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5月, 2019の投稿を表示しています

「教育の死と再生」

 公立高入試は、範囲の限られたテストです。数学や理科のある分野については、多少の受験テクニックが必要となりますが、それとて学習指導要領内での出来事であって、中学校で行われる定期テストと同様、明確に出題範囲の示されたテストです。  範囲の限られた試験ですから、細大漏らさず勉強することが大切になってきます。たかが知れた範囲ですから、細大漏らさず勉強することはさして難しいことではありません。  しかし、ひとりでは、細大漏らさずといった勉強ができないために、入試数日前にしてなお、教科書を一頁ずつ繰って確認するという内容の直前対策授業を行わざるをえず、情けないかぎりです。  教科書を読まない、読もうとしないいまの大多数の子どもたちは、自身の手では細も大もすくい上げることができず、みじめです。そんな子どもたちとおつき合いせざるをえない私は、悲惨です。「転ばぬ先の杖はつかない」ことを標榜してはじめた学習塾ですが、いつしか初心は潰え、いまでは見る影もありません。このあたりが引き際かと考えています。  暉峻康隆先生の『女子大生亡国論』に倣っていえば、学習塾・予備校・各種専門学校等々に準ずる民間教育(?)機関が、また塾を恃み、塾に任せることをよしとし、おざなりの授業でお茶をにごす公教育の現場の先生方の体質が、ついにはこの国を亡すことになる、と私は考えています。暉峻先生の「亡国論」に比すれば、私の「亡国論」などは穏健派に組みするものです。自覚なく内省なく、したり顔をしている現場の先生方を想像すると、総毛立ちます。教育をなんと心得ているのでしょうか。自らの教育に対する矜持はないのでしょうか。  「死と再生」。「再生」には「死」を経ることが不可欠ですが、この先現行以上の地獄図絵のような体を経なければ、教育の「再生」はありえないのでしょうか。底を打ち、「再生」へと向かうとき、蘇生すべき体力が残存されているのでしょうか。絶えることにならないことを祈るばかりです。  「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」。狭隘な自己保身、子どもたちを喰いものにした下卑た教育とは、もうこのあたりで訣別して、潔く「再生」へと舵を切るべきです。それには、身を投げ出す覚悟、「死」を賭す覚悟が必要です。「死」なきところに教育の「再生」はありえません。

TWEET「僕は我慢がならなかった」

◇ 塾生のあるお母さんからのメールに応えて、 「僕は我慢がならなかった。ただ、それだけのことです。 「教える」とか「諭す」とか「指導する」とか、そんな大それたことは考えておりません。それは神々の領域のことです。」 以下、 「悪貨は良貨を駆逐する?」 です。

「小満の八日後に_盈満(えいまん)」

「ウィキペディア の解説」 しょうまん【小満】 万物が次第に成長して、一定の大きさに達して来るころ。 『暦便覧』 には「万物盈満(えいまん)すれば草木枝葉繁る」と記されている。 麦畑が緑黄色に色付き始める。 沖縄では、次の節気と合わせた小満芒種(すーまんぼーすー)という語が梅雨の意味で使われる。 「精選版 日本国語大辞典の解説」 えいまん【盈満】 〘名〙 (形動) 物事が満ち足りること。欠けたところがないこと。また、そのさま。盈溢(えいいつ)。 「大辞林 第三版 の解説」 えいまんのとがめ【盈満の咎め】 〔後漢書 折像伝〕 あまりに満ち足りているときは、往々にして災いの生ずるおそれがあるということ。   不足続きで、荒んでいる。荒ぶってばかりいる。 盈満に咎めがあるならば、足ることさえ知らぬ輩に咎めはつきものとあきらめている。  今日は小満の折り返し点である。復路に期している。

「拝復 Dr.T様_不相応な組み立で傷」

おはようございます。 カヤックで川下りとは、すてきな休日でしたね。羨望の眼差しを向けています。川下りにはさまざまな制約があり、それなりの準備も必要かと思っています。来豊時に聞かせてください。いまの私には、砂浜での組立て、砂浜からの出艇以外にはなす術がなく、不自由を強いられています。  かといって、このまま放っておくことは沽券に関わり、おもしろくなく、週末にはカヤックの「取扱説明書」とにらめっこをして過ごしました。二つの大きな過ちに気づき修正しました。いずれも、カヤックの構造の、仕組みのままならぬ理解に起因するものです。浅はかでした。その都度 繰り返される初歩的な過ちを今回もおかしています。一通りの過ちをおかすことなく、事が運んだためしはなく、早い時期に一通りの過ちをおかすことを心がけています。  厄介な部位の組立て、分解を繰り返し、 【セットアップ時間】約14分 には遠く及びませんが、四十分程度 にはおさまるようになったと思っています。  各部には、一度 琵琶湖の水面に浮いたきり、とはとても思えないような「組立て傷」がついています。 不相応な傷み具合です。  例によって、いま完成形が仏間に鎮座していますが、いつ骨抜きにされようとも我関せず、といった不遜な面構えになることを望んでいます。 お便り、どうもありがとうございました。 くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

「動詞_荒ぶる_その二」

 「こちらは市の上下水道局です。市内ではいま水不足ため、節水にご協力ください」  今朝から豊橋市役所の街宣車が、節水の呼びかけにまわっている。  こうして、書き言葉〈言語〉にしてしまえば、これしきのことであるが、話し言葉〈ことば〉としては、小学校低学年の子どもが吹きこんだとしか思えないような代物であって、滑舌も悪く、聞くに耐えないものである。  つい今しがた、上下水道局に電話をした。耳障りで仕方がないからである。 「これでは、恥をさらしに、市内をまわっているようなものですから、早速 吹き替えてください」 というのが電話の趣旨である。業者に委託したものではなく、女性職員の仕儀であるということだった。  「ご協力ください」の「くだ」と「さい」との間に間(ま)があり、その後 媚を売るかのように「さい」と発話されているので、聞くに耐えない甘ったるい〈ことば〉になってしまっている。かわいらしく、とのお考えかもしれないが、「公共放送」にかわいらしさは必要なく、浅はかで、ただ見苦しいだけのことである。  いま、応接してくださった男性職員の方(もちろん名前はうかがっている)に、すべてを託してある。  最後に、 「全国でも指折りの、光ヶ丘女子高校の放送部のみなさんにお願いすれば、喜んで引きうけてくださると思いますよ」 とつけ加えて電話をきった。 「せんろは つづくよ どこまでも」 癇に障ることが続きます。 本日も荒ぶっています。 「日本語 四技能」 果てしない、際限のない旅路、ということなのでしょうか!?

「動詞_荒ぶる_その一」

 栂尾・高山寺、湖南の日吉大社、湖北に位置する渡岸寺さんへの旅から帰豊し、一週間が経った。  その間に、中二生の塾の解散、二人の塾生への退塾勧告。ケアマネージャー、ヘルパー、新聞配達との諍(いさか)い、叔父、また父との徹底抗戦と、良識をわきまえず、道理の分からない輩たちが相手なだけに、私の瞋恚のほどのいかほどが伝わったのかさえ、怪しいものである。  2021年度からは、「大学入試共通テスト」がはじまり、「英語 四技能」が課されることになるが、いま思えば、今回の私の荒ぶりは、「日本語 四技能」、日本語を「読む、書く、話す、聞く 」ことさえままならない強者たちに向けらた ものであって、始末に負えない。今後、「英語」が「母語」を駆逐する時代がやってくるとでもお考えなのであろうか。顚倒もはなはだしく、内実をともわない英語がいくら話せ、いくら書けたところで、いかほどのことでもあるまい。  一人がいい。一人でいい。  これを機に、捨てる(捨てられる)ことを続けます。 塾生のお母さん方からのメールの返信には、 「今後 メール、お電話、またご来塾は、固くお断りいたします」 との断り書きを連ねている。早速 定型文として登録した。 「旧制三高」 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫 京大教授の梅棹忠夫さんが「きらいなもの」を聞かれ、「ざっくばらんが大きらい」と答えているのも面白い。ざっくばらんとは、つまり野蛮なのだろう。(337頁) 「ざっくばらん」とは、前後なく、節度なく、見境なく、ということなのでしょう。 「あまざかる鄙」の明け暮れは、もの言わず腹ふくるることばかりです。

TWEET「【収納サイズ】95×37×27cm」

 今回の素っ頓狂な旅では、 【収納サイズ】95×37×27cm 【総重量】15.7kg のカヤックを、付属の黒色の「キャリングパック」に収納し、車の後部座席に置きっぱなしにして、あちこちほっつき歩いていました。終始 盗難にあうことを心配しながらの旅でした。  しかし、いま玄関に鎮座している「キャリングパック」を見やれば、怪しいことかぎりなく、ご遺体が入っているかのように見受けられ、とても盗難にあうと思えず、尋問を待つかのように、 鎮まりかえっています。  いま思えば、まったくの杞憂でした。  手頃なサイズの 「 キャリングパック」に、感謝している次第です。

「拝復 P教授様_真顔でした」

以下、 お尋ねの、 私が購入したカヤック、 「ボイジャー 415」 です。 下に送っていくと、「組み立て方」「片付け方」の動画を見ることができます。野田知佑さんの動画もあります。野田さんは英文科卒なんですね。 先ほど、「モンベル 豊橋」さんに戦後処理についてうかがいにいってきました 。その際に、はじめて仏間で組み立てるのに五日間、浜での組み立てに二時間かかりました、というと、ずいぶん早くなりましたね、とおほめの言葉にあずかりました。スタッフの方は真顔でした。三十分前後が目標ですが、これを機にポジティブに生きることにしました。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸: その後、ウェブサイト上に、 【セットアップ時間】約14分 と記載されていることに気づき唖然としました。あくまでも、ポジティブに、と考えております。

「拝復 P教授様_旅の終わりに」

 渡岸寺にいく途中、国友を訪ねました。信長が鉄砲 500丁をあつらえたと伝えられる鉄砲鍛冶の町です。司馬遼太郎の『街道をゆく 二十四』「国友鍛治」 の一節を刻んだ愉快な碑がありました。  観音さまの御前に三十分ほどいました。  帰路、伊吹 SA で、伊吹山頂にかかる雲が晴れるのを待ち、その後、走行中には、 睡魔に襲われ、最寄りの SA で午睡、三時間ほどかけて、16時少し前に帰宅しました。  たびたびのご機嫌うかがい、 どうもありがとうございました。  05/17 の明け方に自宅を出発し、走行距離  562,4km の頓狂な 旅でした。   「近江は日本の楽屋裏」 を実感した旅でした。

TWEET「今日は今津か長浜か」

  長浜港の「観光船のりば」のトイレ内で洗面。湖北の地を訪れた折の、いつもの朝のはじまりです。  いま 車中泊の旅の途上にあります。  一昨日には、近江八幡市の宮ヶ浜で、はじめてカヤックに乗艇しました。思いがけずも、願ったり叶ったりの、琵琶湖の水面に漂う木の葉状態でした。  その後、湖西にわたり、翌朝には穴太衆(あのうしゅう)の石積みの町 坂本を散策後、湖西線とバスを乗り継ぎ、栂尾・高山寺で明恵上人をしのびました。  いまから高月の渡岸寺さんに向かいます。観音さまとの目見えです。  Google map とコンビニ、マクドナルド、そしてスーパー銭湯 頼りの、今どきの車中泊の旅です。

「Dr.T様_栂尾・高山寺だよりです」

高山寺は、台風24号の被害で修復工事中でした。半日は悠に楽しむことができると思い、楽しみにしていたのですが、石水院しかのぞむことができずに消沈。どっと疲れがでて、早々に京を後にしました。いま近江八幡市にいます。睡魔に襲われ、これから午睡です。 では、では。 おやすみなさい。 FROM HONDA WITH LOVE.

TWEET「週末と私と美人秘書と」

 テスト週間中につき、悲惨な週末を過ごしました。  中学の授業程度のことはいかほどのものでもなく、いっこうに平気ですが、授業プリントの準備に追い立てられ、追い詰められ、右往左往するばかりでした。秘書さえいれば、私の仕事のおおよそは片づくのですが、望むべくもなく、「有能な美人秘書」がほしいと、子どもたちにこぼせば、「このオジサン、なに血迷ってるの」といった、冷たい視線にさらされましたが、厚顔無恥はお手のもので、どこ吹く風です。  テスト週間中には、と思い、 ◇ 丸谷才一『完本 日本語のために』新潮文庫 を用意しましたが、わずかに、 「言葉は単なる道具ではない」大野晋 「あとがきにかえて   日本人はなぜ日本語論が好きなのか  聞き手 湯川豊」 に目を通したばかりで、一切 本文にはふれず、といった体たらくです。  以上、「週末と私と美人秘書と」でした。

TWEET「勘どころも分かり」

懸念のカヤックのファスナーも締まり、購入後五日目にして完成をみました。勘どころも分かり、もう平気です。後は進水式、船出を待つばかりです。 取り急ぎまして、ご報告まで!! FROM HONDA WITH LOVE.

「立夏の日に_Dr.T様」

 明日は、令和元年の仕事始めですね。いきなり、定期テスト九日前です。私はそのつもりですが、受験生を心配しています。  カヤックのファスナーが締まらず、困惑しています。いくつかの手順を省いたのが原因なのでしょうか。それとも「社会の窓」は常に開けっ放し、がいいのでしょうか。しばらく仏前にお供えしておきます。  茂木健一郎については心得ていましたが、池上彰も講師をされてるんですね。有名どころをそろえてきますね。 今日は立夏ですね。 Hはだいじょうぶでしょうか!? お便り、どうもありがとうございました。 FROM HONDA WITH LOVE.  アメフトといい、江ノ島まで自転車でといい、意表をつかれることばかりで驚いています。  夏休みには、 “またぎ ” よろしく、道内の山野をかけめぐるもの とばかり思っていました。 FROM HONDA WITH LOVE.

「拝復 P教授様_礼を欠く?」

「自由の象徴」であるはずの カヤックを、上手く組むことができずに、不自由きわまりない時間を過ごしています。  井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定しました。そして、空海の内に同様のものを認めました。「コトバ」の世界は融通無碍です。「コトバ」と近しいところで遊ぶ P教授を羨望の眼差しで見つめています。  叔母の死と、それに伴う葬式仏教の一々を目の当たりにし、また、 いまだ その渦中にあり、形式的、儀礼的といえば、天皇陛下に礼を欠くことになるのでしょうか。 お便り、どうもありがとうございました。 FROM HONDA WITH LOVE. 以下、 「存在はコトバである」_「井筒俊彦の風景」としての「空海の風景」〈『意識と本質』_はじめから〉 です。また、下記、 司馬遼太郎講演「風土的日本仏教の基本」 です。

「Dr.T様_よちよち歩きです」

おはようございます。  一昨日の午前中、カヤックを受け取りにい ってきました。その際には、船体に歪み癖がつかないように、との配慮から、店長さんに組み立てていただきました。二時間ちかくおつき合いしていただき、恐縮しました。  以降、仏間で右往左往しています。いつになく疲弊し、かすり傷も多く、消耗しております。いまだに満足な出来栄えとはいかず、船体布をフレームになじませるため、不出来なままに艇は仏間に鎮座しています。そして、時折 恨めしく見やっています。  試行錯誤をしているうちが花だと思っています。よちよち歩きを続けます。  カヤックは上手くできていて、感心しています。 以上、簡単にご報告まで。 残り少なくなった GW をお楽しみください。 ご返信ご不要です。また、ご心配ご無用です。 では、では。 くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸:     ふり返れば、「モンベル 豊橋店」さんには、GW 二日目から六日間連続で日参しました。店長さんと Kさんとは顔なじみになり、行くたびに笑われています 。     今日から定期テストの準備を、と張り切っていましたが、カヤックに如くものはなく、意気消沈、ひき続き船 遊びに興じることにしました 。 以下、 辰濃和男「悟りは迷いに道に咲く花である」 です。

『司馬遼太郎が愛した「風景」』(とんぼの本)新潮社_まとめて

令和元年、はじめての読書です。 芸術新潮編集部 [編]『司馬遼太郎が愛した「風景」』(とんぼの本)新潮社 ◇ 「司馬流 “日本甲冑小史”」 ◇  司馬遼太郎「歴史を二度転回させた風雲の海 壇ノ浦」 ◇  司馬遼太郎「鎌倉武士興亡のみち 三浦半島」 ◇  司馬遼太郎「大蒙古を撃退したささやかな “鉄壁” 元寇防塁」 ◇  司馬遼太郎「ふとんを敷きつめたような苔の寺 平泉寺(白山神社)」 ◇  司馬遼太郎「島原ノ乱の地は、なぜか美しく」 ◇  「司馬遼太郎の博覧、古書店主の強記」

司馬遼太郎「ふとんを敷きつめたような苔の寺 平泉寺(白山神社)」

令和元年、はじめての読書です。 「ふとんを敷きつめたような苔の寺 平泉寺(白山神社)[福井県勝山市]」 芸術新潮編集部 [編]『司馬遼太郎が愛した「風景」』(とんぼの本)新潮社 さらにのぼると、林が広くなった。足もとは木ノ根と苔ばかりである。さらには、木洩れ日が一面の苔緑(こけみどり)をまだらに黄色く染めて、ぜんたいの色調が唐三彩のようでもあった。  平泉寺の菩提林はうつくしい。境内へとつづく参道をつつみこむようにして、自然に群生した二百数十本の老杉が、姿のいい梯形(ていけい)をなしている。   おそらくこの森が見えるかぎりの地域の村や町のひとびとにとって、ふるさとの象徴のような存在であろう。……が、菩提林の美しさには、聖と俗の痛烈なたたかいがあり、その内容も複雑であった。 (「越前の諸道」『街道をゆく 十八』以下同)  平泉寺(明治以降白山神社)は、白山信仰で名高い霊峰白山を開いた八世紀の僧・泰澄の創建といい、越前側から白山へ登る入り口(白山馬場)にあたる。   中世、平泉寺は悪僧の巣窟でもあった。  ……  「平泉寺にゆけば食える」  というので、諸国から浮浪のひとびとがあつまって僧になったであろう。  叡山という〈政治的・経済的方面での大ボス〉の傘下にあったために、貴族たちから寄進された所領が多く、寺は富んでいた。だが、寺領の防衛や管理をおもにする僧たちの本質は 〈寺院の暴力装置をささえるひとびと〉だったという。  当時の平泉寺は僧兵八千といわれ、つねに北陸路の武力騒動の一中心だった。そのころ山中に一大宗教都市が現出し、社(やしろ)や堂、院坊をあわせると、その建物の数は、三千とも八千ともいわれた。……。  平泉寺の法師どもにとって、その領内の農民とは、救うべき存在ではなく、搾りあげるべき奴隷であり、かつ不浄の者たちであった。上代の律令社会そのままに、農民を、奴(やっこ)としてあつかい、夫役(ぶやく)と称して、無報酬の労働にこきつかった。   〈魔物〉のような衆徒の非道にたい して、天正二年(一五七四)、農民たちは怒りを爆発させた。加賀で起こった一向一揆が、越前にも飛び火したのである。  二ヶ月にわたり、一揆方と僧兵とははげしい戦いをくりひろげた。そしてある夜、農民たちは決死隊七百人を

司馬遼太郎「大蒙古を撃退したささやかな “鉄壁” 元寇防塁」

令和元年、はじめての読書です。 「大蒙古を撃退したささやかな “鉄壁” 元寇防塁  [福岡県博多市]」 芸術新潮編集部 [編]『司馬遼太郎が愛した「風景」』(とんぼの本)新潮社  元軍は城楼のような大船九百隻でもって博多湾をうずめている。上陸軍は二万人であった。迎え討った九州の武士たちは、せいぜい一万騎足らずであったであろう。 (「蒙古塚・唐津」『街道をゆく 十一』)  この第一次蒙古襲来が、どうやら破滅的事態にならずに済んだのは、元軍の指揮官たちが内部対立の末に撤退を決め、帰国途上の艦隊が台風に襲われたお陰である。元軍の圧倒的な軍事力に衝撃を受けた鎌倉幕府はその後、二度目の来寇に備え博多湾岸の二十キロメートルにわたり石塁を築造。元弘防塁である。 (中略)  郷土史家の説明を受け、石塁を眺めながら、司馬さんはこうつぶやく。  たかが二メートルの変哲もない石塁を築いて世界帝国の侵略軍を防ごうとしたのはまことに質朴というほかない。 (中略)  今津あたりは、流れついた元兵の水死体で浜がうずまったという。……もし蒙古塚とすれば、北アジアの草原にうまれた青年も、朝鮮半島や、湖沼の多い 江南の野からモンゴル人に強制されてやってきたひとびとの骨もむなしくそこにうずまっているにちがいない。    この〈たったひとりのフビライの意志と権力によって強行された〉二度にわたる日本侵略の企ては、結局、日漢朝蒙の四民族に合計十万からの死者を出し、誰にも何の益ももたらすことのないまま、終わったのである。(30-31頁)

司馬遼太郎「鎌倉武士興亡のみち 三浦半島」

令和元年、はじめての読書です。 「鎌倉武士興亡のみち 三浦半島  [神奈川県]」 芸術新潮編集部 [編]『司馬遼太郎が愛した「風景」』(とんぼの本)新潮社  鎌倉幕府の時代は、血なまぐさい。  武士という、京から見れば “奴婢(ぬひ) ”  のような階層の者が、思いもよらずに政権を得た。馴れぬこの政権に興奮し、結局は、他を排するために、つねに武力を用いた。   幕府樹立後、北条氏と権勢を二分した三浦氏は、頼朝の死後、北条氏の策謀によって徹底的に討滅される。三浦氏は当時の関東武士団の例にもれず、〈倫理に代わるべき廉恥という感覚を濃厚にもち、その生死はいかにもあざやかだった〉。北条氏との激しい戦いを繰り広げた末、負けを覚悟すると、一族で頼朝の墓所法華堂に集まった。    法華堂にあつまったのは……あわせて五百人だった。  ……堂内の正面に頼朝の画像をかけ、べつに騒ぐことがなく、追憶談なども出て、おだやかだったという。時がきて五百余人がいっせいに腹を切った。  それから八十六年後の元弘三年(一三三三)、新田義貞によって、鎌倉幕府は攻め滅ぼされる。ときの執権、北条時高は人望がなかった。それでも鎌倉方は奮戦した。ついに高時が葛西ヶ谷の東勝寺に籠もり、自害したとき、高時に従って、切腹した者は八七O人ほどだったという。 (中略)  昭和二十八年に行なわれた東大の発掘調査で、このときの戦死者と思われる骨が材木座からみつかった。わずか六十坪の土地から九一O体の骨が発掘されたという。  鎌倉で語るべきものの第一は、武士たちの節義というものだろう。ついでかれらの死についてのいさぎよさといっていい。こればかりは、古今東西の歴史のなかできわだっている。  が、それらは、博物館で見ることはできず、雨後、山道でも歩いて、碁石よりも小さなセピア色の細片でもみつけて感慨を持つ以外にない。 (49-52頁)

司馬遼太郎「歴史を二度転回させた風雲の海 壇ノ浦」

令和元年、はじめての読書です。 「歴史を二度転回させた風雲の海 壇ノ浦 [山口県下関市]」 芸術新潮編集部 [編]『司馬遼太郎が愛した「風景」』(とんぼの本)新潮社 このドラマティックな景観を持つ海は、日本史を劇的に転回させる大きな出来事の舞台となった。しかも二度も、である。  まずはいうまでもなく源平最後の合戦、壇ノ浦の戦。文治元年(一一八五)三月二十四日の夕刻、平家軍は、潮流を巧みに利用した源義経の作戦に敗れ、一門のほとんどは戦史・海没し滅亡する。この勝利によって関東武士団の覇権が確立し、中世の幕が上がった。壇ノ浦の海に面して建つ赤間神宮は、この戦いの際わずか八歳で亡くなった安徳天皇を祀り、境内には平家一門の墓と称する小さな石の墓標が並んでいる。  いまの赤間宮の建物や楼門(水天門)は以前にはなかった。昭和三十三年につくられた。「浪の下にも都のさぶらふぞ」と二位尼(補注・平清盛の妻。安徳帝の祖母)が幼年の帝をなだめてともどもにしずんだことから、設計者は少年の霊をあざむくまいと思い、その宮を竜宮造りにしたのにちがいない。こういう優しさというのはわるくはない。(「長州路」『街道をゆく 一』)(18-19頁)

「司馬流 “日本甲冑小史”」

令和元年、はじめての読書です。 「司馬流 “日本甲冑小史”」 芸術新潮編集部 [編]『司馬遼太郎が愛した「風景」』(とんぼの本)新潮社  平安時代の兜や鎧は、それまで(公地公民時代)のものとはまったく形態・色彩を異にし、かつ個々にも異をきそうようになった。単なる防禦用の目的を越えて華麗であったのは、懸命な “私” の表現だったからである。  かれらは戦場でいちいち名乗りをあげるようになったのだが、それは自分は他とちがうということでの叫びであった。  なにがちがうかといえば潔(いさぎよ)さがちがっていた。  所領への私的執着という泥くさいものを、潔さという気体のような倫理に転換させた。日本的倫理のふしぎさといっていい。  さらにその潔さを、甲冑の華やぎという造形的表現にも転換しているのである。執着をおさえこんでの名誉希求(潔さ)が、さらに変化して、甲冑でもっておのれの優美さを表現しようをしたのである。  猛(たけ)くはあるがこれほどわしは美しいぞ、ということの自己表現であった。  潔さの究極の表現が、戦場での死だった。華麗な甲冑は、自分の死を飾るものでもあった。(エッセイ「甲冑」以下同)(61-62頁)

TWEET「令和によせて」

 あらためて、「陸沈」です。 小林秀雄の随筆で知りました。「落語によく出てくる横町のご隠居」というほどの意味です。水に沈むのはやさしいことですが、水なき陸に沈むのはむつかしいことです。  平成の置き土産としてカヤックを注文したいま、水没するわけにはいかず、「陸沈」です。  昭和は遠くなりにけり、の感を抱いています。