司馬遼太郎「倜儻不羈(てきとうふき)_その二」

「17 土佐の場合」
司馬遼太郎『この国のかたち 一(1986〜1987)』朝日文庫
「倜儻不羈(てきとうふき)」
 という漢語は、まことに異様な字面が四個もならんでいてなじみにくい。しかし江戸期の知識人のあいだでは、ごくふつうのことばだった。ある種の独創家、独志の人、あるいは独立性のつよい奇骨といった人格をさす。
 倜は “すぐれていて、拘束されないさま” で、儻は “志が大きくてぬきんでている” こと、羈は “馬を制御するたづな” 、不羈は “拘束されない” ということ。漢語としては紀元前から存在した。(もっとも、漢字にはときに同語反対義(アンビバレンス)があって、倜はスグレルという意味と、正反対のオロカという意味とがある。倜儻不羈の場合、世渡りからみればおろかともいえる)。
 早稲田大学をおこした大隈重信が、自分の出身藩である肥前佐賀藩(薩長土肥の肥)のガリ勉主義の藩風を『大隈候(伯)昔日譚』のなかでののしっている。
「一藩の人物を悉く同一の模型に入れ、為めに倜儻不羈の気象を亡失せしめたり」
 大隈がそのようになげいたように、肥は、全藩の師弟を組織して一種類の学制の中につめこみ、定期的に試験を施して、落第すれば先祖代々の家禄まで削るという、恐怖をもって一藩をかりたてた。しかも思想は朱子学というドグマで統一されていた。
 このおかげで多くの秀才を出すことになったが、倜儻不羈の気象を亡失させた、と大隈はなげくのである。かれが後年、早稲田の地に一私学をおこした動機は、この批判のなかにもある。

 この点、土は倜儻不羈の一手販売のような土地だった。
 元来、土佐人には風土的精神として拘束を好まないところがあった(むろん、すべての土佐人がそうであったというのではない)。
(中略)
「頑質」
 という用語も、江戸期、人格批評として、よく用いられた。頑固者などといえば一種の美質のようにきこえるが、たとえば長(ちょう)の吉田松蔭などは、門人を教える場合、これをマイナスの評価として用い、固定概念にとらわれて物や事が見えないおろかさという意味につかった。
 (中江)兆民の場合、世間や人間を見る場合、ことさらに自分の思想の小窓からのぞくことをせず、自分の思想にあわない人物も、そこに魅力を感ずればたかだかと評価した。かれは『民約論』の訳者ながら明治天皇を敬慕し、西郷隆盛を敬愛し、また官憲思想の俊才である井上毅(こわし)も好きであった。つまり倜儻不羈でありながら、頑質ではなかった。
 兆民が尊敬し、その生前を知っていた十二歳上の土佐人坂本龍馬も、この気質群の中の人だった。
(中略)
 ふと思うことだが、一介の浪人の力で薩長という二大雄藩の握手が可能なはずがない。発言の立脚点として、海援隊の勢力があったといっていい。
 さらにかれは役人にはならないということをつねづね語っていた。大政奉還という奇手が可能だったのも、かれが新政府に官職をもとめるということをせず、いわば無私になることができたからだ。無私の発言ほど力のあるものはない。まことに、倜儻不羈というほかない。
(196-202頁)