかは、また別の問題である。手元にあることに意義がある、と思っている。 ◇ 白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社 「最後まで愛した画家ルオー」 を昨夜ながめていた。  そして、今朝早速、 長年月にわたってご無沙汰していた、 『GEORGES ROUAULT』 を開いた。名古屋市美術館で、2006年に開催された「出光コレクションによる ルオー展」で求めたすてきな装丁の画集である。生来の欲張りである私は二冊購入した。表紙の色の異なる、表紙に貼りつけられた異なった絵(「11 小さな女曲馬師」と「23 キリスト(とパリサイ人たち)」の持ち重りのする画本である。  そのほとんどをルオーの写真をながめて過ごしている。ルオーの人となりについて、思いをめぐらせている。観想については稿を改めて、ということにさせていただきたいと思う。  私の積読における散財についての「バランスシートはまだ書かれていない」。書くまでもなく、勝ち抜け、とだけ記しておく。  少し牽強に過ぎたでしょうか?  たいへん遅ればせながらも、中井久夫先生への「夏見舞い」でした。

「拝復 P教授様_その先のこと」

「必要なモノも捨てる」 ひとしきり、異界に遊ばれていたんですね。 「捨てる」ことは「捨てられる」こと。「捨てられる」ほうが気楽でいいですね。身の回りは「捨てる」もので、あふれています。秋には大掃除を、と張りきっています。 夏のボランティア活動(夏期講習)の先がみえてきました。その先のボランティア活動については、知らんぷりしています。 お便り、どうもありがとうございました。 くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

「夏の終わりに_ごほうびです」

昨日より、patagonia の「オンラインショップ限定セール」がはじまりました。それに乗じて、以下の七点を注文しました。「 スウェットシャツ 」,「 ピマ・コットン・シャツ 」 のみ新作です。残りの六点については、もう少し様子をうかがってみようかとも思いましたが、20〜50% off ですので、決心しました。「ベルト」と「サンダル」以外は、父との兼用です。 patagonia メンズ・リミテッド・エディション・パタロハ・シャツ メンズ・テキスト・ロゴ・オーガニック・Tシャツ メンズ・ロングスリーブ・ピマ・コットン・シャツ メンズ・ロングスリーブ・フィヨルド・フランネル・シャツ(アジア・フィット) メンズ・ジオロジャーズ・ライトウェイト・クルー・スウェットシャツ フリクション・ベルト MAMMUT アウトドア ジャケット マイクロレイヤー ジャケット TEVA  サンダル M ORIGINAL UNIVERSAL-URBAN 誰のおほめにあずかることもなく、夏のごほうびです。自画自賛はお手の物です。

「一枚の絵について書くことは難しい」

 「読む」ことの難しさが、「書く」ことに匹敵するならば、一枚の絵について「書く」ことは、「描(か)く」ことに相当する。   「創造的誤読」 (井筒俊彦)があるならば、「創造的誤見(誤認)」があってしかるべきである。小林秀雄こそその当人である。「批評」が、「創造的行為」ならば、訳ないことである。  それは画家の手柄か、見者の手柄か。それとも相乗効果か。いずれにせよ、「創造的誤見(誤認)」とは、見者に用意があっての椿事である。 今日も、 ◇ 白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社 に、掲げられている、「雪舟」「本阿弥光悦」「俵屋宗達」「富岡鉄斎」、そして「梅原龍三郎」「奥村土牛」「地主悌助」の絵をぼんやりながめています。  言葉になるまでながめ続けます。

「夏との折り合いを『動詞』_つける」

 処暑が過ぎ、台風20号をやり過ごし、夏休みも残すところ八日となりました。午前・午後の三時間ずつの授業を1セットとすれば、夏期講習もあと12セットとなりました。時間内に納め、夏休み明けの土・日講習に持ちこむことは極力避けたいところです。子どもたち如何です。あなた任せの世界です。 昨日は、 ◇ 白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社 に、掲げられている、「雪舟」「本阿弥光悦」「俵屋宗達」「富岡鉄斎」、そして「梅原龍三郎」「奥村土牛」「地主悌助」の絵をぼんやりながめていました。  一枚の絵について書くことは難しく、言葉が生まれるまで、しばらくの間ながめ続けることにします。  小林秀雄が愛した骨董には、妖しさがなく、すっきりしており好感がもてます。  夏の終わりです。上手く折り合いをつけたいと思っています。

「処暑の日に、野分見舞い」

 「二百十日」とならび、「処暑の日」は、台風の特異日に当たるそうです。  いま日本の南海上にある台風 20号の北上が気になっています。台風19号と牽制し合っているのでしょうか、遅々として進まず、やきもきしています。結構な東風が吹いています。時折降りつける横なぐりの雨が、薄日に照らされて輝いています。避けられぬものならば、いっそ足早に駆けぬけて欲しいものです。  今日の午前・午後の夏期講習への出欠は、あなたたち任せ、と告げてあります。顔ぶれをみての授業です。  昨日は、8,5 時間の授業をこなし、間に間には、 ◇ 司馬遼太郎,白洲正子,水上勉 他『近江路散歩』(とんぼの本)新潮社 を眺めていました。琵琶湖へはよく釣りに出かけましたが、湖岸ばかりをめぐっていましたので、肝心なことには眼がゆかず、惜しいことをしました。いくつかの風景には見覚えがあり、当時をしのんでいました。せっかちなひろい読みに終始しました。「石垣の町 坂本」(52-59頁)の石積みに関心をよせています。  被害がでないことを祈るばかりです。  また、台風が真夏をもたらすのか、秋を運んでくるのか、気になるところです。

「一枚の絵をよく見ることは難しい_明日の処暑の日に思う」

前略 Dr.T様 ◇ 白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社 雪舟〈山水長巻〉春景部分 1486 紙本墨画淡彩 39,8×1653 毛利博物館(64-65頁) 雪舟〈慧可断臂図〉1496 紙本墨画淡彩 183,8×112,8 斎年寺(66頁)  昨夜は一時間あまり、雪舟の水墨画をながめて過ごした。  〈山水長巻〉では、「開鑿(かいさく)された」平らかな「山径」、切り立った岩肌に広がった垂直面、そして渓流にかかる岩橋の美しさがまず眼をひく。濡れて光る「小径」、崩れ落ちる「岩の破片」、「小径」の斜面を転がる岩片も次第に見えてくる。  また、〈慧可断臂図〉においては、「入門の決意を示すため、左腕を切り落として達磨に差し出す」「神光(後の慧可)」の、額に眉根に深く刻まれた皺は悲壮である。達磨は面壁の姿勢を崩すことはないが、虚ろな、戸惑いの眼をしている。達磨の纏う衣の線は柔らかく、身体は消失し、宙をたゆたっているかのようである。  おしゃべりが過ぎた。下手な説明は鑑賞の邪魔になるだけである。小林秀雄の文章にみられるのは、観照体験である。  ここにも曖昧(あいまい)な空気はない。文学や哲学と馴れ合い、或る雰囲気などを出そうとしている様なものはない。達磨は石屋の様に坐って考えている、慧可は石屋の弟子の様に、鑿(のみ)を持って待ってる。あとは岩(これは洞窟(どうくつ)でさえない)があるだけだ。この思想は難しい。この驚くほど素朴な天地開闢(かいびゃく)説の思想は難しい。込み入っているから難しいのではない。私達を訪れるかと思えば、忽(たちま)ち消え去る思想だからである。(55-57頁)  ひき続き、「ぼんやりながめる読書」を続けます。   早々 以下、 「小林秀雄 観想三題_まとめて」 です。

「歌を忘れたカナリアは_二日前の処暑の日に思う」

前略 H様  夏期講習に現をぬかし、読書習慣をすっかり失くしてしまいました。一昨日の日曜日には、夏の疲れからか、昼過ぎまで寝たり起きたりして過ごしました。 昨夜には、 ◇ 白洲正子,牧山桂子 ほか『白洲正子と歩く京都』(とんぼの本)新潮社  「匠たちの手仕事」(82-107頁)  「『韋駄天』お正の美食案内」(108-127頁) を、読むともなく、見るともなく、二時間ほどぼんやりながめていました。秋の読書習慣への呼び水としては、いまだじゅうぶんとはいえませんが、しばらくの間、「ぼんやりながめるという読書」を続けます。  思うのは、京都という町の伝統ということです。いまなおそれらを担い、継承している人たちがいるということ、そしてそれらの人たちは、自己を主張することなく、分限をわきまえて生きているということです。  秋の古都めぐりに思いをはせています。いつになく欲張りな秋です。  早々

「カナカナゼミ_三日前の処暑の日に思う」

前略 D様  木立の中の、ツクツク法師の鳴きしきる湿原からの帰り道では、初老の夫妻に、 「この辺りにヒグラシはいますか」 と声をかけられましたので、 「はい、います」 と応え、ヒグラシの鳴く所へ案内しました。 「カナカナカナカナ、と鳴いているのが、ヒグラシです」 というと、しばらく耳を澄ませていました。しかし、 「違うな、これはアブラゼミだな」 と、とんでもない言葉を口にしましたので、長居は無用と、 「すみません、間違えたかもしれません」 といい、足早にその場を立ち去りました。 「分かりません」 とだけいって、通り過ぎるのが正解でした。  一人を楽しんでいる際には、他所様(よそさま)の介入は避けるのが本当でした。 早々

「初秋の湿原を行く_四日前の処暑の日に思う」

前略 N様  初秋の湿原に散策に行ってきました。  ツクツク法師が鳴きしきるなか、時折ヒグラシの声が聞こえました。  数株のサギソウの花 を見ましたが、もう花期を過ぎているようでした。シラタマホシクサはこれからが盛期で、細長い茎の先に小さな雪白の珠を結んでいました。シラタマホシクサの群落には、ミミカキグサが 黄花と紫色のかわいらしい花をつけていました 。  湿原には、三時を少し回ったころ到着し、一時間半ほど歩きましたが、疲れはなく、疲れを感じないほど鈍感な体になったのかもしれないと、危ぶんでいます。山のとっつきまで行きましたが、ひき返しました。  厚手の渓流タビ用の靴下に、トレッキングシューズを履き、久しぶりに土の感触、木道の感触に触れました。汗みずくになる覚悟をしていましたが、汗ばむ程度でした。  稲穂が頭を垂れ、ハクモクレンが冬芽の準備をし、いよいよ秋の到来です。 早々

「初秋の湿原を行く_四日前の処暑の日に思う」

前略 K様  今朝は靴下を履き、日一日と、衣替えが進行しています。  夕方、人気のなくなった頃を見はからって、初秋の湿原の散策に行こうと思っています。サギソウが咲きシラタマホシクサの群落が見られ、雪白な星の間を白鷺が舞う。またそこには気の早い秋草が混じる、そんなすてきなイメージを描いています。  夏期講習にかまけ、埋め草としてはじめた「処暑の日に思う」が、思いがけなくも、連作になりました。われ知らず、「処暑の日」にむけてのカウントダウンがはじまりました。 早々

『2019年度版 高校進学ガイドブック サクセスロード 愛知県』佐鳴予備校

一昨日、 ◇『2019年度版 高校進学ガイドブック サクセスロード 愛知県』佐鳴予備校 を購入しました。「2018年8月10日 発行」と記されていますが、書店に並んだのは、つい最近のことと思われます。私は仕事がら毎年購入していますが、個々の受験生に必要な資料は限られていますし、高価な本ですので、立ち読みで十分です。  新入試制度の下で行われた二回目の、平成三十年度の入試資料です。あと数年経ないと落ち着かないと思っています。二年度の間にはバラツキがあり、不確定要素の多いのは否めませんが、参考になります。昨年度の「サクセスロード」と比較すると、不確定で、バラツキがあるだけに、興味深い読み物になります。「必携」とはいいませんが、「必見」とだけいっておくことにします。  以上、アナウンスでした。

「たとえば、散策_五日前の処暑の日に思う」

前略 Dr.T様  今朝はいちだんと肌寒く、長袖のTシャツを着ました。  たとえば、トレッキング。たとえば、散策。近所の散歩さえおぼつかなく、運動不足がたたり、歩行困難な状態に陥っています。涸沢までの道のりは長く、端緒を探しています。  いま南の空に明るい上弦の月がかかっています。   夢は山野をかけめぐっています。 早々

「約束の日に、約束の場所で_六日前の処暑の日に思う」

前略 P教授様  今朝起きると肌寒く、厚地のハーフパンツにはき替え、長袖のボタンダウンシャツを羽織りました。急激な気温の変化に少々とまどっています。  処暑とは、暑さが落ち着く時期の意、とあります。六日後のことですが、季節の先どりをすることにしました。特筆事項です。週間天気予報をみると曇りや雨のマークが目立つようになりました。  油断しきっています。油断したくもなるような夏でした。  約束の日に、約束の場所で、思うのは、涸沢でのテント泊のことばかりです。錦繍の秋、静謐の秋に遊ぶことを楽しみにしております。 早々

「Dr.T 様_電子カルテとはご難ですね」

お盆休み明け早々、電子カルテとは御難ですね。  豊橋市民病院といい、豊橋メイツクリニックさんといい、先生方のキーを打つ手さばきはみごとですが、両病院ともキーボードが古く、力を要するでしょうし、またキーを打つたびに カチャカチャと音がし、特に市民病院の緊急外来の受付では耳ざわりです。  豊橋南の生活デザイン科や豊橋商業に入学した生徒たちは、GW 前後にはブラインドタッチを身につけます。最終的にはキーボードを箱でおおっての試験が課せられるそうです。速さを追求するならば、断然「 ひらがな入力」ですね。 「私のように古い人間」とは、ちょっと驚きましたが、よく考えれば、私たちはもう「古い人間」ですね。お払い箱になるのも間近ですね。  雲が広がる日が増え、少しずつ過ごしやすくなってきました。  夏期講習たけなわです。子どもたちのご都合主義の日程では、とても追いつきません。子どもたちは容赦なく予定を入れてきます。授業時数が減れば楽でいい、とでも お考えのようです。まるで他人事(ひとごと)です。切実さがありません。  30時間ちかく夏期講習を休んだ男の子がいて、退塾していただきました。一対一での埋め合わせはとても無理です。やる気のない子につき合う気もありません。  家庭学習なしで、すべてを塾で抱えるわけですからたまりません。 一日8時間半授業をする日があります。 P 教授は、「塾長の夏のボランティア活動」と呼んでいます。  自学自習ができるのは、上位15%前後の子どもたちに限られるような気がしています。時習館、豊橋東 受験組だけです。情けない時代になりました。  両病院とも、先生方はキーボードにはほとんど目をやりませんが、その間にはディスプレイを見ていますので、やはり患者さんは二の次になるような気がしています。結局は書くより早く打てないと意味がない、ということですね。しかし、カルテが電子化される特典は大きいと思っています。  このご時世一般企業では、タッチ・タイピングくらいできないと、窓際族になるのかもしれませんね。ご健闘をお祈りしております。 お便り、どうもありがとうございました。 ひき続き、すてきな休日をお過ごしください。 また。 くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

河上徹太郎「梶井基次郎『檸檬』という名の散文詩について」

 白洲正子の文章に、梶井基次郎の『檸檬』が登場するとは思いもよらぬことだった。   白洲正子「吉越立雄_梅若実『東岸居士』2/4」 「文学にたとえるなら、それは梶井基次郎の『檸檬』に匹敵する危険な遊びであり、お能の危機感ともいうべきものを裸形にして見せた演技であった。」(白洲正子「吉越立雄(たつお)能の写真」『夢幻抄』世界文化社、119頁)  その数日前には、梶井基次郎、『檸檬』の文字を、河上徹太郎「昭和初期の詩人たち」(『日本のアウトサイダー』中公文庫)の中に見つけ、意外に思ったばかりだった。河上徹太郎は、梶井基次郎を「日本のアウトサイダー」とみなし、詩人と位置づけている。  それから彼はさらに思いついて、何くわぬ顔をしてその儘外へ出る。「丸善の棚へ黄色い恐ろしい爆弾を仕掛けて来た悪漢が私で、十分後にはあの気づまりな美術書がみんな木つ葉みぢんになる」という想定なのである。  児戯に類する幻想だと開き直られてはそれまでである。然し美と自分の倦怠を率直に対決させて、実にすっきりしたイメージである。これは百の丸善が空襲で爆撃されるよりもっと大きな事件である。何しろ一デカダン詩人の欠伸がこれをすっ飛ばすのだからだ。   倦怠は好んで地球を廃墟にする   そして欠伸のうちにこの世を呑むだらう  ボードレールは『悪の華』の序詩でこう歌っているのだが、それは彼が、倦怠があらゆる悪徳の中で最も潜在的なエネルギーを持ち、かつ意図が純潔なものであることを知っていたからである。だからこれは単なる衰弱ややけっぱちの一種ではない。そして梶井はボードレールの精神をこの散文詩で見事に実現したのであった。(84-85頁) 梶井は日本的抒情性、堀(辰雄)は王朝的物語性に則りながら、そこに生み出された現実は、およそ「西欧的」で「近代的」なものであった。それは明治大正の先輩が、あらゆる叛逆と革新を以て企てて来たものであって、それがこの二人の病詩人の極めて特異な小世界で実現されたことは特記すべきである。(93頁) この書では、「中原中也」「萩原朔太郎」「岩野泡鳴」といった文学史上の人物がとりあげられている。おろそかにできない一冊である。

白洲正子「吉越立雄 能の写真」_まとめて

白洲正子「吉越立雄(たつお)能の写真」_まとめて 白洲正子『夢幻抄』世界文化社  ◇  白洲正子「吉越立雄 能の写真」1/4 ◇  白洲正子「吉越立雄_梅若実『東岸居士』2/4」 ◇  白洲正子「吉越立雄_梅若実『東岸居士』3/4」 ◇  中川一政「もうこうなると化けているから」4/4 ◇ 「如何せん如何せん、名月を戴いて如何せん」

「如何せん如何せん、名月を戴いて如何せん」

 小林秀雄を、白洲正子を読むにつけ、「観」も「観点」も明らかになった。それらは軌を一にするもので、再認識した格好である。井筒俊彦が「東洋哲学」として、教示してくださったことどもである。と、ここまで書いたところで、私の手は、はたと止まる。 「いかにかすべき我が心」 西行  如何せん如何せん、名月を戴いて如何せん。 「名月をとってくれろと泣く子かな」 小林一茶  いまの私は、「名月をとってくれろと泣く子」と、さしてかわらぬ。  一通りの高校受験対策の授業はできるようになった。授業をすれば、それなりの満足感がないわけではないが、その満足感が曲者である、と思うようになったのが、ことの発端だった。  さらに、この20年あまりの間に子どもたちが変わり、親たちが変わった。節度なく前後なく、入試後には、たちまちのうちに打ち捨てられる。その変わり身の早さはみごとである。それは目にあまり、度を越している。そういった関係にもうんざりしている。  ただ、熱に浮かされていただけのことだったのかも知れない。いったん覚めたものに、熱を上げるわけにはゆくまい。必要以上のことはしないことと心に約しているが、見るに忍びなく、あいかわらずである。  ブログを書きはじめて、2018/08/03 で三年になった。作文を修養の場にするほかないことは重々承知している。行方ははっきりしている。私が右往左往しているのは、そこに至るまでの、不分明な道のりゆえである。 以下、 白洲正子「いかにかすべき我が心」 です。

中川一政「もうこうなると化けているから」4/4

◇ 白洲正子「吉越立雄(たつお)能の写真」(『夢幻抄』世界文化社) の、梅若実が舞う『東岸居士』における文章を読むにつけ、吉越立雄の写真を見るにつけ、思うのは、「もうこうなると化けているから」といった中川一政のひと言である。  そこには、彼我の別なく、彼此の別なく、自在な景色が広がるばかりである。美の拠るところである。人の立ち位置の極まるところである。 小林秀雄「鉄斎の自在」 「鉄斎 III」 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫  鉄斎の筆は、絵でも字でも晩年になると非常な自在を得て来るのだが、この自在を得た筆法と、ただのでたらめとの筆とが、迂闊(うかつ)な眼には、まぎれ易いというところが、贋物(にせもの)制作者の狙いであろう。例えば、線だけをとってみても、正確な、力強い、或(あるい)は生き生きとした線というような尋常な言葉では到底間に合わない様な線になって来るので、いつか中川一政氏とその事を話していたら、もうこうなると化けているから、と氏は言っていた。まあ、そんな感じのものになって来るのである。岩とか樹木とか流木とかを現そうと動いている線が、いつの間にか化けて、何物も現さない。特定の物象とは何んの関係もない線となり、絵全体の遠近感とか量感とかを組織する上では不可欠な力学的な線となっているという風だ。これは殆(ほとん)ど本能的な筆の動きで行われている様に思われる。最晩年の紙本(しほん)に描かれた山水(さんすい)などに、無論線だけには限らないが、そういう言わば抽象的なタッチによって、名伏し難い造型感が現れているものが多い。 (180-181頁)

白洲正子「吉越立雄_梅若実『東岸居士』3/4」

 羯鼓(かっこ)の小さな桴(ばち)を握り、大きく両手を掲(あ)げた、梅若実は仏さまのようである。「そのうつろな眼」、障るところのない形姿(なりかたち)は、宙をたゆたうようである。我が舞うのか、彼が舞わせるのか。 それは、劇中のことではなく、心中の問題である。 この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは何時如何(いついか)なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。(小林秀雄「無常という事」) 室町時代という、現世の無常と信仰の永遠とを聊(いささ)かも疑わなかったあの健全な時代を、史家は乱世と呼んで安心している。  それは少しも遠い時代ではない。何故なら僕は殆(ほとん)どそれを信じているから。 (中略) 肉体の動きにの則(のつと)って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥(はる)かに微妙で深淵(しんえん)だから、彼(世阿弥)はそう言っているのだ。不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやくざなものは、お面で隠して了うがよい、彼が、もし今日生きていたなら、そう言いたいかも知れぬ。(小林秀雄「当麻」)

白洲正子「吉越立雄_梅若実『東岸居士』2/4」

「吉越立雄(たつお)能の写真」 白洲正子『夢幻抄』世界文化社  あるとき、吉越さんは、ふとこんなことを口走った。  ー 舞台と見物席の間で、カメラを構えていることはたしかに辛い。またさまざまの(お能以外の)制約にしばられることも、忍耐が要(い)る。が、それとは別にシャッターを「押してりゃ写っちゃう」ときもある。  そして、その一例として、梅若実の『東岸居士(とうがんこじ)』をあげた。これは実の晩年、老人だから面をつけないでも構わないだろうといって、直面(ひためん)で演じた、そのときの写真である。  『東岸居士』というのは、十五、六歳の少年の能で、それを八十になんなんとする老人が、面なしで舞うというのだから、ずいぶん思い切った演出である。が、『東岸居士』という曲が、そもそも皮肉な着想なので、年端(としは)も行かぬ少年が、老僧のような悟りを得ており、世の中はすべてこれ「柳は緑、花は紅」、本来空(くう)なれば家もなく、父母もなく、出家してわざわざ坊さんになるまでもない。されば髪もそらず、衣も着ず、飄々として自然のままに生き、興にのったときは羯鼓(かつこ)を打ち、笛を吹いて舞い遊べば、それが即ち極楽ではないか。 「何とたゞ雪や氷とへだつらん、万法みな一如なる、実相(じつそう)の門に入らうよ」  と、舞いおさめて終わる。筋もなく、劇もない。いわば人間のぎりぎりの姿、ひいては「万法みな一如なる」お能の真髄を語ったものに他ならない。技術の上でも、大してむつかしくないくせに、演じにくいことでは、五指のうちに数えられるお能である。  お能にはときどき、老人か子供しか演じられないものがあるが、『東岸居士』もそういう種類の一つといえる。 (中略) 実さんはときどきそんな風に、見物の意表をつく演技をし、その度毎に成功したが、もうこの頃は、そんな気持ちもなかったであろう。根が軽い曲のことであり、囃子方もあまりよくはなく、地謡も若い連中で、面をつけることさえ億劫だったのではあるまいか。その幾分投げやりな気持ちが、『東岸居士』の思想とはからずも一致し、みごとな演技に開花した。いうまでもなく、手放しで舞える力量を具(そな)えていたからだが、それは「芸」だけが独り歩きをしているような、たぐい稀(まれ)なる見ものであった。  吉越さんの言葉を借りれば、だか

白洲正子「吉越立雄 能の写真」1/4

「吉越立雄(たつお)能の写真」 白洲正子 『夢幻抄』世界文化社   吉越さんとは古い付き合いだが、はじめてお会いしたのはいつ頃だったか。覚えているのは、どこの能舞台へ行っても、見物席の片隅に坐って、黙々と撮影している姿で、それも多くの場合、シャッターは切らずに、舞台を見つめていたのが印象に残っている。(98頁)  たしかにお能にはそういう(人を病みつきにさせ、とりこにさせる)ものがある。外部の人にはわからない一種デーモニッシュな吸引力である。そして吉越さんは、それを写すのに成功している。少なくとも私が知る範囲では、彼が現れるまで、お能の写真は絵葉書を出なかった。(99頁)   ー  ファインダーをのぞいているのはとても辛いことです。肉眼と舞台の間に媒介物があって、そこで私は、お能を見ながら別な作業をしている。レンズを通すと、相手の実態というものはまるで見えないものです。特に望遠レンズの場合は部分しか眼に入らない。つまらないお能のときは、それでも構わないが、いいお能のときは、身がひきさかれる想いがします。が、私は写真家であり、仕事として遺さねばならないものがあると、そう想い直して撮影するのです、と。  これはどんな仕事にも通じる辛さであろう。おそらくその我慢が美しい写真を撮らせるのだ。彼にとって、お能は「被写体」ではなく、追求して止まぬ美の化身なのである。だからカメラという機械の限度というか、その非力さをつねに感じている。そして、「写らないものが一杯ある 」ことを、あきらめつつも残念に思っている。その代わり、写真でなくては表現できないものもあるに違いない。先に記した橋岡久太郎(きゅうたろう)の「安達原(あだちがはら)」などは、肉眼では逃したかも知れないものをとらえているが、特に能面の表情については、独特の才能をしめしていると思う。(104頁)  久太郎さんの写真に傑作が多いのは何故だろう。吉越さんにたずねてみると、装束付(しょうぞくつき)が特にいいように記憶しているといわれた。装束がぴったり身につくというのは、芸がしっかりしている証拠で、地味な性格であったため、生前はそれ程持て囃(はや)されなかったが、このような写真を遺 して下さったことは、後進のためにもなり、私たちは感謝すべきだと思う。(100頁)  望遠レンズでのぞいてみると、面の表情

「前略 H君へ_東京初見参、初々しくっていいですね」

 昨日、六花亭の菓子折りを夏見舞いに送っていただき、お父さん、お母さんに、返礼のメールを送りました。  お父さんからの返信で、東京ディズニーランドに行くことを知りました。なんとも微笑ましく、初々しくっていいですね。  もう帰札の途に着いたのでしょうか。凱旋ですね。  帰札後は生活が一変しますね。あれよあれよという間に入試を迎えることになると思います。もうひと頑張りに期待しています。 では、では。 くれぐれもご自愛ください。 GOOD LUCK! FROM HONDA WITH LOVE. 追伸:ご返信ご不要です。また、ご心配ご無用です。

「四日遅れの立秋の日に_残暑お見舞い申し上げます」

 一昨日の夕方には、この夏はじめて、「つくつく法師」の鳴き声を耳にしました。季節はめぐっていることを実感しました。台風12号、13号の通過前後では、明らかに季節の変化がみてとられ、季節をも左右する台風の脅威をあらためて感じています。連日の猛暑につのるのは、うらめしさばかりですが、秋の夕べの気配を感じるころ、行く夏を惜しむ気になるのでしょうか。  ブログの「国別のページビュー」には、三日前から「不明な地域」の文字が表示されるようになりました。はじめてのことです。結構な数、閲覧していただいております。「不明」とは、「無国籍」の意か、「多国籍」の意か、などと他愛のないことを思っていましたが、「不明な地域」という名の独立国ということで決着しました。いずれにせよあり難いことです。 残暑厳しき折、くれぐれもお大事になさってください。 ご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

白洲正子『お能の見方』

「おわりに」 白洲正子,吉越立雄『お能の見方』(とんぼの本)新潮社  前に、故・武智鉄二さんの演出で、ストリップ能というのがありました。裸かの女の子に、『羽衣』を舞わせたのです。私は週刊誌上で見ただけなので詳しいことは知りませんけれども、これはたしかに面白い試みでした。形こそ変れ、室町時代のお能は本質的にはきっとそういうものだったに違いないからです。  裸かの女が、面をつけ、冠をかぶり、白足袋をはいて、能舞台の真中に立っている。その写真を眺めているうちに、どうしてだか、私はさむざむした気分になって来ました。内容はたしかにお能だが、…… そうかといってヴィーナスのように美しくはない。どんな肉体が、一時間以上もの凝視に堪えるでしょう。しかもあまり動かずに。さむざむとしたのは、そんな恰好でお能を舞わされた女の子に同情したからですが、その羽抜け鳥みたいな姿は、またこんなことを語るようでした。 ー 歴史は二度とくり返さない。お能は既に終わったのだ。ほんとを言えばそういう気持ちが私にこの本を書かせたのでしたが、彼女は彼女で、面白い感想を述べておりました。 「あたし裸かで人前に出て、羞しいと思ったことは一度もない。それがどうしたことでしょう。お面をかぶって、舞台に出たとたん、逃げ出したくなるほど羞しくなった。こんなことは生まれてはじめての経験です」と。おそらく仮面の芸術の秘密はそこにあるのです。(117頁) 「 形こそ変れ、室町時代のお能は本質的にはきっとそういうものだったに違いないからです 」 と、白洲正子が 書いたのは、 当時の能はいまの ロック(ミュージック)のようなものだ、と言い放ったビートたけしの発言に感心し、またそれは、赤瀬川原平の『千利休 ー 無言の前衛 』岩波新書 に、白洲正子が認めたものと同質のものであった。 「おそらく仮面の芸術の秘密はそこにあるのです」   行住座臥慣れ親しんでいる仮面を仮面で覆えば、素面であり、自ずから視線は内に向かう。「裸か」の自分を、無防備のままに人前にさらすことになる。「仮面の芸術」とはごまかしのきかない、「 ストリップ能」と同等のもの であるといえよう。  なお、 吉越立雄については 、 「吉越立雄(たつお)能の写真」のタイトルの下に、 白洲正子 『夢幻抄』世界文化社 に 書かれていますので、後述

「『天才 青山二郎の眼力』を眺めながら」

昼すこし前から、 ◇ 白洲信哉 [編]『天才 青山二郎の眼力』(とんぼの本)新潮社 を眺めている。眺めながら、 ◇  小林秀雄「壺中天」 を想い、 ◇  小林秀雄「絵を見るとは、一種の退屈に堪える練習である」 のことを思っている。  妖光を放つ骨董も少なからずあり、そこには我執の果ての怨念、また怨讐といったものを感じる。  やはり退屈をしのぐには耐力が必要である。

「前略 H君へ_おのぼりさんツアーですね」

おはようございます。 はじめての東京はいかがですか。 台風の合間をぬって、無事に上京できてよかったですね。 おのぼりさんツアー、大いに羽を伸ばし、存分にお楽しみください。 昨日、「炎暑」という言葉をはじめて目にしました。 暑さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。 HAVE A NICE TRIP! FROM HONDA WITH LOVE. 東京は厄介で、危なっかしくもあり、新宿の歌舞伎町は、その筆頭です。とはいえ、学生時代、新宿は僕たちのホームグランドでした。裏道には入らないようにしてくださいね。はじめての店、確かな情報のない店にも立ち入り禁止です。新宿は、誰でも受け容れてくれる、懐の深い街です。Hの仮装くらいは、いっこうに平気です。在京の友だちといっしょならば、心強いですね。 高校を卒業して、一気に全国へと裾野が広がりましたね。次のお相手は世界ですね。次には日本回帰ということになるのでしょうか。 Hは、東京の暑さ、雑踏をどう感じるのかということが、目下のお父さんの気がかりです。 東京の水は甘いか、しょっぱいか。 都詣で、ごゆるりとご堪能ください。 ご丁寧なご返信、どうもありがとうございました。 盛夏の候、くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASE ! FROM HONDA WITH LOVE.

白洲正子「永井さんの『くるるの音』」

永井さんの「くるるの音」 白洲正子『夕顔』新潮文庫  昭和五十八年四月の「新潮」臨時増刊号は、小林秀雄の追悼記念号である。  その中に永井龍夫(たつお)氏が、『くるるの音』という題で、小林さんについて語っている。「伝説の第一作」、「弔詞」、「羨望(せんぼう)」とつづいた後の「附記」にはじめて出てくるのであるが、くるるというのは旧式の雨戸についている桟(さん)のことで、夕方になって、庭をひと眺(なが)めしてから、雨戸を締め、最後にくるるがコトンと落ちるのを耳にする時ほど侘(わび)しく、淋(さび)しいことはないと、そういうことが記してある。  くるるという言葉を知ったのはその時がはじめてで、私の家にも古い雨戸があるが、よほど材が枯れて軽くならないと、自然には落ちない。自然にコトンと落ちるようになった時、その家に長く住みついた感慨と愛着が湧(わ)くように思われる。  わずか半頁(ページ)にも満たない永井さんのくるるの音の印象はあまりにも強く、読んだ時たしかに耳元で聞えたし、今でも聞えているような気がするので、前に何が書いてあったか忘れていた。今度読み直してみて、前段の三章があってこそくるるの音が生きて、ひびいてくるのだということが解った。  それについては皆さん御承知のことだから、かいつまんで記しておくと、第一章は、小林さんと初対面の時の憶(おも)い出話、次の「弔詞」はお葬式の際に読んだもので、小林さんに語りかけるかたちで、再会を信じていたが果たせなかったことを淡々と述べた後、「あなたの好きな菜の花が咲きました。さようなら。小林さん」と、六十年の友情と鞭撻(べんたつ)に深い思いをこめて語っている。  三番目の「羨望」の章は、小林さんが大手術をして鎌倉(かまくら)の家に戻った時、玄関でひと目会っただけで帰ったこと、その後は小林家のそばを通っても、遠慮して見舞に立ち寄らなかったことを、私は遺族からも聞いていたが、江戸っ子の永井さんは、何事につけてもよく気がつく、思いやりの深い人物だったのである。  永井さんの文章について今さら云々(うんぬん)するのもおこがましいが、その三章を通じて悲しいなんて言葉は一つもなく、寂光のように明るく静かな空気がただよっている。そこには二人の間にかもされた友情が如実(にょじつ)に描かれており、簡潔な筆致の奥に一つの歴

白洲正子「ツキヨミの思想」

「ツキヨミの思想」 白洲正子『夕顔』新潮文庫  河合隼雄(はやお)氏がNHKテレビで、十二回にわたって「現代人と日本神話」について語っていられる。  その中でもっとも私の興味をひいたのは、「中空構造」という思想であった。いきなり中空などといっても通じないと思うが、神話に例をとると、日本の神さまは三人一組になって生れることが多く、真中の神さまは、ただ存在するだけで何もしない。たとえばアマテラスとツキヨミとスサノオは「三貴子」と呼ばれるが、アマテラスは太陽(天界)、スサノオは自然の猛威(地下の世界)を象徴するのに対して、夜を司(つかさ)どるツキヨミだけは何もせず、そこにいるだけで両者のバランスを保っている。  次のホデリ(海幸彦)、ホスセリ、ホオリ(山幸彦)の三神も同様で、真中のホスセリだけは宙に浮いていて、どちらにも片寄らない。いわば空気のような存在なのである。  はじめて河合さんにお会いした時、私に話されたことを思い出す。深層心理学の先生が、クライアント(患者)に対してどのように接するのかうかがってみたところ、このような答えが返ってきた。 「若い時は、自分で相手の病を直そうと思って一生懸命になった。だが、この頃(ごろ)(その時先生は停年に近かった)は、自分の力なんか知れたもので、わたしは何もしないでも、自然の空気とか風とか水とか、その他もろもろの要素が直してくれることが解(わか)った。ただし、自分がそこにいなくてはダメなんだ。だまって、待つということが大事なんですよ」  まるで昔の坊さんのようなことをいう方だと思ったが、更につづけて、「私はそういう方法をとっているが、外国人や日本の若い人たちは、自分の力で直そうとやっきになっている。人はそれぞれ自分のやり方でやればいいんです」といわれたので、よけい感銘を深めた次第である。蛇足(だそく)をつけ加えれば、河合さんは自からの臨床体験によって、「中空構造」という思想に達したので、神話に対する単なる興味とか研究ではなかったのである。  考えてみると「中空構造」は、よくも悪くも、日本人の生活のあらゆるところに見出(みいだ)される。詳細はここでは省きたいが、そのもっとも顕著な在りかたは、日本の天皇に見出されるのではないかと私は思っている。(232-233頁)  昔、小林秀雄さんに、「人間は何も

小林秀雄「バカ、自分のことは棚に上げるんだ!」

「小林秀雄氏」 白洲正子『夢幻抄』世界文化社  そんなことを考えていると、色んなことが憶い出される。はじめて家へみえたとき、 ー その頃は未だ骨董の「狐」が完全に落ちてない時分だったが、「骨董屋は誰よりもよく骨董のことを知っている、金でいえるからだ」という意味のことをいわれた。私にはよくのみこめなかったが、少時たって遊びに行ったとき、沢山焼きものを見せられ、いきなり値をつけろという。 「あたし、値段なんてわかんない」 「バカ、値段知らなくて骨董買う奴があるか」  そこで矢つぎ早に出される物に一々値をつけるハメになったが、骨董があんなこわいものだとは夢にも知らなかった。その頃小林さんは、日に三度も同じ骨董屋に通ったという話も聞いた。  あるとき、誰かがさんざん怒られていた。舌鋒避けがたく、ついに窮鼠猫を嚙むみたいに喰ってかかった。 「僕のことばかし責めるが、じゃあ一体、先生はどうなんです?」 「バカ、自分のことは棚に上げるんだ!」  最近はその舌鋒も矛(ほこ)をおさめて、おとなしくなったと評判がいい。(15-26頁)  小林秀雄の寸鉄である。神さまからの贈り物である。早速いただくことにする。

「白洲正子の本領_仲秋の名月」

「ツキヨミの思想」 白洲正子『夕顔』新潮文庫 ただ詩歌の世界ではなくてはならぬ存在であり、月の運行、或いはその満ち欠けにによって、どれほど多くのことを我々の祖先は学んだか。古典文学だけではなく、日常の生活でも「十三夜」、「十五夜」は申すに及ばず、月を形容した言葉は枚挙にいとまもない。月を愛したことでは日本人にまさる人種はいないであろう。(234頁) 「幻の山荘 - 嵯峨の大覚寺」 白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫  いくつぐらいの時だったろうか、大沢の池に舟を浮べて、お月見をしたこともある。最近は仲秋の名月の夜に、鳴りもの入りで船遊びを行うと聞くが、そんな観光的な行事ではなく、極く少数の物好きが集まって、ささやかな月見の宴をひらいたのである。その夜のことは今でも忘れない。息をひそめて、月の出を待っていると、次第に東の空が明るくなり、双ヶ丘(ならびがおか)の方角から、大きな月がゆらめきながら現われた。阿弥陀様のようだと、子供心にも思った。やがて中天高く登るにしたがい、空も山も水も月の光にとけ入って、蒼い別世界の底深く沈んで行くような心地がした。ときどき西山のかなたで、夜鳥の叫ぶ声が聞えたことも、そのすき通った風景を、いっそう神秘的なものに見せた。(152頁)

「白洲正子の本領_秋草の壺」

白洲信哉 [編]『白洲正子 祈りの道』(とんぼの本)新潮社  桃山から江戸期へかけて、武蔵野の月と尾花は、一般民衆の間に浸透して行ったが、新古今集の歌にはじめてとり上げられた頃でも、既に一部の絵師や工芸家たちは、彼らの武蔵野のイメージを造りあげていたのではなかったか。たとえば国宝の「秋草の壺」がそれである。昭和十七年四月、川崎の日吉のあたりで、慶應義塾が工事をしていた時、偶然発見されたと聞いているが、その雄渾(ゆうこん)な姿と、秋草を刻んだ鋭いタッチは、比類がない。平安末期に、常滑(とこなめ)で造られた蔵骨壷で、ただし、絵だけは都の優秀な画家が刻んだのではないかといわれている。都の画家ならば、「武蔵野」の風景は胸中にあったに違いないし、武蔵の豪族を葬(ほう)むるための祭器と知っていれば、尾花で装飾することこそふさわしいと信じたであろう。そういう祈りに似たものを私はこの「秋草の壺」に感じる。眺めていると、強く張った形が満月のように見えて来て、茫々たる武蔵野の原をくまなく照らしているように見えてならない。(草づくし 武蔵野)(24頁)

TWEET「あまりの残忍さに、封印する」

 三田村泰助『宦官 改版 』中公新書 が、午前中に届きました。当書の存在は高校時代から知っていましたが、あまりの残忍さに、気色が悪くなり、20分ほどで封印しました。 以下、 白洲正子「南方熊楠にみる浄愛」 です。

「白洲正子の本領_観心寺 如意観音」

「南河内の寺」 白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫 「生身(しょうじん)の仏」という言葉があるが、それはまさしく生ま身の女体の、妖しく生き生きとした姿なのだ。ことに豊満な六臂には、不思議な力がこもり、吸いこまれそうな気分になる。女の私でもほれぼれするのだから、男が見たらどんな気を起すか。古来どれ程多くの坊さん達が、ふと垣間見た媚かしい肢体に、恋慕の炎を燃やしつづけたことだろう。如意輪には、仏法の功徳により、思いのままに苦を転ずるという意味があると聞く。してみると、この官能的な仏には、女体の最高の美を示すことによって、煩悩を転機に菩提へ導くという、逆説的な意味があるかも知れない。そんな廻りくどいいい方をするまでもなく、要するに、惚れこむことが信仰の第一歩だ。そう語っているように見えなくもない。それは多くの僧を迷わせたかも知れないが、同時に多くの僧を救ったに違いない。そういう意味では、危険な仏であり、厳しい仏でもある。秘仏にしておくに如(し)くはないが、また秘仏ほど人の興味をそそるものはない。現に私も、実物を拝んでいたら、こんな不埒な想像はつつしんだかも知れないのだ。  観心寺のお住職は、かねてから、こわい方だと聞いていた。が、私はそんな風には思わない。むしろ親切で、丁寧な方という印象を受けたが、こと信仰に関しては、頑としてゆずらぬ厳しさがある。この頑固さは尊重すべきであろう。時代錯誤とか、勿体ぶってるとか、世間の人々はいうかも知れないが、もともと真言密教は、秘密の宗教なのである。夜のとばりの中で、自力で悟る深遠な仏法だ。それに比べたら、よろずガラス張りで、解説つきで、何もかもダイジェスト的な、近頃の風潮ほど退屈なものはない。(108-109頁) 私は、 ◇白洲信哉 [編]『白洲正子 祈りの道』(とんぼの本)新潮社 を、手元におき、「白洲正子の本領」を書いています。すてきな本です。もちろん「 観心寺 如意観音 」の写真もあります。

「白洲正子の本領_中山寺 馬頭観音」

「若狭紀行」 白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫  山門を入ると、目の前にすばらしい眺望が現れた。今通って来た若狭湾から、和田の海、青戸の入江などが、微妙に入組んで一望のもとに見渡される。自然の環境は、人間の上にも影響を及ばすのか、中山寺の住職夫妻も、まことに闊達な方たちで、直ちに本堂の扉をあけて迎え入れて下さる。本堂は檜皮葺(ひわだぶき)のゆったりした建築で、広々とした風景の中にぴったりおさまって見える。  やがて、厨子の扉が開かれたとたん、私は思わず眼を見はった。そこには実に美しい馬頭観音が端座していられたのだ。馬頭観音は、三面八臂(はっぴ)の憤怒相で、逆立つ頭髪の上に、馬の首を頂き、凄まじい形相で睨みつけているが、その姿体は柔軟で、気負ったところが一つもない、ことに手足の美しさは、さわってみたい衝動に駆られるほどで、そこには柔と鋼、静と動が、みごとな調和を保って表現されている。それは理屈ぬきで、観音の慈悲というものを教えるようであった。この本尊は、三十三年目に開帳されるとかで、十月には厨子を閉ざすと住職はいわれたが、最初から計画したわけではないのに、偶然このような仏にめぐり会えたことは、何という幸せであることか。私は仏教信者ではないけれども、「結縁(けちえん 仏道の因縁)」という言葉を想ってみずにはいられなかった。(25-26頁) 「姿態」は、どこにも力みがなく、弛緩している。すべてを投げうって、重力に任せきっている。いかにもふくよかな体つきをしている。

「白洲正子の本領_稚児灌頂」

「西岩倉の金蔵寺」 白洲正子『かくれ里』講談社文芸文庫  たしかに不埒な想像だが、日本一の高僧を傷つけることにはなるまい。最澄も、空海も、想像を絶する偉大な人物で、古代仏教の頽廃の中から生れた天才なのだ。人間本来の欲望から、目をそむけるような狭量な人物ではない。一生不犯というのは、特殊な人物にしか望めぬ苦行で、凡夫の僧にしいるべきではないと思っていたかも知れぬ。そこに「稚児」という特殊な階級が生れた。むしろ自然に発生したとみるべきであろう。発生した以上、善導するにかぎる。「稚児灌頂」などという、おそらく日本にしかない不思議な儀軌ができたのも、ふしだらに流れるのを戒(いまし)めたために他ならない。花魁(おいらん)に絶大な見識を与えたように、稚児もみだりに犯すことのできぬ神聖な存在と化した。 (中略) 実際にも、男女の別のない少年には、観音や弥勒に通じる純粋無垢な美しさがあり、たとえば興福寺の阿修羅など、あの夢みるようなまなざしと、清純そのものの肢体は、天平時代の僧院にも、男色が行われたことを暗示しているように思う。観心寺のあの官能的な如意輪観音も、女ではなく、男であった。ほのかにゆらぐ灯のもと、密教の秘法をこらす僧侶たちが、そこに永遠の理想像を夢み、稚児を仏の化身と見たのも思えば当然のことである。夢にはじまり、その夢が現実となって現れる「秋の夜の長物語」は、よくその真髄をとらえているといえよう。(196-197) 以下、 白洲正子「南方熊楠にみる浄愛」 です。

白洲正子「南方熊楠にみる浄愛」

「浄の男道」 白洲正子『両性具有の美』新潮社  その中でただ一ヶ所、熊楠が愛していた青年と、日高川で別れる場面が何ともいえず美しく、朝霧にまぎれて東と西に消えて行く二人の姿が、「幽玄」とはこういうことをいうのかと、長く私の心に残った。今でも淡彩の絵巻物を見るように鮮明に覚えている。(132頁)  いずれにしてもこの世界は複雑怪奇で、両性具有とひと口にいっても、ピンからキリまであり、天界の神々から地上のホモやレズビアンに至るまで網羅している。岩田準一の研究によると、日本には男色の文献が二千近くもあり、その他の稚児とか陰間(かげま)とかおかまなどの名称は七十以上を数えるという。男色は日本だけではなく、ギリシシャ・ローマは元より中近東でも印度でも中国でも昔から盛んに行われたが、或いは宗教上の制約から、もしくは常民の生活から逸脱しているところに魅力があったのだろう。だが、そうばかりともいえないのは、十三、四から二十歳(はたち)前の男の子には、誰が見ても人間ばなれのした美しさがある。それがわずか四、五年、長くて六、七年で消えてしまうところに物の哀れが感じられ、ツバメの趣味なんかまったく持合わせていない私でさえ、何か放っとけないような気持になる。シモヌ・ド・ボヴォワールは、「人は女に生まれるのではない、女に成るのだ」といったが、男は男になるまでの間に、この世のものとも思われぬ玄妙幽艶な一時期がある。これを美しいと見るのは極めて自然なことであり、別に珍しいものではないと私は思っている。(18頁)  岩田準一あての手紙のはじめの方に、「浄愛(男道)と不浄愛(男色)とは別のものに御座候」とあり、そういう話になるのかと思っていると、また古今東西の知識が邪魔になって、ギリシャやペルシャから中国に至る同性愛の種々相があげられ、どれが浄愛か不浄愛か判然としなく成る。  かと思えば、「さる大正九年、小生ロンドンにむかしありし日の旧知土宜法竜師高野山の座主たり」と突然話は日本の昔へ飛ぶ。その座主がある時弘法大使請来の大日如来の大幅を見せられたことがあった。  「何ともいわれぬ荘厳また美麗なものなりし。その大日如来はまず二十四、五歳までの青年の相で、顔色桃紅、これは草堂(画師の川島草堂)噺(はなし)に珊瑚末を用い彩りしものの由、千年以上のものながら

「白洲正子と小林秀雄と南方熊楠と」

「浄の男道」 白洲正子『両性具有の美』新潮社  南方熊楠は今でこそ大変なブームになっているが、小林(秀雄)さんに勧められて、私がはじめて読んだのは四十年ほど前の話で、最初の全集が乾元(けんげん)社から出版された時であった。全集といっても、紙のない頃だから藁半紙に刷ったようなみすぼらしい本で、作品の全部が集められていたわけではない。  小林さんの読後の感想は、「あんなに記憶がよくて、いつ物を考えるのだろう」といったのが、奇妙に印象に残っている。たしかにその記憶力たるや抜群で、十何ヶ国かの外国語を知っていたと聞くだけでも驚いたが、やたらに知識を並べたてているのがうるさくて、その時はいいかげんにしか読まなかった。  その中でただ一ヶ所、熊楠が愛していた青年と、日高川で別れる場面が何ともいえず美しく、朝霧にまぎれて東と西に消えて行く二人の姿が、「幽玄」とはこういうことをいうのかと、長く私の心に残った。今でも淡彩の絵巻物を見るように鮮明に覚えている。(132頁)  熊楠という人は、綿密である反面、大ざっぱなところがあり、まとまった論文や評論集は残さなかったが、手紙や座談の中には興味つきせぬものがある。ひと口でいえば彼は稀代の「お喋り」で、そのお喋りの中から独特の思想は生れた。要するに沈思黙考するたちではなく、いつも人間を相手にして、とめどなく流れ出る知識の奥に彼のほんとうの顔がかくされていると、そう私は思っている。  熊楠について書いていると、つい私までお喋りになってしまうが、今までいったことは既に周知の事柄であるから、ここらへんで止めておきたい。( 133頁)  岩田準一あての手紙のはじめの方に、「浄愛(男道)と不浄愛(男色)とは別のものに御座候」とあり、そういう話になるのかと思っていると、また古今東西の知識が邪魔になって、ギリシャやペルシャから中国に至る同性愛の種々相があげられ、どれが浄愛か不浄愛か判然としなく成る。  かと思えば、「さる大正九年、小生ロンドンにむかしありし日の旧知土宜法竜師高野山の座主たり」と突然話は日本の昔へ飛ぶ。その座主からある時弘法大使請来の大日如来の大幅を見せられたことがあった。  「何ともいわれぬ荘厳また美麗なものなりし。その大日如来はまず二十四、五歳までの青年の相で、顔色桃紅、これは草堂(画師の川島草

「P教授に急かされて」

塾長の墓標 「中学生に人生のすべてを捧げた偉人、ここに眠る」 おはようございます。 「異人」ですね。まったく馬鹿げていますね。 ほんとですね。 他人にいっとき尊敬されるより、自分の細胞に永遠に 感謝される生き方を選びたいものですね!  平日の授業は、精神衛生上好ましく、手頃な息抜きの場になっていますが、テスト週間中、夏期・冬期・直前講習のボランティア活動は尋常ではありません。保護者の方たちも子どもたちも、さも当然のように思い、感謝の気持ちはさらさらなく、馬鹿げすぎています。入試が終われば、顧みられることなく、即捨てられます。その変わり身のはやさは、みごとです。  「自分の細胞」の件、黙考します。どうもありがとうございました。 研究室を大改造。学生が長居ができないようにソファーを撤去。かわりに 大きな机を据え、PCを置き、執筆の環境を整えました。 愉快ですね。 籠城を決め込んでください。 「書いたということは、聞いたということだ」吉田秀和 「書いたと言うことは、読んだということだ」P教授  今日はケーキ屋さんの喫茶室に陣取っています。  いま無性に「古寺」が恋しくて、とはいえ今回もじっと我慢の子です。幾重にも行く手をはばまれています。 盛夏の候、くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

和辻哲郎「夢殿観音」

「夢殿秘仏」 和辻哲郎『古寺巡礼』岩波文庫 しかし夢殿観音の生まれたのは、素朴な霊的要求が深く自然児の胸に萌しはじめたという雰囲気からであった。そのなかでは人はまだ霊と肉との苦しい争いを知らなかった。彼らを導く仏教も、その生まれ出て来た深い内生の分裂からは遠ざかって、むしろ霊肉の調和のうちに、 ー 芸術的な法悦や理想化せられた慈愛のうちに、 ー その最高の契機を認めるものであった。だからそこに結晶したこの観音にも暗い背景は感ぜられない。まして人間の心情を底から掘り返したような深い鋭い精神の陰影もない。ただ素朴で、しかも言い難く神秘的なのである。(294頁) 以下、 河上徹太郎「岡倉天心_まとめて」 です。

「休日に百閒先生を読む」

日曜日の今日は、朝から百閒先生の随筆を読んでいます。手元にあった文庫をひろい読みしています。くつろいでいます。 ◇内田百閒『百鬼園随筆』福武文庫 ◇内田百閒『第一阿房列車』福武文庫 ◇内田百閒『第二阿房列車』福武文庫 ◇内田百閒『第三阿房列車』福武文庫 ◇内田百閒『御馳走帖』中公文庫 下記、 内田百閒『長春香』_まとめて です。 昼前に、 和辻哲郎『古寺巡礼』岩波文庫 が届き、一時中断です。散逸したたくさんの書籍のうちの一冊です、「青空文庫」にあるのは知っていましたが、紙を選びました。「自炊」とは縁遠い読書習慣のうちにあります。  百閒先生にもどることができるのでしょうか。失踪、 失跡し、行方不明のまま、ということになるのでしょうか。 いよいよ乱雑な読書になってきました。11冊の文庫、入り乱れて、併読中です。収集がつかなくなってきました。

「白洲正子の本領_那智の滝」

「熊野詣」 白洲正子『十一面観音巡礼』講談社文芸文庫  翌朝起きてみると、雪が降っており、昨日とうって変った寒さである。私達は、本宮へお参りし、昨夜来た道を下って、那智へ行く。  こんなお天気にも関らず、飛滝神社の前には、観光バスが四、五台、止っている。神社といっても、ここには社はなく、滝が御神体である。大勢の人にもまれながら、石段を下って行くと、目の前に、滝が現れた。とたんに観光客は視界から消え失せ、私はただ一人、太古の時の流の中にいた。  雪の那智の滝が、こんな風に見えるとは想像もしなかった。雲とも霞ともつかぬものが、川下の方から登って行き、滝の中に吸いこまれるかと思うと、また湧き起こる。湧き起っては、忽ち消えて行く。それは正しく飛龍の昇天する姿であった。梢にたゆたう雲烟は、空と山とをわかちがたくし、滝は天から真一文字に落ちて来る。熊野は那智に極まると、私は思った。(288-289頁)

「白洲正子の本領_渡岸寺」

「湖北の旅」 白洲正子『十一面観音巡礼』講談社文芸文庫  早春の湖北の空はつめたく、澄み切っていた。それでも琵琶湖の面には、もう春の気配がただよっていたが、長浜をすぎるあたりから、再び冬景色となり、雪に埋もれた田圃の中に、点々と稲架(はさ)が立っているのが目につく。その向うに伊吹山が、今日は珍しく雪の被衣(かずき)をぬいで、荒々しい素肌を中天にさらしている。南側から眺めるのとちがって、険しい表情を見せているのは、北国の烈風に堪えているのであろうか。やがて、右手の方に小谷山が見えて来て、高月から山側へ入ると、程なく渡岸寺の村である。  土地ではドガンジ、もしくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が、貞観時代の美しい十一面観音をお守りしている。私がはじめて行った頃は、無住の寺で、よほど前からお願いしておかないと、拝観することも出来なかった。茫々とした草原の中に、雑木林を背景にして、うらぶれたお堂が建っていたことを思い出す。(265頁) 「伊吹の荒ぶる神」  白洲正子『近江山河抄』講談社文芸文庫  近江に十一面観音が多いことは、鈴鹿を歩いた時にも気がついたが、特に伊吹山から湖北へかけては、名作がたくさん残っている。中でも渡岸寺の十一面観音は、貞観時代のひときわ優れた檀像で、それについては多くの方々が書いていられる。こういう観音に共通しているのは、村の人々によって丁重に祀られていることで、彼らの努力によって、最近渡岸寺には収蔵庫も出来た。が、私がはじめて行った時は、ささやかなお堂の中に安置されており、索漠とした湖北の風景の中で、思いもかけず美しい観音に接した時は、ほんとうに仏にまみえるという心地がした。ことに美しいと思ったのはその後ろ姿で、流れるような衣紋のひだをなびかせつつ、わずかに腰をひねって歩み出そうとする動きには、何ともいえぬ魅力がある。十一面観音は色っぽい。そんな印象を受けたが、十一面の中でも、「暴悪大笑面」というもっとも悪魔的な顔を、後ろにつけているのは何を意味するのであろうか。(181頁) 下記、 如月小春「渡岸寺 十一面観音 湖北」 その一 です。

「白洲正子の本領_円空 観音群像」

「湖北の旅」 白洲正子『十一面観音巡礼』講談社文芸文庫  この群像(千光寺)は、彼の晩年に造られたが、その頃になると、神仏の区別などどうでもよくなったに違いない。技法は極端に省略され、神も仏も木の魂のようなものに還元してしまう。いわゆる木っ端仏との違いは、巧くいえないが、神像の雰囲気があることと、小さいながら重厚な形態を備えていることだろう。性急な息づかいも、駆け足の騒々しさも、もうそこにはなく、粉雪の降りしきる中に、森々と立つ雑木林の静けさがある。円空はついに木彫の原点へ還った。いや、日本の信仰が発生した地点に生まれ返ったというべきか。(279-280頁)

「白洲正子の本領_平等院鳳凰堂」

「平等院のあけぼの」 白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫  その後私は、四、五へん平等院をおとずれた。が、運が悪いのか、公害のせいなのか、一度も日の出を見ることは叶わなかった。 (中略)  いつしか夏もすぎ、秋が来て、その秋も終りに近づいた。ちょうど京都へ行くついでがあったので、私は性懲りもなくまた平等院へ行くことにした。今年は暖かったので、紅葉にはまだ早く、宇治川は朝霧に閉ざされていた。  また今日も駄目か、そう思ってあきらめていると、朝日が登る頃、たぶん六時半頃かと思う、東の空が明るくなって来た。霧が晴れたのだ。はじめにもいったように、平等院は日の出が遅い。はらはらしながら、池の東側で待っていると、朝日山の左肩からひと条の初光がさした。その瞬間、屋根の上の鳳凰が飛び立ったような気配がし、私は自分の眼を疑ったが、それは光線が上から下へ降りて来るためだとわかった。  太陽が登るにしたがって、鳳凰堂は、逆に屋根から下へ向って明けて行く。それは昼と夜が真二つになったような、奇妙な印象を与えた。軒が深いので、内陣も阿弥陀様も、まだ暗の中である。自然の中ではよく見る風景だが、人工的な建造物のこととて、明暗がはっきりする。そうしている間にも、朝日は刻々と鈍色(にびいろ)の衣をはいで行き、やがて鳳凰堂はかがやくばかりの全景を現した。朝日をあびて、白い壁が桃色に染り、翼廊は羽を左右にのばして、喜びの讃歌を歌う。それは正しく「欣求浄土」の希望と光明にみちた景色であった。たしかにお寺には、それを眺めるに一番適した時刻があり、「朝日山」という山号を、平等院が持つに至った所以を、まのあたり見る心地がした。  ふと気がつくと、日光は既に池の面まで降りて来て、今度は反対に、お堂を下から上へ照しはじめる。水に反射する朝日は昼間よりまぶしく、あれよあれよというまに、阿弥陀如来の台座へ到達した。静かに、息をひそめて、光は膝から両手へ、肩から頭上へ徐々に登って行き、本尊はついに金色の全身を露わにした。。とたんにお堂の中にはざわめきが起こった。衣紋のひだの一つ一つがきらきらと光り、後背のすかし彫りの唐草は、生きものようにゆらめく。周囲の白い壁にもさざ波が立って、その中を天人が軽々と飛翔して行く。水鏡は軒裏の隅々まで照し出し、天井の支輪に反映して、内陣ばかりか鳳凰堂全体

「白洲正子の本領_大野寺」

「室生寺にて」 白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫 電車で行くと、近鉄室生口で降り、そこから室生川を六キロばかりさかのぼる。駅の近くには、磨崖仏で有名な大野寺があり、清らかな河原をへだてて、切り立った断崖に、みごとな石仏が刻まれている。この寺には、大きなしだれ桜が二本あって、春はこまやかな花をみっしりつけ、紅(くれない)の垂簾の奥ふかく、ほのかに仏が在す気配は、たとえようもなく、優美である。  春もいいが、秋も一段と風情がある。ある晩秋の夕暮、室生への帰りに立ちよったとき、落日の斜光の中に、全身がくっきりと浮かび上がり、冷たい石の肌に、山の紅葉が反映して、「弥陀来迎の図」を拝む思いがした。おそらくあのような光景は、一生に一度のものに違いない。それは険しい絶壁に向かって、仏を彫ろうと決意した人の、発願の場に立会うような心地であった。(110-111頁)

「白洲正子の本領_聖林寺」

  「聖林寺から観音堂へ」 白洲正子『十一面観音巡礼』講談社文芸文庫 はじめて聖林寺をおとずれたのは、昭和七、八年のことである。当時は今とちがって、便利な参考書も案内書もなく、和辻哲郎氏の『古寺巡礼』が唯一の頼りであった。写真は飛鳥園の先代、小川晴暘氏が担当していた。特に聖林寺の十一面観音は美しく、「流るる如く自由な、さうして均衡を失わない、快いリズムを投げかけてゐる」という和辻氏の描写を、そのまま絵にしたような作品であった。聖林寺へ行ったのは、それを見て間もなくの事だったと記憶している。 (中略) お寺へ行けばわかると思い、爪先上りに登って行くと、ささやかなお堂につき当った。門前には美しいしだれ桜が、今を盛りと咲き乱れていた。  案内を乞うと、年とったお坊さまが出て来られた。十一面観音を拝観したいというと、黙って本堂の方へ連れて行って下さる。本堂といっても、ふつうの座敷を直したもので、暗闇の中に、大きな白いお地蔵さんが、座っていた。「これが本尊だから、お参り下さい」といわれ、拝んでいる間に、お坊さまは雨戸をあけてくださった。さしこんで来るほのかな光の中に、浮び出た観音の姿を私は忘れることが出来ない。それは今この世に生まれ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった。その後何回も見ているのに、あの感動は二度と味えない。世の中にこんな美しいものがあるのかと、私はただ茫然とみとれていた。(7-8頁) 白洲正子の叙事、叙情、情景の描写には、やはり見入ってしまう。

「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_確信したことしか書かない」

小林  (前略)それからもう一つ、あなたは確信したことばかり書いていらっしゃいますね。自分の確信したことしか文章に書いていない。これは不思議なことなんですが、いまの学者は、確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ。知識は書きますよ、しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実に実にまれなのです。そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしている人がまれなのです。そういうことをしている人は本当に少いのですよ。 (中略) 私は文章としてものを読みますからね、その人の確信が現れていないような文章はおもしろくないのです。岡さんの文章は確信だけが書いてあるのですよ。 岡  なるほど。 小林  自分はこう思うということばかりを、二度言ったり、三度目だけどまた言うとか、何とかかんとか書いていらっしゃる。そういう文章を書いている人はいまいないと思ったのです。それで私は心を動かされたのです。 岡  ありがとうございます。どうも、確信のないことを書くということは数学者にはできないだろうと思いますね。確信しない間は複雑で書けない。 小林  確信しないあいだは、複雑で書けない、まさにそのとおりですね。確信したことを書くくらい単純なことはない。しかし世間は、おそらくその逆を考えるのが普通なのですよ。確信したことを言うのは、なにか気負い立たねばならない。確信しない奴(やつ)を説得しなければならない。まあそんなふうにいきり立つのが常態なんですよ。ばかばかしい。確信するとは2プラス2がイコール4であるというような当たり前のことなのだ。 (中略) ところで新風というものが、どこかにありますかなあ。こんな退屈なことはないですね。もしみんなが、おれはこのように生きることを確信するということだけを書いてくれれば、いまの文壇は楽しくなるのではないかと思います。 岡  人が何と思おうと自分はこうとしか思えないというものが直観ですが、それがないのですね。 小林  ええ、おっしゃるとおりかも知れません。直観と確信とが離れ離れになっているのです。ぼくはなになにを確信する、と言う。では実物のなにが直観できているのか、という問題でしょう。その点で、私は噓(うそ)をつくかつかぬかという、全く尋常な問題に帰すると考えているのですが、余計な理窟(りくつ)ば

「拝復 Nさんへ_物陰に潜んでいます」

ご丁寧なご挨拶、どうもありがとうございました。欠礼、こちらこそ申し訳なく思っております。 酷暑に部屋に引きこもっています。日陰者ですので、なるべく物陰に潜んでいます。が、夏期講習はやらねばならず、顔ぶれをみて、いまいい加減さ加減を探っています。適当な授業を心がけています。 小学校の先生方は、夏休みは夏休みなんですね。豪勢ですね。花火大会に、富良野へと、猛暑の北海道は想像できません。富良野のお土産、どうもありがとうございました。楽しみにしています。気をつかっていただき申し訳なく思っております。 釣りは夏の間じゅうお預けです。この暑さに魚も食い気もやる気もありません。 父にもその旨、伝えておきます。どうもありがとうございました。ゆっくりできるときには、ゆっくりしてくださいね。またのご来豊、楽しみにしております。 また。 盛夏の候、くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

「白洲正子の本領_明恵,美しい釈迦という人間に恋をした」

「高山寺慕情」 白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫  彼はお寺(高山寺)が騒がしくなると、いつも裏山の 楞伽山(りょうがせん)へ逃げて行った。「この山中に面の一尺とあらんほどの石に、予が座せぬはよもあらじ」といっているが、前述の「座禅像(明恵上人樹上座禅像)」は、その姿を写したものである。その姿が私には、菩提樹の下で成道したお釈迦さまのように見えてならない。明恵上人は、華厳宗にも、真言密教にも、禅宗にも通じていたが、ほんとうに信じていたのは、仏教の宗派ではなく、その源にある釈迦という人間ではなかったか。(164-165頁) 「釈迦という人間」、明恵上人、そして白洲正子、この三者の響き合いは美しい。

TWEET「生命の連続のなかの結節点」

 小林秀雄におけるベルグソン、井筒俊彦におけるイブン・アラビー。あるいは中井久夫におけるサリヴァン。三氏が依頼する人物が、明らかにみてとれるのは面白い。小林秀雄については不明だが、井筒俊彦、中井久夫は原書で読み、その後中井久夫は翻訳を出版している。  三氏が「私淑」したともいえる、生涯にわたった関係のはじまりは、めぐり合いという偶然も手伝ったのであろうが、三氏の嗅覚のなせる技であったように思う。  昨日乱読中に、 「あらゆるものは生命の連続のなかに生きる。その連続の過程をどれだけ充たしてゆくことができるのか、そこに生きることの意味があるといえよう」(白川静『漢字百話』「31 生と命」96頁) との、白川静の言葉に出会った。三氏は、また白川静は、「生命の連続のなか」に結び目を作った。ふり返ると思いがけずも結節点ができていた、といった方が正確かもしれない。渦中には顧る余裕もなく、ただ充溢した時間の中にあったのだろう。

TWEET「秋愁の内に沈む」

 昨朝 就寝前に服用する薬を誤って飲み、誤飲したのはなにも昨日に限ったことではないが、誤飲直後に気づいたものの後の祭りで、思わず午前中を寝て過ごした。  起きると秋風が吹いていた。  筋が弛緩し、心身が緊張からすっかり解き放たれた。以来、乱雑な読書をして過ごしている。秋には、白洲正子の「古寺巡礼」が似つかわしい。秋思の内にある。秋愁の内に沈んでいる。

小林秀雄,岡潔『人間の建設』_まとめて

小林秀雄,岡潔『人間の建設』を読んで_まとめて ◇  小林秀雄,岡潔『人間の建設』新潮文庫 ◇ 「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_理論物理学者とは、そして数学者とは」 ◇ 「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_飛躍的にしかわからない」 ◇ 「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_思索は言葉なんです」 ◇ 「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_哲学の専門書じゃないからです」 ◇ 「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_西洋人のことがわからなくなってきた」 ◇ 「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_素読教育の必要」 ◇ 「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_確信したことしか書かない」 ◇ 「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_本居宣長について」