須賀敦子「遠い霧の匂い」についての記述です。その五
「狐」さんが「神品」とまで賞賛された作品を、なぜ今まで読まないままにやり過ごしてきたのか不思議な気がしています。
つい今しがた読み終えました。三度目です。前回読んだのはちょうど一月前のことでした。回を重ね、作品の味わいが少しずつわかるようになってきました。「狐」さんが評した「神品」、へのとらわれから、解き放たれたことも要因の一つだと思っています。
以下は、この作品の最後の場面についての記述です。感想ではなく、書評でもなく、一記述です。私に書評が書けるはずもなく、下手な感想文は、不用意な言葉は、須賀敦子さんの失礼になるだけです。それくらいのわきまえは、私も持ちあわせています。
夜 友人を迎えに来る約束になっていた、友人の弟さんのテミが、いつまでたっても現れず、翌日の新聞で、霧に起因するグライダーの墜落事故で、テミの生存の可能性がないことを知るまで過程を、須賀敦子さんは平易な言葉を連ね、よけいなおしゃべりはいっさいせず、事実関係を時系列に並べ、たんたんと述べていらっしゃいます。そこには感情の表出を表す言葉は一つも見られません。そして、それは掉尾の一文へとつながっていきます。ここでも難しい言葉は使われていません。平易な言葉で書かれています。もちろん感情の表出もありません。
それにしても、読後のこの感触は、いったいどこに起因するものなのでしょうか。
須賀敦子『須賀敦子全集 第1巻』河出文庫
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