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「白洲正子の本領_仲秋の名月」

「名月や池をめぐりて夜もすがら」 芭蕉の句です。 今夜は曇りの予報です。 今朝 夜明け前に、 西の空にある小望月(こもちづき)を眺めましたが、「夜もすがら名月」を、と願っています。 4:30 です。小雨が降っています。虫のすだきが聞こえます。十六夜の月を待つことにします。 5時を少し過ぎたころ、西の空に懸かる名月を拝しました。ほんの十数秒のことでした。いま夜が明けようとしています。 「ツキヨミの思想」 白洲正子『夕顔』新潮文庫  ただ詩歌の世界ではなくてはならぬ存在であり、月の運行、或いはその満ち欠けによって、どれほど多くのことを我々の祖先は学んだか。古典文学だけではなく、日常の生活でも「十三夜」、「十五夜」は申すに及ばず、月を形容した言葉は枚挙にいとまもない。月を愛したことでは日本人にまさる人種はいないであろう。(234頁) 「幻の山荘 - 嵯峨の大覚寺」 白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫  いくつぐらいの時だったろうか、大沢の池に舟を浮べて、お月見をしたこともある。最近は仲秋の名月の夜に、鳴りもの入りで船遊びを行うと聞くが、そんな観光的な行事ではなく、極く少数の物好きが集まって、ささやかな月見の宴をひらいたのである。その夜のことは今でも忘れない。息をひそめて、月の出を待っていると、次第に東の空が明るくなり、双ヶ丘(ならびがおか)の方角から、大きな月がゆらめきながら現われた。阿弥陀様のようだと、子供心にも思った。やがて中天高く登るにしたがい、空も山も水も月の光にとけ入って、蒼い別世界の底深く沈んで行くような心地がした。ときどき西山のかなたで、夜鳥の叫ぶ声が聞えたことも、そのすき通った風景を、いっそう神秘的なものに見せた。(152頁)

TWEET「仲秋の候」

 明日は仲秋の名月です。昨秋、栂尾山 高山寺で仰いだ満月が思い出されます。     山のはにわれもいりなむ月もいれ    よなよな(表記は「くの字点」です)ごとにまた友とせむ  明恵上人が望んだ月です。  酒仙と称される李白は、酔いに任せ、舟遊びの最中(さなか)に、川面に浮かぶ明月を手にしたく、手をさし伸べ、転落して溺死した、といわれています。詩人として、これほどみごとな最期を、私は知りません。  明月のことは李白に倣うに如くはなく、舟出の支度を急いでおります。  災禍のうち続くなか、 整然たる日月星辰の運行が救いとなっています。

TWEET「恋をしているからだろうか」

 手を打ち、「メール」と「SMS」の機銃掃射、雨霰から免れた。九月になり読書量が半減以下に陥った。多少の後遺症は残るであろうが、静謐のうちに名月を戴きたいものである。  以降、突如眠気に襲われ、眠り呆けているのは、恋をしているからだろうか!?

TWEET「La France」

 先日ある御仁から、 「お前は La France  だな」 と、最大級の賛辞をいただき、恐縮している。  迷走中の台風 14号が、直撃しそうな様相である。 「La France(洋梨 / 用無し) 」といい、「迷走」といい、刺激的である。

TWEET「脂がのっています」

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昨日の午前中には、P教授から送っていただいた、 ◇ 小津安二郎『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない 』日本図書センター を読み終えました。読み終えるまでに五日を要し、ひとえに過度の「メール」, 「SMS」 でのやり取りが宿痾となっています。アホらし!!  以前、こんなステッカーが車のリアガラスに貼られているのを見たことがあります。  サンマの季節ですね。  小津安二郎監督、野田高梧脚本、笠智衆さん主演の「秋刀魚の味」を思い出しました。小津安二郎監督の遺作となった作品です。「小津特集」に、銀座・並木座に何日か通いました。学生時代、あれは秋の頃のことだったのでしょうか。 ◇ 小津安二郎『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない 』日本図書センター については、項を改めて書きます。 そして、午後には、 ◇ 空木哲生『山を渡る 三多摩大岳部録 4』ハルタコミックス を読みました。  2005/04/26 に出版された、 ◇ 石塚真一『岳(1)』小学館 を読んで以来、山岳コミックを目にすると、つい読みたくなり、読みたくなったら、読むしかなく…。 次回は、これも P教授から送っていただいた、 ◇ 植田重雄『秋艸同人 會津八一の生涯』恒文社 の予定です。大部の図書です。 「扉」の写真の「渡邉文子」は美しく、早速、 ◆「恋愛と卒業」 を読みました。下宿先の雑司ヶ谷界隈の地名も出てきて懐かしく、ひとしきり学生時代の思い出に耽りました。

「大特集 富士山」

 2021/09/16日(木)〜17日(金) に、P教授と河口湖畔の 「ニューブリッヂキャンプ場」 に行く予定だったが、台風 14号の接近のため、2021/09/27日(月)〜28日(火)に延期した。急遽決定し、急遽延期した。いつものことである。 この夏、 ◇ 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 ◆「西行」 を読み、 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 を読んだ。 「「彼(西行)は、歌の世界に、人間孤独の観念を、新たに導き入れ、これを縦横に歌い切った人である。孤独は、西行の言わば生得の宝であって、出家も遁世(とんせい)も、これを護持する為に便利だった生活の様式に過ぎなかったと言っても過言ではないと思う。」(小林秀雄「西行」100頁) 「『山家集』ばかりを見ているとさほどとも思えぬ歌も、『新古今集』のうちにばら撒(ま)かれると、忽(たちま)ち光って見える所以(ゆえん)も其処にあると思う。」(小林秀雄「西行」91-92頁) 「  風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな  これも同じ年(西行 69歳)の行脚のうちに詠まれた歌だ。彼が、これを、自賛歌の第一に推したという伝説を、僕は信ずる。ここまで歩いて来た事を、彼自身はよく知っていた筈である。『いかにかすべき我心』の呪文が、どうして遂(つい)にこういう驚くほど平明な純粋な一楽句と化して了(しま)ったかを。この歌が通俗と映る歌人の心は汚れている。一西行の苦しみは純化し、『読人知らず』の調べを奏(かな)でる。」(小林秀雄「西行」106-107頁) 「 あづまのかたへ、あひしりたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔に成たりける、思出られて   年たけて又越ゆべしと思いきや   命なりけりさやの中山  」(白洲正子『西行』265頁) 「小夜の中山の歌と、富士の歌は、私にはひとつづきのもののように思われてならない。昼なお暗い険阻な山中で、自分の経て来た長い人生を振返って「命」の尊さと不思議さに目ざめた西行は、広い空のかなたに忽然(こつぜん)と現れた霊峰の姿に、無明(むみょう)の夢を醒(さ)まされるおもいがしたのではないか。そういう時に、この歌は、一瞬にして成った、もはや思い残すことはないと西行は感じたであろう。自讚歌の第一にあげた所以(ゆえん)である。(白洲正子『西行』270-271頁)  数年来

「井筒俊彦の存在風景を追って」〈『意識と本質』_はじめから〉

『井筒俊彦全集 第六巻 意識と本質 1980年-1981年』 慶應義塾大学出版会 「だが、イスラーム自身をも含めて、東洋哲学一般の一大特徴は、認識主体としての意識を表層意識だけの一重構造としないで、深層に向って幾重にも延びる多層構造とし、深層意識のそれらの諸相を体験的に拓きながら、段階ごとに移り変っていく存在風景を追っていくというところにある。  だから、東洋哲学においては、認識とは意識と存在との複雑で多層的なからみ合いである。そして、意識と存在のこのからみ合いの構造を追求していく過程で、人はどうしても「本質」の実在性の問題に逢着せざるをえない。その実在性を肯定するにせよ否定するにせよ、である。「意識と本質」という題の下に、私はそれをテーマとしてここまで考えを進めてきた。このままもう一歩先に行けば、「本質」論は、ごく自然に、概念論に転換するはずである。だが、私が最初から自らに課した主題からいえば、概念としての「本質」論は本論の考察の射程内には入らない。東洋思想における概念構造理論は、それ自体、一つの独立した主題として優に一書をなすに足る。  とまれ、東洋哲学の根柢的部分に直接関わる事柄であるだけに、「意識と本質」というテーマは無数の問題を提起し、限りない展開の可能性をもつのだ。この辺で本論に一応の区切りをつけることにしよう。(304頁)  上記は、『意識と本質』の掉尾の文である。それは、そっ気なく終わった。井筒俊彦の一面を垣間見たような気がする。  宗教、宗派、学派色に染まることなく、概念に転落することなく、井筒俊彦は生気に満ちた「東洋哲学」を共時的に展開した。それらは、井筒が、深層意識の「諸相を体験的に拓きながら」見た「存在風景」であり、その後、形而上学として語られたものである。    三度四度(みたびよたび)。今回 四度目の読書だったように思う。再読により理解が進んだ。途中で横槍が入り、三日の予定が 九日かかった。  私の関心は、専ら、「実在」と「生死(しょうじ )の問題」にあった。 「実在」とは、ときに「神」と崇められ、「存在」「混沌 」「太極」と呼ばれ、「空」「無」、また「毘盧遮那仏」「大日如来」、「コトバ」等と称される事どものことである。  何度となく書いたが、井筒俊彦の著作群は、私にとっては「実学」の書であり、実用の書であり、やむに止まれぬ切実な書である

「『もの』が明らかにみえる者たちがいて_小林秀雄 読書覚書」

「私の人生観」 小林秀雄『人生について』中公文庫  西行の歌には諸行無常の思想がある、一切空の思想がある。そういう風に言うなら、そんなものは、当時の歌に、何処にでも見附かるだろう。一切は空だと承知した歌人は、当時沢山いただろうが、空を観ずる力量にはピンからキリまであって、その力量の程は、歌という形にはっきり現れるから誤魔化しが利かぬ。空の問題にどれほど深入りしているかを自他に証する為には、自分の空を創り出してみなければならぬ。こうなると、問題は、尋常の思想の問題とは自ら異ったものになる筈である。般若の有名な真空妙有、まことの空はたえなる有であるという言い方は、そういう消息を語っていると考えてよい様に思われます。西行の言葉を借りれば、虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どるという事がなければならぬという事になる。(21-22頁)  西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其貫道する物は一なり、と芭蕉は言っているが、彼のいう風雅とは、空観だと考えてもよろしいでしょう。西行が、虚空の如くなる心において、様々の風情を色どる、と言った処を、芭蕉は、虚に居て実をおこなう、と言ったと考えても差支えあるまい。(28頁)  空観とは、真理に関する方法ではなく、真如を得る道なのである、現実を様々に限定する様々な理解を空しくして、はじめて、現実そのものと共感共鳴する事が出来るとする修練なのである。かくの如きものが、やがて我が国の芸術家の修練に通じ、貫道して自分に至ったと芭蕉は言うのだが、今日に至っても、貫道しているものはやはり貫道しているでありましょう。仏教によって養われた自然や人生にたいする観照的態度、審美的態度は、意外に深く私達の心に滲透しているのであって、…(29-30頁)  真如という言葉は、かくの如く在るという意味です。何とも名附け様のないかくの如く在るものが、われわれを取巻いている。われわれの皮膚に触れ、われわれに血を通わせてくるほど、しっくり取巻いているのであって、…(20頁)  正岡子規の万葉復興運動以来、西行より実朝の方が、余程評判がよろしい歌人となった様ですが、貫道するところは一つなのだ。子規の感動したのは、万葉歌人の現実尊重であり、子規は写生と言う言葉を好んで使った。斎藤茂吉氏の「短歌写生の説」によると、子規は、写生の真意

TWEET「墓碑銘」

芥川ならば確かに、こういうことでしょう。 「誰よりも大衆に媚びなかった君は、誰よりも大衆に相手にされなかった君だ」 すてきなお言葉、どうもありがとうございました。 墓碑銘にします。 我儘に、ということになると、どうしても疎外されることになります。 『侏儒の言葉』中にあってもおかしくない言葉ですね。 最近とみにさえわたっていますね!! FROM HONDA WITH LOVE.

TWEET「古今和歌集_その普遍的「本質」としての美」

2021/06/14 より、 ◇ 高田祐彦訳注『古今和歌集 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 を読みはじめ、昨夜読み終えた。一週間におよんだ読書(和歌)体験だった。異例づくめだった。 以下の文章は、 ◇  井筒俊彦『意識と本質 ー精神的東洋を索めてー』岩波文庫 からの引用である。 「少くとも『古今集』において古典的完成に達したものを和歌の典型的形態として考えるなら。『古今』的和歌の世界は、一切の事物、事象が、それぞれその普遍的「本質」において定着された世界だ。春は春、花は花、恋は恋、というふうに自然界のあらゆる事物、事象から人事百般まで、存在界が くまなく普遍「本質」的に規定され、その上でそれらのものの間に「本質」的聯関の網目構造が立てられる。もし現実の経験で、何かが自らの普遍的「本質」に背くような形で生起したり、またはそれの本来的に所属する「本質」聯間から外れたりすれば、その意外性自体が一つ詩的価値を帯びるほどの強力な規定性で、それはある。」(53-54頁)    これは、例えば、『古今和歌集』が、ただ 「日本的美意識の原点(鈴木宏子)」である、と評することとは次元を異にしている。それは、井筒俊彦が名づけた「言語アラヤ識」、ユングのいう「集団的無意識」あるいは「文化的無意識」内の普遍的「本質」としての美の表われであり、一切私たちには触れることのできない生得的な、深層の文化的な美意識である。  遅きに失したが、これらへの興味から、今回『古今和歌集』を手にした、のはいいが、七転八倒の毎日だった。一週間におよんだ、と書いたが、毎日ほぼ一日中和歌と向き合ってのお粗末な七日間であった。  各所に、 枕詞、序詞、 掛詞、縁語、見立て、 歌語、 歌ことばが配され、 三十一字のなかには、幾多の景色が広がっていた。再読を促されているが、眼をつぶり 先に進むことにする。 和歌にも少しは慣れ、次回は、 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 ◇ 中西進『古代史で楽しむ 万葉集』 角川ソフィア文庫 を併読し、 そして「三代和歌集」へと歩を進めます。細部にとらわれることなく、通読を心がけます。

TWEET「見つける天才_Air Tag」

 昨日の昼前、2021/08/26 に注文した Apple 「Air Tag」 が届きました。「見つける天才」です。刻印を依頼したため、上海からの発送となり、時間がかかりました。  日々進行する老化のため、物忘れ、置き忘れがひどく、困惑しています。財布、メガネ、車のキーの順に多く、メガネは幾つか準備し、見失っても探さないことを旨としていますが、財布とキーは、そうはいかず厄介です。  三軒の家電量販店を回りましたが、実物を見ることはできず、二つ折りの財布に納まるかどうか心配でしたが、納まらない場合にはキーホルダーにして、と思い注文しました。  上手く納まりました。  自らは恃めず、 安全神話頼みです 。 以下、「500円硬貨」と比較すると、 かなり大きいですね。 「AirTag」 直径: 31.9 mm 厚さ: 8.00 mm 重量: 11 g 「500円硬貨」 直径: 26.5 mm 厚さ: 1.8 mm 重量: 7.0 g

TWEET「仕切り直します」

九月です。さて仕切り直して、懸念の、 ◇『井筒俊彦全集 第六巻 意識と本質 1980年-1981年』 慶應義塾大学出版会 です。原点回帰です。  小林秀雄の、また井筒俊彦の話題となれば、閲覧数が激減しますが、我関せず。  しばらくの間お暇することになるか、と思っております。 残暑厳しき折、くれぐれもお大事になさってください。 ご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.