須賀敦子「遠い霧の匂い」についての記述です。その六
平易な日本語、感情の表出に着目して、作品を読み直してみました。
「楽しかった」という感情表現が一度使われている以外には、須賀敦子さんの感情の表出を表す言葉はどこにも見当たりませんでした。そして、全文は平易な日本語で書かれています。直截的に喜怒哀楽を表現することによって、作品を規定してしまうのではなく、それらを行間に託し読者にあずけることによって、作品は深みのあるものになっているのだと思います。谷崎潤一郎のいう「含蓄」です。感受することにおいては、読者のそれは言葉をはるかに上回りますし、読者が何を考え何を思うかは、個々人の感性にしたがえばそれがすべてです。
須賀敦子さんは『遠い朝の本たち』ちくま文庫 の中で、
と書かれています。
「中学生になったばかりの」頃の回想です。
「いきなり現れ、去った文学者の残したもの」(104-105頁)
「現れた」のは「いきなり」のことだったのでしょうが、中学生の時から、須賀敦子さんの内では、光が当たる日に備えての準備が、着々となされていたのは間違いのないことであって、必然だったのだと思います。
須賀敦子『須賀敦子全集 第1巻』河出文庫
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