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TWEET「阿弥陀仏」

 学生時代から「哲学としての宗教」についての書をずいぶん読んできた。が、還暦を過ぎたいま「宗教としての哲学」への転換期か、と感じている。「宗教としての哲学」には実践がともなう。   2024/0 8/19 以来, 「般若心経」をことあるごとに唱えて いる。ゆったりと丁寧に、声が脳内に反響するようにして、一度に三回ずつ誦んでいる。読経後には平安が訪れるが、それもやがて去る 。平安の内にあり続けるために、称名を唱えるように唱えている。いささか偏執狂的である。 山本空外は、 「法然上人は大小乗の全仏教を体系化して、念仏の一語にしぼり込んだのである。それは日本の宗派仏教で説く念仏ではない」 と明言している。 そして、 『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社  「たとえば良寛和尚(1757-1831)のごとき、その書は禅僧として随一のこと周知のとおりであるが、さすがにいのちの根源ともいうべき阿弥陀仏と一如の生活に徹していたのであろう。道詠にも、  草の庵ねてもさめても申すこと 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏  不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば 何をこの世の思ひ出にせむ  我ながら嬉しくもあるか弥陀仏の いますみ国に行くと思へば などがある。これは曹洞宗の禅僧としては、むしろ当然でもあるというのがわたくしの見解でもある。 (中略)  前掲『書と生命』冊中にも、良寛とともに、弘法大師(774-835)・慈雲尊者(1718-1804)の書も併載されたが、じつにやはりいのちの生動するところ、大師にも  「空海が心のうちに咲く花は 弥陀よりほかに知るひとぞなし」 という道詠があるとおり、その花が書として形相をあらわしたわけで、いのちの根源としての阿弥陀との一如に根ざすとしか思えない」(39頁) と書いている。  なお、山本空外、岡潔は、山崎辨栄(べんねい)上人(浄土宗・光明派)に帰依し、湯川秀樹は山本空外上人に帰依している。こういった慎重さ、保証がなければ、臆病な私は宗教(仏教)には近づけない。 龍飛水編『廿世紀の法然坊源空 山本空外上人聖跡素描』無二会 また、空外先生は、 「法然上人は生きていることの原点をナムアミダブツと一息でいえる言葉に見出した。今わたくしが生きている深い内容を一息でいえる言葉、一語で全仏教をおさめ得る言葉は、言語学の上からもナ...

「小林秀雄『本居宣長 (下)』_生死の問題」

  「小林秀雄『本居宣長 (下)』_生死の問題」 「私達は、史実という言葉を、史実であって伝説ではないという風に使うが、宣長は、「正実(マコ ト)」という言葉を、伝説の「正実(マコト)」という意味で使っていた(彼は、古伝説(イニシヘノツタヘゴト)とも古伝説(コデンセツ)とも書いている)。「紀」よりも、「記」の方が、何故、優れているかというと、「古事記伝」に書かれているように、ーー「此間(ココ)の古ヘノ伝へは然らず、誰云出(タガイヒイデ)し言ともなく、だゞいと上ツ代より、語り伝へ来つるまゝ」なるところにあるとしている。文字も書物もない、遠い昔から、長い年月、極めて多数の、尋常な生活人が、共同生活を営みつつ、誰言うとなく語り出し、語り合ううちに、誰もが美しいと感ずる神の歌や、誰もが真実と信ずる神の物語が生まれて来て、それが伝えられて来た。この、彼のいう「神代の古伝説」には、選録者は居たが、特定の作者はいなかったのである。宣長には、「世の識者(モノシリビト)」と言われるような、特殊な人々の意識的な工夫や考案を遥かに超えた、その民族的発想を疑うわけには参らなかったし、その「正実(マコト)」とは、其処に表現され、直かに感受出来る国民の心、更に言えば、これを領していた思想、信念の「正実(マコト)」に他ならなかったのである」(145頁)  最終章「五十」は、生死(しょうじ)の問題についての話題である。 「既記の如く、道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定(けつじょう)して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていたが、これに就いての、はっきりした啓示を、「神世七代」が終るに当って、彼は得たと言う。ーー「人は人事(ヒトノウへ)を以て神代を議(はか)るを、(中略)我は神代を以て人事(ヒトノウへ)を知れり」、ーーこの、宣長の古学の、非常に大事な考えは、此処の注釈のうちに語られている。そして、彼は、「奇(アヤ)しきかも、霊(クス)しきかも、妙(タヘ)なるかも、妙(タヘ)なるかも」と感嘆している。註解の上で、このように、心の動揺を露わにした強い言い方は、外には見られない。  宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だったわけだが、宗教を言えば、直ぐその...

井上靖「原始帰り」

井上靖 岡潔「美へのいざない」 岡潔 『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫 井上  先生は柳田國男先生をどうお考えになっていらっしゃるか…。 岡  いや、あの人はえらいですね。 井上  それはうれしいですね。 岡  あの人、えらいですよ。 井上  この間、柳田さんの神隠しの随筆を読んでおもしろうございました。明治時代まで、私たちの村にもやっぱり神隠しというのがありました。その解釈を柳田さんは、何県の何郡の何村にいつ神隠しがあった、それはどこの太郎兵衛だというのを、たくさん集めてまいりまして…。 岡  それは実際、腰をすえて調べる価値がありますね。 井上  そして、その村の人がどういう反響を示したかという例もとってあります。「あそこのお嫁さんは夕方田んぼへ出ていった。わたしは悪いときに出ていくなあ、と思った。そうしたら、果たしていなくなった」というようなことも出ています。この悪いときということばを使った例が三つくらいあるんです。悪いときという、ある空間的、時間的条件を持った悪いときというものが、そのころの神隠しがあると信じられた時代には確かにあったということなんですね。柳田さんは、神隠しを寂寞の畏怖に触れるということばで説明しています。非常に大きい、深いさびしさというようなものに触れると、人間がその瞬間に、これは私流のことばでいうと、どうも原始帰りするということらしいんですが、原始というものにさわられるとか、つかまれるとか、そういうように柳田先生は説明しておられる。要するに原始帰りして、原始の心に立ち返って山へ向かって歩いて行く。そうして発見されて村へ連れ帰ってもらうものもいるが、発見されないと、三年でも四年でも原始時代の生活をしたんだろうと…。 岡  それはおもしろいですなあ。原始帰りということばもおもしろい。 井上  それで私は、月のまわりをぐるぐる飛行機で回るような時代になっても、原始からは自由にはなっていないと考えるのですがね。いま、蒸発とかなんとかいわれていますけど、悪いときはこれから多くなると思います。この時代に、とくに。 岡  柳田先生がえらいのはわかってましたが、そんないい論文あるとは知らなかった。 井上  たいへんおもしろうございました。柳田先生のお書きになったもののなかでも。 岡  造化の秘密がわかっていくかもしれません、...

「法華堂_東大寺域」

2023/06/14  まもなく拝観時間(8:30〜16:00)が終わりを告げようとしていた。私は、「東大寺・法華堂(三月堂)」に設(しつら)えられた台座の、「 不空羂索観音像」の正面に腰をかけ、ひとりくつろいでいた。ようやく訪れた平安だった。  そんな折もおり、4人の中学生が私の目の前を突っ切った。 「人の前を通るときは会釈くらいしろ」 「そこに座り合掌しろ」 私は中学生を叱咤した。中学生たちは素直に従った。と、そのとき職員がやって来た。 「大きな声がするので来た。 中学生にはなにをいっても仕方ない」 といわれた。そういうものかと思い、 「申し訳ありませんでした」 と、私は謝罪するほかなかった。 「 不空羂索観音像」の前に畏まり、私は合掌・一拝し外に出た。  外には私を待ち受けている女性がいた。 「お水取りでいただいた炭を納めに参りました。母は「法華堂」が好きなんです」 その「法華堂」で、私の狼藉の一部始終を目にしたのであろう。しかし、私にはまったく覚えがなかった。 「あの子たちには忘れられない思い出になったでしょうね」 さりげない女性の言葉に、私は救われた思いがした。  その後、「東大寺」または「東大寺ミュージアム」においてある、 ◇ 森本公誠編『善財童子 (ぜんざいどうじ)求道の旅』朝日新聞社 を読むように勧められた。  また、昨年末来病気がちであること、父を亡くして日が浅いことを告げると、「 東大寺」もしくは「東大寺ミュージアム」で、「薬湯」を購入し、災厄を払うようにいわれた。  彼女は、高野山に参拝し、 また 四国八十八ヶ所霊場の幾 ヶ 寺かを拝観していることを知り、「女人高野 室生寺」を、また「大野寺」を訪ねることを勧めた。その際には、 ◇ 土門拳の四分冊になっている『古寺を訪ねて』小学館文庫 を紹介した。土門拳についてはよく知っているようだった。  また、 ◇ 岡潔『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫 についてお話しし、 ◇ 河合隼雄『明恵 夢を生きる』京都松柏社 ◇ 白洲正子『明恵上人』講談社文芸文庫 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 についても、話題にした。  今夜は京都に宿泊し、明日は「伊勢神宮」を訪れる とのことだった。明日の夜には、黒田清子(くろださやこ)様が、 天皇陛下の御言葉を読まれます、直接その場に立ち会うことはで...

TWEET「病気療養中につき_34」

「小林秀雄『本居宣長 (下)』_生死の問題」 「私達は、史実という言葉を、史実であって伝説ではないという風に使うが、宣長は、「正実(マコト)」という言葉を、伝説の「正実(マコト)」という意味で使っていた(彼は、古伝説(イニシヘノツタヘゴト)とも古伝説(コデンセツ)とも書いている)。「紀」よりも、「記」の方が、何故、優れているかというと、「古事記伝」に書かれているように、ーー「此間(ココ)の古ヘノ伝へは然らず、誰云出(タガイヒイデ)し言ともなく、だゞいと上ツ代より、語り伝へ来つるまゝ」なるところにあるとしている。文字も書物もない、遠い昔から、長い年月、極めて多数の、尋常な生活人が、共同生活を営みつつ、誰言うとなく語り出し、語り合ううちに、誰もが美しいと感ずる神の歌や、誰もが真実と信ずる神の物語が生まれて来て、それが伝えられて来た。この、彼のいう「神代の古伝説」には、選録者は居たが、特定の作者はいなかったのである。宣長には、「世の識者(モノシリビト)」と言われるような、特殊な人々の意識的な工夫や考案を遥かに超えた、その民族的発想を疑うわけには参らなかったし、その「正実(マコト)」とは、其処に表現され、直かに感受出来る国民の心、更に言えば、これを領していた思想、信念の「正実(マコト)」に他ならなかったのである」(145頁)  最終章「五十」は、生死(しょうじ)の問題についての話題である。 「既記の如く、道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定(けつじょう)して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていたが、これに就いての、はっきりした啓示を、「神世七代」が終るに当って、彼は得たと言う。ーー「人は人事(ヒトノウへ)を以て神代を議(はか)るを、(中略)我は神代を以て人事(ヒトノウへ)を知れり」、ーーこの、宣長の古学の、非常に大事な考えは、此処の注釈のうちに語られている。そして、彼は、「奇(アヤ)しきかも、霊(クス)しきかも、妙(タヘ)なるかも、妙(タヘ)なるかも」と感嘆している。註解の上で、このように、心の動揺を露わにした強い言い方は、外には見られない。  宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だったわけだが、宗教を言えば、直ぐその内容を成す教義...

TWEET「病気療養中につき_18」

小林秀雄『人生について』中公文庫 「年齢のせいに違いないが、年をとっても青年らしいとは、私には意味を成さぬ事とも思われる」(177頁) 岡潔『春宵十話』角川ソフィア文庫 「情操が深まれば境地が進む。これが東洋的文化で、漱石でも西田幾多郎(にしだきたろう)先生でも老年に至るほど境地がさえていた」(36頁)  老いが若さに優るのは、まず健康体であってのことである。老いぼれることは、ぜひ慎まなければならない。

TWEET「病気療養中につき_16」

 2023/03/10「Facebook」を書きはじめました。  同姓同名の方がいて、よく間違えられますので 、「Facebook」さんのお世話になることにしました。   2023/03/19 には、  私のブログ中の、洲之内徹さんの文章、また洲之内さんについての話題のすべてを載せました。  そして、小林秀雄 の文章、また小林秀雄に関する話題のすべてを載せようと思っていましたが、昨夜 途中で断念しました。  所詮、「Facebook」は、私の住めるような場所ではないことが、次第にわかってきました。  いまも微熱があり、寝たり起きたりの生活をしています。起きているときの手持ち無沙汰も手伝って、「Facebook」に文章を載せ続けてきましたが、それもこれで終わりにします。遅きに失した感を抱いています。  61歳になり、殊更 今年になり、虚弱体質になりました。加齢だけではすまないものを感じています。  TWEET「病気療養中につき」が続きます。 追伸:「お友達の要請」は、すべてお断りすることに決めました。悪しからず。

岡潔,司馬遼太郎「無為にして化す」

司馬  政治をなさらないのが日本の天皇さんだと思うのです。大神主さんであって、中国や西洋史上の皇帝ではなかった。あの存在を皇帝にしたのが明治政府ですが、どうもまずかった。(34-35頁) 岡 (前略)上に立つ方は、無である方がよいのです。 司馬  無であるというのが日本史上の天皇ですね。 岡  無であるということは、武士であるということを不可能にすることです。 (35頁) 司馬  そうでしょうね。明治以後の天皇制は日本の自然な伝統からみると間違っていますね。 岡  信長はよくやってるんだがボスになる。秀吉もよくやってるんだがボスになる、いくらやっても、結局ボスになる。この傾向を除き去ることはできないでしょう。それゆえ、天皇は是非いるのです。私は、そういう見方をしています。 司馬  それはたいへん結構ですね。 岡  書きにくいのですがね。私はそう思っております。全く無の人をそこへ置くべきです。 司馬  老荘のいう無の姿が、日本の天皇の理想ですね。 “無為にして化す”…。 岡  老荘のいう無であって、禅のいう無ではすでに足りません。禅のいう無はその下に置くべきです。   “無為にして化す” 全くそのとおり です。 司馬  自然と日本人の心の機微が天皇というものをうんだのですね。 岡  しかしね、この意味は匂わすだけでなかなか書けないのです。あんまり機微に触れたことは書けません。 司馬  よくわかります。 岡  わかっていただけるでしょう。それとなくいうのが一番いい。全く無色透明なもを天皇に置くのが、皇統の趣旨です。これなくしてはボスの増長を除くことはできません。 司馬  是非いりますね。(後略)(36-37頁)  私は、たとえば政治や経済等の、世の中の現象については、あまり興味がない。ゆえに疎い。  今回は偶然にも、信用のおけるおふたりの対談を読み、天皇制の核心部分について知った。「 無為にして化す」ことが絵空事でないことを知るにいたった。日本とは、日本民族とはたいしたものであると思った。  私は政治や宗教等の、人のこころの最もやわらかな 部分にふれることを極端に忌む者である。 “勧誘 ” などという勇ましい言葉を見聞きすると総毛立つ。そのつもりで読んでいただければ、と思っている。

岡潔,司馬遼太郎「仏によって神を説明していたのですからね」

岡潔 司馬遼太郎「萌(も)え騰(あが)るもの」 岡潔『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫 司馬  こういう連中が出てきてだめになってきたのです。日本の天皇は気の毒なことになってきたのです。 岡  明治維新のために必要になってきたのでしょうが、国学者の平田篤胤(あつたね)、あそこから間違ってきていますね。また宋学の尊王攘夷の王というのを日本の天皇にあてはめた朱子学、陽明学の徒もやはり間違っている。しかし、平田篤胤がもっともいけません。 司馬  平田篤胤は困る。(38頁) 司馬 (前略)明治になって、彼らに報いなきゃいけないというので神祇院をつくったのです。神祇院をつくりまして、神祇院に平田門下を全部入れました。神祇院で神主さんのことを取り扱わせる。ところが、神主のことをやっているだけでは満足しなくて、排仏毀釈(きしゃく)を実行したのです。それは明治政府、最大のミスです。 岡  廃仏毀釈をすれば、神道を説明する言葉がなくなってしまう。 司馬  仏によって神を説明していたのですからね。 岡  そうですよ。そのために聖徳太子が仏教をお取り入れになったのです。 司馬  神道はボキャブラリイを失ったわけですね。 岡  ボキャブラリイがないわけです。あと、お稲荷さんだの、なんだのいっても、全然神道にはなりません。(40頁) 「神 道 (7) 」 司馬遼太郎『この国のかたち 五』文春文庫 「神道に教義がないことは、すでにふれた。ひょっとすると、神道を清音で発音する程度が教義だったのではないか。それほど神道は多弁でなく、沈黙がその内容にふさわしかった。  『万葉集』巻第十三の三二五三に、  「葦原(あしはら)の瑞穂(みづほ)の国は神(かむ)ながら、言挙(ことあ)げせぬ国」  という歌がある。他にも類似の歌があることからみて、言挙げせぬとは慣用句として当時ふつうに存在したのにちがいない。  神(かん)ながらということばは、 “神の本性のままに” という意味である。言挙げとは、いうまでもなく論ずること。  神々は論じない。アイヌの信仰がそうであるように、山も川も滝も海もそれぞれ神である以上は、山は山の、川は川の本性として ー神ながらにー 生きているだけのことである。くりかえすが、川や山が、仏教や儒教のように、論をなすことはない。  例としてあげるまでもないが、日...

岡潔「くそ坊主は追い払いましょう」

岡潔 司馬遼太郎「萌(も)え騰(あが)るもの」 岡潔『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫  昨日のブログで、「三日坊主」という言葉を使いましたので、せっかくですから、おふたりの対談を引用しておきます。 司馬 (前略)禅とはそれそのものはたいへんなものですけど、これはやはり生まれついた人間がやらなければいけませんね。道元、白隠にしてやれることであって、あとは死屍累々(ししるいるい)ですな。 岡  まあ、せいぜい一万人に一人。 司馬  その割合はあるいは甘いかもしれませんね。十万人に一人です。 岡  禅に限らず、僧侶は十万人いる。ところが本物は百人だと、薬師寺の前管長橋本凝胤(ぎょういん)もいっています。 司馬  そんな割合なら、うどん屋の同業組合のなかで選べますからね。 岡  選べますとも。巷(ちまた)にそのくらいはおります。 司馬  だけどお坊さんを改悛(かいしゅん)させて俗人にしなきゃいかんことが、岡先生のご任務じゃないでしょうか。奈良に住んでらっしゃるから。 岡  仏教廃止にしましょうか。 司馬  仏教廃止もよろしゅうございますね。えらいところで共鳴してきたな。 岡  でも、いろんな仏たち、たとえば法隆寺でいえば救世観音、新薬師寺の十一面観音、みんな残さなきゃいけません。 司馬  仏たちは尊うございますからね。お坊さんと仏たちとは違うんだから。 岡  くそ坊主は追い払いましょう。お前たちにはご用ずみだ、迷信と葬式仏教によって食べていこうとするな。(44-45頁)  過激な対談と言うことなかれ、溜飲がさがる思いを抱いている。「お坊さんを改悛させ」ると「俗人に」なるところが面白い。  両氏の対談「 萌え騰るもの」からは、多くのことを学んだが、理解のおよばないことも多々ある。これを機に再読することにする。  今回の「古社寺巡礼の道ゆき」では、救世観音の秋の特別展は終わり、また新薬師寺へは行く時間がなかった。 “美” の前に立ちつくすと、時間の感覚があやふやになる。計画など立てようがない。

井上靖『美しきものとの出会い』文藝春秋_目次

昨日の午前中、足元のいくつかの積読の山を、見るともなく見ていると、 ◆ 井上靖『美しきものとの出会い』文藝春秋 に目が留まった。購入した経緯(いきさつ)も年月も、なにもかもが不明だったが、これほどうれしい出会いはない。検索すると、 2021/12/05 に Amazon を通して購入した古書であることが分かった。 ◆ 岡潔『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫 を読んでからというもの、井上靖と急に近しい間柄になった。岡潔の “人選” の妙である。 以下、目次である。 「昭和48年6月25日 第1刷」の奥付がある。 井上靖『美しきものとの出会い』文藝春秋 「室生寺の五重塔」 「浄瑠璃寺の九体佛」 「秋の長谷寺」 「東大寺三月堂」 「法隆寺ノート」 「渡岸寺の十一面観音像」 「東寺の講堂と龍安寺の石庭」 「鑑真和上坐像」 「日本の塔、異国の塔」 「水分神社の女神像」 「漆胡樽と破損仏」 「タジ・マハル」 「バーミアンの遺跡」 「扶余の旅、慶州の旅」 「飛鳥の石舞台」 「十一面観音の旅」  本書のような目次はデジタル データ化しておくにかぎる。旅の途上の荷にならず、また容易に検索できるのがうれしい。  さて、読むべきか読まざるべきか、それが問題である。昨日、「 ひき続き無為という殊更な毎日を送ることにします」と高らかに宣言した以上、武士道に悖(もと)る恥はさらしたくない。が、三日もすれば、なまくらな坊さんくらいにはなることができる。坊主になることに決めた。私には三日坊主くらいがちょうどいい。

芭蕉「此の道や行く人なしに秋の暮れ」

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2022/11/23   2022/11/27 08 時に「大阪新阪急ホテル」前にて、P教授と待ち合わせ、「三徳山 三佛寺 投入堂」へ 登拝に向かうことだけが唯一の旅程だった。しかし、土門拳の、また井上靖の随筆で知った、奈良県内のいくつかの堂塔・仏像を拝観したいという漠然とした思いはあった。  22:30 に出立した。小雨模様だった。  奈良に車で向かうのははじめてのことだった。駐車場が心配だった。 2022/11/24 ◆「東名阪自動車道(下り)EXPASA 御在所」 車中泊。 ◆「法隆寺」 「日本仏教のあけぼの」を「振り仰ぐ」ことを旅のはじめとした。 「法隆寺と斑鳩」 土門拳『古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』小学館文庫 金堂にせよ、五重塔にせよ、 振り仰いだときの厳粛な感銘は格別である。 古寺はいくらあっても、 その厳粛さは法隆寺以外には求められない。 それは見栄えの美しさというよりも、 もっと精神的な何かである。 そこに飛鳥を感じ、聖徳太子を想い見る。 いわば日本仏教のあけぼのを 遠く振り仰ぐ想いである。  釈迦三尊像をはじめて美しく尊いと感じた。境地が、趣向がかわったからだろうか。  百済観音像を側面から仰いだ際の、その体躯の頼りなさに哀しみを覚えた。さらにそれは、 209.4 cm の像高と相まって増長され、哀しみがつのった。  救世観音を拝観することはできなかった。二日前に秋季特別展は終了していた。 ◆「中宮寺」  菩薩半跏像の美しさをはじめて知らされたのは、 前回の参拝時 (2020/10/15)での ことだった。時の経過をまたなければ見えない世界がある。岡潔ならば 「情緒が深まった」というだろう。 長い間 畏まり仰ぎ見ていた。 去りがたかった。 ◆「平宗 法隆寺店」 柿の葉寿しをいただく。 ◆「聖林寺」  観音堂の改修事業を終え、8月から新観音堂での一般公開がはじまった。観音さまを四辺から仰ぐことができるようになった。  聖林寺の十一面観音立像については、 ◇ 白洲正子『十一面観音巡礼』講談社文芸文庫 の口絵にある、右側面から撮られた白黒の写真が圧巻である。「単行本」や「愛蔵版」では同じ構図のカラー版 が表紙を飾っている。  闘いを終え、満身に創痍を負った勇者が、傷を癒すために深い瞑想に入っているかのようにみえる。表情は厳しく、体躯は剛健そのものである...

岡潔 山本健吉「俳諧は万葉の心なり」

岡潔 山本健吉「連句芸術」 岡潔『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫 山本  (前略)芭蕉の文学の発想は、結局発句じゃなくて、連句にあるという…。 岡  芭蕉は連句ですよ。連句はものすごいと思いますよ。いまの人は無精して、芭蕉の連句を調べない。 山本  もったいない話です。 岡  日本にとってもったいない。 山本  発句だけでは、芭蕉文学の玄関口にすぎない。とにかく芭蕉が心にもっていた人生の種々相というものは、連句のなかに描れてくるのです。柳田國男先生がこういうことをおっしゃったことがあるんです。とにかく柳田先生は連句がお好きで、『芭蕉七部集』は座右の書とされておりました。そして連句の評釈も書いておられます。柳田先生がおっしゃるには、芭蕉さんというのはじつによくものを知っていらっしゃる、人生、人間というものを知っていらっしゃる。 岡  人生というものを芭蕉くらいよく知っていた日本人は、ほかにないかもしれませんよ。 山本  そうでしょう。 岡  たぶん芭蕉だ。それが連句に出ております。あれをなんでほっておくのかなあ。たなごころをさすようですね。たなごころをさすように連句をよんでいるでしょう。芭蕉が入ったら、たなごころをさすようになっているでしょう。それが大円鏡智です。 山本  いま先生が、芭蕉の頭のなかには図書館のように人生が詰まっていてと言われた…。 岡  そうです。人生が図書館のように詰まっているでしょう。 山本  それが自在に出てくるということをおっしゃったわけです。 岡  一冊抜いたら、すっと出てくる。それが連句ですからね。芭蕉の連句によって日本を知ることは、『万葉集』によって日本を知るよりよほど知りやすい。連句をみな読まんから、わざわざ『万葉集』までかえらなくても、「俳諧は万葉の心なり」といって、あそこでエキスにしてくれてあるのに…。こんどは大いに強調しておいてください。今度、角川書店が『芭蕉の本』を出すということは、ひじょうに時宜を得ています(笑)。大いに連句を強調してほしい。(161-163頁) 山本  芭蕉は、自分のなかの私というものをたえず捨てようとした。なくそうとした。無私ということ、私なしということが芭蕉の心がけの根本にあるわけなんです。俳諧なんてものは三尺の童子にさせよということをいっておりますが、三尺の童子というのは...