小林秀雄「末期の眼」


「さようなら」
A・M・リンドバーグ『翼よ、北に』中村妙子訳、2002年、みすず書房
「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。…けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受けいれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしない Good-by であり、心をこめて手を握る暖かさなのだ ー 「サヨナラ」は。

 人と別れ、遠ざかっていく人の後ろ姿を見やりながら、「さようなら」と思うことが多くなりました。別離に際して感傷的になることが少なくなりました。別れはいずれやってきます。年齢(とし)を重ねるつれ、事実は事実としてあるがままに受け容れることができるようになってきました。言葉としては知っていても、今にいたるまで何もわかっていなかったということです。

 「四苦」を思い、「八苦」ということを思います。ウィキペディアには、「苦とは、『苦しみ』のことではなく『思うようにならない』ことを意味する」と書かれています。「思うようにならないこと」ならば、我が身に引きうけるしかありません。
「繰り返して言おう。本当に、死が到来すれば、万事は休する。従って、われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。」ー「本居宣長」より

 小林秀雄の凄みのある文章です。鬼気迫るものを感じます。やがて、すべての人、もの、こと、との別離のときがやってきます。「万事が休する」ときが訪れます。自覚のある今、責任のある今を過ごすこと、「さようなら」と身を引くときの、引き際の覚悟を、小林秀雄は、私たちに迫っているのだと思います。

 「神には過去もなければ未来もなく、神は永遠の『今』という時間を表現しているのみである」という意味の文章を読んだ記憶があります。神に過去もなく未来もなければ、私たちに過去や未来があるはずもなく、神は永遠の今の表現者ですが、私たちに与えられた時間は有限です。


芥川龍之介「或旧友へ送る手記」(遺書)
 しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期(まつご)の眼に映るからである。

 「末期の眼」に自然は美しく映りますが、「今の眼」に映る自然もまた同様に美しく、時の経過の中で今という時間が、かけがえのないことに思いをいたすとき、「今の眼」も「末期の眼」も区別はなく同じ意味をもつことになります。「末期の眼」で今を見すえ、今という時をいとおしむ、「ただ今」、そういう覚悟を小林秀雄は私たちにうながしているのだと思います。