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6月, 2021の投稿を表示しています

TWEET「中西進の手になる大要は高級だった」

昨日の夕方、 ◇ 中西進『古代史で楽しむ 万葉集』角川ソフィア文庫 を読み終えた。『万葉集』への入門書としての位置づけだったが、中西進の手になる大要は高級で、覚束ず、再読を促されている。 また、 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 は、『新古今和歌集』『山家集 』への足がかりとしての読書だったが、興趣が尽きず、そして、 ◇ 井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫 は、およそ一年ぶりの登場である。  以上、上記三冊。「はじめから」という読書事始めです。  梅雨空が広がる季節の、私の読書覚書とでもいった、無味乾燥としたブログが続き、申し訳なく思っておりますが、ご寛恕を願うばかりである。 「読む」ことを優先させていただきます。 追伸: さらに、 ◇ 白川静『初期万葉論』中公文庫 を追加します。こちらは拾い読みしたもので、通読はしておりません。

TWEET「韋駄天お正の本領,中西進の実力」

2021/06/22 から、 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 ◇ 中西進『古代史で楽しむ 万葉集』角川ソフィア文庫 を併読しはじめ、今日の午前中には、 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 を読み終えた。ちなみに、 ◇ 中西進『古代史で楽しむ 万葉集』 角川ソフィア文庫 は、95頁まで読み、伏せてある 。 西行は仏道に生き、  ねがはくは花の下にて春死なむ  そのきさらぎの望月の頃 此歌が辞世の句である、とばかり私も思っていた。それについて、白洲正子は、 「若い時に詠んだと思われる」(227頁)「『ねがはくは』の歌が西行の辞世の句となって今に伝わったが、地下の西行は苦笑しているのではあるまいか。」(292頁) と書いている。  二書に触れ、和歌は地理・歴史をわきまえなければ面白みに欠ける、それにまして 歴史に彩られた歌は、社会を異にすれば、いまある姿を留めなかった、ということに思いをいたした。 中西進の実力を知った。 西行は目映(まば)ゆかった。 早速、 ◇ 久保田淳,吉野朋美校注『西行全歌集』岩波文庫 を求めた。西行の素直な読み口に現代語訳は要せず、白洲正子は「後記」で、 「総じて辻褄が合うような人間はろくなものではなく、まとまりのつかぬところに西行の真価がある。」(304頁) と述べているが、同病相憐れむといおうか、「ねがはくは」私もぜひその一隅においていただきたいものである、と切に思っている。  以上、途中経過でした。 「読む」と「書く」、いまは「読む」ことを優先させていただきます。悪しからず!! 以下、 ◇ 「小林秀雄『西行』_この空前の内省家」 ◇  白洲正子「西行と私」 ◇  梅雨晴の間に間に_西行「虚空の如くなる心」 ◇  梅雨晴の間に間に_「西行と明恵 その一」 ◇  梅雨晴の間に間に_「西行と明恵 その二」 です。

TWEET「古今和歌集_その普遍的「本質」としての美」

2021/06/14 より、 ◇ 高田祐彦訳注『古今和歌集  現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 を読みはじめ、昨夜読み終えた。一週間におよんだ読書(和歌)体験だった。異例づくめだった。 以下の文章は、 ◇  井筒俊彦『意識と本質 ー精神的東洋を索めてー』岩波文庫 からの引用である。 「少くとも『古今集』において古典的完成に達したものを和歌の典型的形態として考えるなら。『古今』的和歌の世界は、一切の事物、事象が、それぞれその普遍的「本質」において定着された世界だ。春は春、花は花、恋は恋、というふうに自然界のあらゆる事物、事象から人事百般まで、存在界が くまなく普遍「本質」的に規定され、その上でそれらのものの間に「本質」的聯関の網目構造が立てられる。もし現実の経験で、何かが自らの普遍的「本質」に背くような形で生起したり、またはそれの本来的に所属する「本質」聯間から外れたりすれば、その意外性自体が一つ詩的価値を帯びるほどの強力な規定性で、それはある。」(53-54頁)    これは、例えば、『古今和歌集』が、ただ 「日本的美意識の原点(鈴木宏子)」である、と評することとは次元を異にしている。それは、井筒俊彦が名づけた「言語アラヤ識」、ユングのいう「集団的無意識」あるいは「文化的無意識」内の普遍的「本質」としての美の表われであり、一切私たちには触れることのできない生得的な、深層の文化的な美意識である。  遅きに失したが、これらへの興味から、今回『古今和歌集』を手にした、のはいいが、七転八倒の毎日だった。一週間におよんだ、と書いたが、毎日ほぼ一日中和歌と向き合ってのお粗末な七日間であった。  各所に、 枕詞、序詞、 掛詞、縁語、見立て、 歌語、 歌ことばが配され、 三十一字のなかには、幾多の景色が広がっていた。再読を促されているが、眼をつぶり 先に進むことにする。 和歌にも少しは慣れ、次回は、 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 ◇ 中西進『古代史で楽しむ 万葉集』 角川ソフィア文庫 を併読し、 そして「三代和歌集」へと歩を進めます。細部にとらわれることなく、通読を心がけます。

「Kindle Direct Publishing_広告_その三」

 しばしば見るのは忌々しく、毎日見るのは癪に障り、知らんぷりして時折、「Kindle Direct Publishing」に載せた電子書籍のダウンロード数を確認している。 2021/06/03 に、 ◇「本多勇夫 / まだ 折々の記_06」: 〜大野晋編〜  が、また  2021/06/15  には、 ◇「本多勇夫 / なおなお 折々の記_10」: 〜岡潔編〜 が、いずれも、 「Kindle unlimited(定額制の読み放題)」の方たち によってダウンロードされ、これで少なく見積もって、11冊の電子書籍がダウンロードされたことになった。それにしても貧果である。  Google の検索窓に自分の名前を入れて検索すると、多くの項目が並ぶようになったが、いかがわしいサイトも目につき、悪用されているようで不愉快な気分になる。  電子書籍化していないブログが優に一冊分はある。 ◇「本多勇夫 / またして 折々の記_14」: 〜雑文 編〜  として、 「Kindle Direct Publishing」の書棚に並べようと思っている。なんの期待もしていない。この際ただ整理したいだけのことである。前回のように根を詰めるのではなく、鷹揚に構えている。  一昨日から、 ◇ 高田祐彦訳注『古今和歌集  現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 を読みはじめた。1100首ある和歌の、いま597首を読み終えた。 「言霊のさきはふ」和歌の言葉に対するには、相応の体力を要する。

TWEET「『徒然草』_信頼に足る確かな「たしなみ」の書」

 学術的なことは詳らかではないが、私は『徒然草』を「たしなみ」についての教養の書であると一括りに括っている。立居振る舞い然り、美意識然り、教訓また無常感然り、話題は広範におよぶが、それらは皆、信頼に足る確かな「たしなみ」の範疇での出来事である。 全段再読したが、やはり、 ◇ 「第二一九段 四条黄門命せられて云はく」 ◇ 「第二二0段 何事も辺土は」 は面白く、また、 ◇ 「第二一七段 或る大福長者の云はく」 (以上、「 Es Discovery」さんのサイトより ) の掉尾は、 「ここに到りては、貧富分(わ)く所なし。究竟(くきやう)は理即(りそく)に等し。大欲は無欲に似たり。」 ◆「 究竟は理即に等し。」 (「悟りの境地である究竟は、迷いの境地である理即に等しい。」) との文で結ばれていて、禅語を聞くかのようである。 一昨日の夕方、 ◇ 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫 を注文した。一八0段までを、 ◇ 兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 で読み、そして届き次第、以降を、 ◇ 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫 で読んだ。  対照すれば、やはり差異はあり、面白く読んだ。そして、西江先生のことを思った。                「† 翻訳とは「演奏」である」 西江雅之『「ことば」の課外授業』洋泉社 「言語は互いに「置き換えられる」という話と「翻訳」の話とは大いに違うんです。  翻訳というのは、ある言語で表現されたことを、意味の上でも形の上でも原文に近い形を保ちながら、ほかの言語に置き換えることです。その置き換えは、制約の中での一種の「演奏」なんです。つまり、本来の文章をいかに訳すかは、翻訳者の腕によるわけです。」(106-108頁) 「翻訳」は「演奏」である。創造的な行為によって、楽譜は音に昇華される。楽譜から逸脱することは許されないが、 あとは自由である。自分の裁量で動くことができる。 「翻訳」を「現代語訳」に置き換えて読んでみれば、とそんなことを思いつつ読み継いでいった。 ◇  島内裕子 「徒然草の達成と現代」 ( 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫 489頁) は名文です。遠く、私のおよぶところではありません。ぜひ書店で立ち読みしてください、とはいえ、 田舎の書店 でのこと、書棚には並ん

TWEET「『枕草子』_その古典文学における稀有の青春性」

昨夜、 ◇ 清少納言,島内裕子校訂訳『枕草子 上』ちくま学芸文庫 ◇ 清少納言,島内裕子校訂訳『枕草子 下』ちくま学芸文庫 を読み終えた。  読み進めるうちに、「 註」がないことに気づいた。見れば「訳校訂」とだけ記されていて、不思議に思ったが、読み継いでいくうちに、「現代語訳」中に「註」が反映されていることが分かり安心した。  島内裕子は、「語注」や「語釈」を付けなかった理由を、巻末で、 「本書によって『枕草子』の全章段にわたり、「原文・訳・評」をひとまとまりとして、先へ先へと読み進むことが可能となることを企図している。連続読みによって通読してこそ、『枕草子』の世界が生成してゆく時間を、作者である清少納言と共有できる。その体験が、『枕草子』を読むことにほかならない。」( 清少納言,島内裕子校訂訳『枕草子 下』ちくま学芸文庫  504-505頁) と説明している。ただし、「原文で通読する」という意味であり、原文中の「ルビ付きの漢字」や「句読点」の多用はそのための工夫である。しかし、私は、相変わらず「現代語訳」を読みつつ 、これでは『枕草子』の面白みは半減してしまうだろう、と思っている。  きらびやかな王朝文化、宮廷人の艶姿(あですがた)の一端を垣間見た。清少納言の才気煥発、当意即妙は群をぬいて鮮やかであるが、毀誉褒貶については、褒誉された側は誉高いが、貶められた側は立つ瀬がなく残酷な場面さえ見受けられる。  清少納言が出仕したのは数えで 28歳、そのとき一条天皇の中宮であった定子は 17歳であった。そして、定子は 25歳という若さで崩御され、その間 わずかに 8年間 のことが『枕草子』に描かれることになった 。  その後浮沈があり、清少納言の行方は未詳のままとなっている。 「一つの時代の終わりは、古典文学における稀有の青春性も終わらせた」(清少納言,島内裕子校訂訳『枕草子 下』ちくま学芸文庫 509頁) と、島内裕子は書いている。 ◇ 島内裕子「『枕草子』をどう読むか」 ( 清少納言,島内裕子校訂訳『枕草子 下』ちくま学芸文庫 501-505頁) をぜひお手に取ってご覧になってください。名文です。遠く、私のおよぶところではありません。  はじめて古典にふれた気がしています。 『徒然草』を再読し、『古今和歌集』『新古今和歌集』へと歩を進めます。「記紀万葉」は、お預けです

TWEET「お能の秋です。能繁期です」

昨日、 ◇ 清少納言,島内裕子訳校訂『枕の草子 上』ちくま学芸文庫 ◇ 清少納言,島内裕子訳校訂『枕の草子 下』ちくま学芸文庫 が届くまでの間、積読したままになっていた、 ◇ 世阿弥,竹本幹夫訳注『風姿花伝・三道 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 を読んだ。 『風姿花伝』は、世阿弥が、相伝者であった弟四郎に、また「花伝第七 別紙口伝」は、元次(もとつぐ、世阿弥の嫡男か)に宛てて書かれた秘伝の能楽論である。 秘伝書を私が密やかに、読み耽っていたわけであるが、門外漢である私にはおしなべて通り一遍の読書に終始した感を抱いている。 「たけ」(芸の品格)について書かれている、「風姿花伝第三 問答条々」第六問答(位(くらゐ)の差別(しゃべち))に魅かれた。現代語訳を何度か読み、また註を参考にしつつ原文にも当たったが、口ごもったような物言いで、矛盾しているようにも感じられ、得心するまでにはいたらなかった。 「本条は『風姿花伝』の中でももっとも難解な一条とされている。世阿弥の芸位論は、稽古の階梯(かいてい)論として後年の能楽論で高度に展開されるところとなる。そうした晩年期の芸位論に比して、本条の芸位論は、途中に挿入句があって論理的に飛躍した印象を与えるために、「物学条々」の鬼の条と並んで、世阿弥がまだ十分に論を整理していない段階で執筆された、いわば未熟な論であるという指摘もある。」(128頁) との記載が【解説】にあり納得した。 「たけ」は生得的なものであるが、稽古を積めば追いつくものか、適わないものなのか。  そもそも能における「たけ」とはいかなるものか。 「答ふ。これ、目利きの眼(まなこ)には、やすく見ゆるなり。」 とあるので、はっきりと自覚できるものなのであろう。  学生時代、竹本幹夫先生の能楽論の講義を二年続けて受講した。真摯で真面目な授業態度だった。竹本先生は、表章(おもてあきら)先生のお名前をよく口にされていた。 「お能の秋」です。 「能繁期 」です。  能楽堂に足を運ぶこともなく、能楽論だけに終始した学生時代をもったいなく思っている。大学というところは、学生には過ぎたところだと思っている。

TWEET「『徒然草』_原文の姿を知らず」

◇ 兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 を現代語訳で読んだ。原文の味わいを知らず、素っ気ない読書に終始した。 「 第二一九段 四条の黄門」, 「第二二0段 何事も辺土は」の二編 を特に面白く読んだ。いずれも楽器の音についての話題である。 明日には、 ◇ 清少納言,島内裕子訳校訂『枕の草子 上』ちくま学芸文庫 ◇ 清少納言,島内裕子訳校訂『枕の草子 下』ちくま学芸文庫 が届く予定である。味気ない読書の続編である。  大学では日本文学を専修した。これが、「日文専修」の実力である。

TWEET「野分立つ」

 野分立ち、今夜半から荒れ模様の予報である。 『風立ちぬ』、秋草は風に吹かれるままに、葉擦れの音が聞こえる。  春愁秋思といえば、一休かと思い、 ◇ 水上勉『一休』中公文庫 を手にし、また良寛かと思い、 ◇ 水上勉『良寛』中央公論社 をしばし手に取ったが、読むまでにはいたらず。   気象も手伝ってか、迷宮入りした。 追伸:『徒然草』を読むことにしました。秋の夜長に古典事始めです。  

TWEET「利休の『醒めるために見た夢』」

 二日(ふたひ)、今日もひとり、蕭蕭とした秋風に吹かれている。  梅雨空も、喧騒の夏もやり過ごし、沈思の秋のなかにある。  秋がいい。  白い道の向こうには利休の後ろ姿が見え隠れしている。 命を賭してまで護らなければならないものがあった。死によってのみ完結するものがあった。命とは如何ばかりのものでもなかった。 利休の 「醒めるために見た夢」の帰結だった 。 ◇ 井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫 ◇「醒めるために見た夢」    白洲正子『ほんもの - 白洲次郎のことども - 』新潮文庫 「昭和と私」(247-252頁)

TWEET「梅雨空の下、秋思に沈む」

 日付が変わり、六月を迎えた今日、急に秋風が吹きはじめた。  ひとり蕭々とした風に吹かれている。  弛緩して力なく、虚弱へと転落した。 「何でこんなに淋しい風ふく」  梅雨空の下、秋思に沈んでいる。 「朱夏」に、「白秋」を綴ろうと思う。 ◇ 早坂 暁『山頭火―何でこんなに淋しい風ふく』日本放送出版協会(1989/08) ◇「何でこんなに淋しい風ふく」  種田山頭火『定本 山頭火全集 第一巻』(春陽堂書店、一九七二年)二六四頁。『草木塔』所収。