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TWEET「ほんの手遊びとはいえ」

 過去3か月間に、 木坂 涼「魚(うお)と空」の閲覧が、5101 回あった。また、過去30日間に、 3049 回の閲覧があった。そして、いまもなお読まれ続けている。 2018/06/26 木坂 涼「魚(うお)と空」 光村図書出版『国語 1』(70-71頁) 急降下。 鳥が 翼(つばさ)で 海を打つ。 鳥は もう摑(つか)んでいる。 波は 海のやぶれ目を ごまかしている 魚は 海を脱(ぬ)けでる 初めて そして たった一度だけ。 空の高見(たかみ)で もうひとつの空へ のまれる  「海のやぶれ目」の意味が解らない子どもたちが結構います。「もうひとつの空」とは、「彼岸」という意味なのでしょうか。  釣り上げた「ちびっこ(ブラック)バス君」を宙づりにすると、「キョトンとした顔つき」をしてぶら下がっていることがあります。はじめてふれた世界に何が起きたのかわからないのでしょう。「ちびっ子バス君」たちにとっては、手荒い洗礼です。水面とは、水中と空中を分かつ一枚のフィルムです。釣りとは、一枚のフィルムをはさんでの攻防です。 2018/09/03 「詩一篇_木坂 涼『魚(うお)と空』の閲覧数について」  2018/06/26 に、手遊びに書いた、 詩一篇_木坂 涼「魚(うお)と空」 の閲覧数が 100を越え、意外に思っています。   光村図書出版『国語 1』からの引用です。中学生諸君の閲覧なのでしょうか。毎日のように 読まれています。 過去 閲覧数の最も 多いブログは、 「小林秀雄が解釈する、本居宣長『敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花』」(2017/04/02) で、 総閲覧総数 32348 と、他を圧倒している。第2位が急伸の、 詩一篇_木坂 涼「魚(うお)と空」( 2018/06/26) で、 総閲覧総数 9944 .。第3位が、 小林秀雄「中原中也の思い出」(2017/08/110) で、 総閲覧数 1859 。第4位が同じく小林秀雄の、 中原中也「ああ、ボーヨー、ボーヨー」(2017/08/11) で、 総閲覧数 1821  となっている。  閲覧数上位のブログを、つらつらと眺めていると、硬派なブログで占められていることが見て取れる。私のブログ中の “古典” である。  しかし、「 詩一篇_木坂 涼『魚(うお)と空』」だけは解せない。ほんの “ 手遊び ”...

「山本空外『書論序観』_2/2」

山本空外「書論序観」 『墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社 「 僅か竹の一片ではあっても、その一本一本の竹質のさくさ、ねばさ、その他の加減等々を、そう削らなければ削りようもないほど、千変万化する竹質のそれぞれなりに生かしきっていく刀の冴えを拝見するわけである。それも名作は一応光ってはいるものの、その光に照らされるだけでなしに、自ら茶杓を削るなかに体験する悟入にもとづくのが本当のようである。また自ら行じなければ、何事でも半解に終るのではなかろうか。東洋の精神文化が行の文化として深まるゆえんを沈思しなければならない。  小刀と竹一本あっても茶杓は自ら作れるが、そのときただ自分勝手に削ったのでは、どうにもならないので、竹一本一本のもつ各各の性質を生かしきっていけるような刀の冴えかたのできるところに快心の作といえる。刀と竹の自他一如がそうした悟入の心の深さで支えられるわけで、前述の「無二性」にほかならない。あたかも筆と紙があれば書道は行ぜられるが、紙一枚一枚の新古各各の漉きかたにいたるまで生かしきっていく使筆でこそ無二的書道につながるので、その一点一畫の運筆のなかに無二的人間の形成が行ぜられること、茶杓を作る刀ごとにやはり無二的人間の形成が行ぜられるのと同様である。そこを拝見するわけで、席に入って始めに書幅を拝見しても、終りに茶杓の拝見しても、一貫してその作者の無二的人間の形成行に直参するところに本義があるとすれば、拝見する客自身もその拝見を通して無二的人間の形成を行ずるのでなければならない。そこに人生にも取りくめる本義が通ずるので、この本義から外れたのでは「道」でもなく、精神文化でもない。念仏にしても、木魚一つでもあれば、称名の声と木魚を撃つ音と主客一如になるところ、大自然のいのちを呼吸する心境は深まりうるわけで、いわばそうした心境において揮毫する場合にはこの筆、この紙の各各のいのちを生かすことになり、茶杓を作るときには、その竹のいのちを生かす刀の冴えかたが深まるわけである。ところが西洋人には竹の理解乏しく、古来筆紙も南無阿弥陀仏も木魚も考え出せなかった。  一人ひとりが一人ひとりなりに行じて、大自然を一人ひとりなりに生ていく文化、こうした精神文化の粋が書道なので、そこを白紙の上に墨一点にでも決めていくような精神文化は他に類がなかろう。...

洲之内徹「絵が絵であるとき」

  「男が階段を下るとき」 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社 「批評や鑑賞のために絵があるのではない。絵があって、言う言葉もなく見入っているときに絵は絵なのだ。何か気の利いたひと言も言わなければならないものと考えて絵を見る、そういう現代の習性は不幸だ」(166頁) 「今年の秋」 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社 「汗をかきながら興奮して撮影を続けていたMさんは、終ると、その間傍でただ呆んやり煙草をのんで眺めていた私に、 『取材はもういいんですか』 と、けげんそうに言った。そのとおりで、取材なんて面倒なことは、私は全然する気にならないのであった。美しいものがそこにあるという、ただそれだけでよかった」(90頁) 「秋田義一ともう一人」 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社 「最近では、九月に、旅行の帰途ふとその気になって倉敷へ寄ったとき、時間がなくて大原美術館だけ、それも本館と新館とを三十分ずつ駈足で見て廻ったが、こういう見方にも思い掛けぬ面白さがあって、特に日本人の画家のものを並べた新館では、その一人一人の画家について従来いろいろと語られている美術史家や批評家の言葉を超えたその向こうに、その画家の存在はあるのだということを、なぜかしらないが、私は強く感じた。 (中略)  私は更に、日本人の油絵は、岸田劉生だろうと萬鉄五郎だろうと小出楢重だろうと安井曾太郎だろうと川口軌外だろうと鳥海青児だろうと松本竣介だろうとその他誰であろうと、みんな共通して、われわれ日本人のある切なさのようなもの、悲しみのようなものを底に持っている、と思った」(296頁) 「いまなぜ洲之内徹なのか」 下記の白洲正子の文章が発端となった。 「さらば『気まぐれ美術館』洲之内徹」 白洲正子『遊鬼』新潮文庫 「小林(秀雄)さんが洲之内さんを評して、「今一番の評論家だ」といったことは、週刊誌にまで書かれて有名になったが、 (中略)  だが、小林さんの言葉は私がこの耳で聞いたから確かなことなので、一度ならず何度もいい、その度に「会ったことないの?」と問われた。  変な言いかただが、小林さんは「批評」というものにあきあきしており、作者の人生と直結したものでなくては文学と認めてはいなかったのである。小林さんだけでなく、青山二郎さんも、「芸術新潮では洲之内しか読まない」と...

「山本空外_では書は信用であるか」

  「書論各観の光はその心の深さにしか照応しない。したがって外観のよさと内面の心光とは、どこまでも混合してはならないし、あくまで別のものである。そのことを書ほどきびしく示すものが他にあるであろうか。書をかけば、そのことはまったく一目瞭然なのである。自己とは何かをいかに論議しても、またそれに関する研究書をどれほど読破しても、決まるものではない。わたくし自身その問題を東大の哲学科卒業論文(『カント及び現代のドイツ哲学における認識主観の意義』大正十五年三月)でも取りくんだし、以後今日まで約六十年も専攻し来ったが、それよりも書を見るほうが、よほどはっきりと書いたひとの心もわかり、自分の書を前にすれば自己の心を鏡に写したようなものと感ずる。生きた心の芸術として書以上のものはなかろう。終生自己の問題に哲学上取りくみ来ったわたくしは、心の宗教として念仏で一生をとおし、また自己の心を原点にする書芸術を久しく行ずるゆえんである」( 『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社  39-40頁) 「良寛和尚のごとき、外見はいかにも平凡のようでも、心は深く永遠の光に照らされている証拠をその墨蹟が物語っている」(『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 55頁) 「良寛の道詠に   草の庵ねてもさめても申すこと   南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 とあるが、良寛の筆致に見入るほどわたくしは「無縁の慈」の深みに感応する」 (『墨美 山本空外 ー 書と書道観(二)1973年6月号 No.231』墨美社 10頁) 「良寛の書のごときは、そうした「大慈悲」の書でもあり、この前に立つものをして、「無縁の慈をもって、もろもろの衆生を摂するなり」といえないであろうか。「仏心とは大慈悲なり」という、その仏心こそ主・客の無二を呼吸する、いのちのつながりの原点であるからである。その原点に立つ書論各観でなければ、生ける書とはいえない」 ( 『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 41頁) 「かの『淳化閣帖』中の蕭子雲の書(「歴代名臣法帖第四」)を見ていても、時のたつのも忘れて自然の心に迫って際限ないものに感応する」 『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 50頁) 「では美...

木田元「小林秀雄の言語観」

木田元「小林秀雄の言語観」 第十二章 言葉について 木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』文藝新書 ランボオの「千里眼」  ランボオの言語観がそのまま小林秀雄のそれだということにはならないであろうが、その傾倒ぶりからすれば、いちおうそう考えておいてもよいのではなかろうか。(183頁)  然(しか)し、彼(ランボオ)自身が否定しようがしまいが、彼の「言葉の錬金術」からは、正銘の金が得られた。その昔、未だ海や山や草や木に、めいめいの精霊が棲んでいた時、恐らく彼等の動きに則(のっと)って、古代人達は、美しい強い呪文を製作したであろうが、ランボオの言葉は、彼等の言葉の色彩や重量にまで到達し、若(も)し見ようと努めさえするならば、僕らの世界の至る処に、原始性が持続している様を示す。僕等は、僕等の社会組織という文明の建築が、原始性という大海に浸っている様を見る。「古代の戯れの厳密な観察者」ーー厳密という言葉のマラルメ的意味を思いみるがよい。(同前(「全作品」15『モオツァルト』所収)、一三九ページ)(184-185頁) 『本居宣長』の「言霊」  小林秀雄は、最後の大仕事『本居宣長』においては、この「古代の戯れ」を「言霊(ことだま)」と呼んでいる。 (中略) ここでも、宣長の言語感と小林のそれとを区別する必要はあるまい。(187頁)  言語は、本質的に或る生きた一定の組織であり、この組織を信じ、組織の網の目と合体して生きる者にとっては、自由と制約との対立などないであろう。この事実を、彼(宣長)は、「いともあやしき言霊のさだまり」と言ったのだ……。(同前(「全作品」28『本居宣長(下)』所収「本居宣長補記 Ⅱ」、三0一ページ)  ランボオが「千里眼」によって透視しようとしていたものも、つまり「原始性」であり、「古代の戯れ」であり、言葉そのものの自己分節であり、自己組織化であるものがそのまま存在の自己分節になり自己組織化になるような、そうした「言葉の錬金術」と、宣長のいう「言霊の営み」とを、小林秀雄が重ね合わせて考えようとしていることは明らかであろう。  私にはこの小林の言語観と、先ほど見たハイデガーのそれとに深く通い合うものがあるように思えてならないのだ。(188-189頁)  木田元の手腕はみごとである。核心に分け入るものだった。  そして、井筒俊彦が、「存在はコトバである」と措...

小林秀雄「国語伝統の底流」

小林秀雄『本居宣長 (上)』新潮文庫 「宣長が注目したのは、国語伝統の流れであった。才学の程が、勅撰漢詩集で知られるという事になっては、和歌は、公認の教養資格の埒外(らちがい)に出ざるを得ない。極端な唐風模倣という、平安遷都とともに始まった朝廷の積極的な政策が、和歌を、才学と呼ばれる秩序の外に、はじき出した。しかし、意識的な文化の企画には、言わば文化地図の塗り替えは出来ても、文化の内面深く侵入し、これをどうこうする力はない。生きて行く文化自身の深部には、外部から強いられる、不都合な環境にも、敏感に反応して、これを処する道を開いて行く自発性が備っている。そういう、知的な意識には映じにくい、人々のおのずからな知慧が、人々の共有する国語伝統の強い底流を形成している。宣長はそう見ていた」(321-322頁) 「言語伝統は、 其処に、音を立てて流れているのだが、これを身体で感じ取っていながら、意識の上に、はっきり描き出す事が出来ずにいる。言語は言霊という自らの衝動を持ち、環境に出会い、自発的にこれに処している。事物に当って、己れを験し、事物に鍛えられて、己れの姿を形成しているものだ。」( 322頁) 「言霊」という言葉は万葉歌人によって、初めて使い出されたものだが、「言霊のさきはふ 国」とか、「言霊のたすくる国」とかいう風に使われているので明らかなように、母国の 言葉という意識、これに寄せる歌人の鋭敏な愛着、深い信頼の情から、先ずほころび出た言葉である事に、間違いない。」 ( 322頁) 「言語は、本質的に或る生きた一定の組織であり、この組織を信じ、組織の網の目と合体して生きる者にとっては、自由と制約との対立などないであろう。この事を、彼(宣長)は、「いともあやしき言霊のさだまり」と言ったのだが、この言語組織の構造に感嘆した同じ言葉は、その発展を云々する場合にも、言えた筈である。」 ( 323頁)  宣長の見識を、小林秀雄が 達意の文で綴った 。それは以下の、 レオ・ヴァイスゲルバーが命名した、 「言語共同体の法則」と同等の内容のものである。 若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 「レオ・ヴァイスゲルバーは井筒俊彦が深い関心を寄せた二十世紀ドイツの言語学者である」(222頁) 「ヴァイスゲルバーは、人間と母語の関係に着目する。母語が世界観の基盤を形成し、誰もこ...

「小林秀雄『本居宣長 (下)』_生死の問題」

  「小林秀雄『本居宣長 (下)』_生死の問題」 「私達は、史実という言葉を、史実であって伝説ではないという風に使うが、宣長は、「正実(マコ ト)」という言葉を、伝説の「正実(マコト)」という意味で使っていた(彼は、古伝説(イニシヘノツタヘゴト)とも古伝説(コデンセツ)とも書いている)。「紀」よりも、「記」の方が、何故、優れているかというと、「古事記伝」に書かれているように、ーー「此間(ココ)の古ヘノ伝へは然らず、誰云出(タガイヒイデ)し言ともなく、だゞいと上ツ代より、語り伝へ来つるまゝ」なるところにあるとしている。文字も書物もない、遠い昔から、長い年月、極めて多数の、尋常な生活人が、共同生活を営みつつ、誰言うとなく語り出し、語り合ううちに、誰もが美しいと感ずる神の歌や、誰もが真実と信ずる神の物語が生まれて来て、それが伝えられて来た。この、彼のいう「神代の古伝説」には、選録者は居たが、特定の作者はいなかったのである。宣長には、「世の識者(モノシリビト)」と言われるような、特殊な人々の意識的な工夫や考案を遥かに超えた、その民族的発想を疑うわけには参らなかったし、その「正実(マコト)」とは、其処に表現され、直かに感受出来る国民の心、更に言えば、これを領していた思想、信念の「正実(マコト)」に他ならなかったのである」(145頁)  最終章「五十」は、生死(しょうじ)の問題についての話題である。 「既記の如く、道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定(けつじょう)して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていたが、これに就いての、はっきりした啓示を、「神世七代」が終るに当って、彼は得たと言う。ーー「人は人事(ヒトノウへ)を以て神代を議(はか)るを、(中略)我は神代を以て人事(ヒトノウへ)を知れり」、ーーこの、宣長の古学の、非常に大事な考えは、此処の注釈のうちに語られている。そして、彼は、「奇(アヤ)しきかも、霊(クス)しきかも、妙(タヘ)なるかも、妙(タヘ)なるかも」と感嘆している。註解の上で、このように、心の動揺を露わにした強い言い方は、外には見られない。  宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だったわけだが、宗教を言えば、直ぐその...

小林秀雄「本居宣長の源氏物語論」

小林秀雄「本居宣長の源氏物語論」 小林秀雄『本居宣長 (上)』新潮文庫 「宣長が、思い切ってやってのけた事は、作者(紫式部)の「心中」に飛込み、作者の「心ばへ」を一たん内から摑んだら離さぬという、まことに端的な事だった。宣長は、「源氏」を精しく読もうとする自分の努力を、「源氏」を作り出そうとする作者の努力に重ね合わせて、作者と同じ向きに歩いた」(184頁)  また、小林秀雄の本居宣長に対する態度は、宣長の声に無心に耳を傾けることであった。そしてそれはそのまま、小林秀雄が、読者である私たちに付託した姿勢でもある。 「彼(本居宣長)の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。「此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるより外の儀なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし」(紫文要領、巻下)(153頁) 「生きた情(ココロ)の働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損なわず保持して行く事が難しいというところにある。難しいが、出来ることだ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである。彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝趣味の描写ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった」(154頁) 「彼(本居宣長)の言う「あはれ」とは広義の感情だが、なるほど、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かない、とは言えるが、説明や記述を受附けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」事、即ち「物のあはれを知る」事とを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。これに基いて、彼は光源氏を、「物のあはれを知る」という意味を宿した、完成された人間像と見たわけであり、この、言語による表現の在るがままの姿が、想像力の眼に直視されている以上、この像の裏側に、何か別...

白洲正子「北京の空は裂けたか 梅原龍三郎」

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 初診の日から10日経ち、一昨日の午前中「冨安眼科」さんへ行った。  視神経からの出血はみ られなくなりました、とのお話で、胸をなで下ろした。「 飛蚊症(ひぶんしょう)」による影が、 小さく薄くなった。止血用の錠剤は飲み切りで、炎症を抑える点眼薬だけ が処方された。次回の受診は、2週間後の 2024/02/27 である。  影といえば、梅原龍三郎の「雲中天壇」を思い出す。影がないのである。 ◇ 白洲正子『遊鬼 ー わが師 わが友 ー』新潮社 「北京の空は裂けたか 梅原龍三郎」 で知った。三十年あまりも前のことである。   梅原龍三郎「雲中天壇」 (1939年 京都国立近代美術館蔵)   たとえば 光と影のような、対照を成す二者が補償し合い、もの・ことは 調和する。均衡を欠く「天壇」と飛翔しているかのようなひと群れの雲雲と相俟って、影を伴うことなく鮮やかな色彩だけが一人歩きする。そこに「僕等」は不安を覚える。 「僕等の不安とは、すなわち梅原さんが感じていた不安に他ならない」(165頁)と白洲正子はいう。「梅原さんは、一代で油絵を日本の風土に同化させなくてはならない。そういう宿命を天から授かった人だ。(中略)その孤独で性急な仕事ぶりは、ゆっくり不安など味わう余裕もなかったであろう。変な言い方だが、正しくそういう所に梅原さんの不安がひそんでいた。(中略)憧憬や悦楽は、陶酔を生むかも知れないが、幸福には到達しない。幸福とは、強引につかみとるものではなく、どこからともなく静かにおとずれる神の恩寵ではあるまいか 」(165-166頁)    ここには、小林秀雄の文が引用されている。明示されてはいないが、「北京秋天」について書かれた文章であろう。     梅原龍三郎「北京秋天」 (東京国立博物館蔵) 「もし、あの紺碧の空に穴を穿ち、向う側にあるものが見られるなら、どんな視覚の酷使も厭ふまい」 「かういふ飽くまでも明るい色彩は、僕等を不安にする何物かを含んでゐる。僕等は、言つてみれば、熱線を伴はぬ短波の光を浴びて、恍惚境にゐるのだが、どうも幸福境にはゐない様である。その辺りがルノアールとは異なるところだ。天は果して裂けるであらうか」(165頁)  こうした文は全体、どうして成るのだろうか。  気の遠くなるような時間を絵の前で過ごし、言葉が生まれるのを待つ。また、小...

柳田國男「小屋の口一ぱいに夕日がさして居た」

小林秀雄「信ずることと知ること」 小林秀雄『人生について』中公文庫  柳田さんの話になったので、ついでにもう一つお話ししましょう。柳田さんに「山の人生」という本があります。山の中に生活する人の、いろいろな不思議な経験を書いている。その冒頭に、或る囚人の話を書いている。それを読んでみます。 「今では記憶して居る者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であつた年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斫(き)り殺したことがあつた。  女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あつた。そこへどうした事情であつたか、同じ歳くらゐの小娘を貰つて来て、山の炭焼小屋で一緒に育てゝ居た。 其(その)子たちの名前はもう私も忘れてしまつた。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかつた。最後の日にも空手で戻つて来て、飢ゑきつて居る小さい者の顔を見るのがつらさに、すつと小屋の奥へ入つて昼寝をしてしまつた。  目がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であつたと謂ふ。二人の子供がその日当りの処にしやがんで、頻りに何かして居るので、傍へ行つて見たら一生懸命に仕事に使ふ大きな斧を磨いて居た。阿爺(おとう)、此(これ)でわしたちを殺して呉れと謂つたさうである。さうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たさうである。それを見るとくらくら(表記は「くの字点」です)として、前後の考も無く二人の首を打落してしまつた。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕へられて牢に入れられた」 「山の人生」は大正十四年に書かれているが、その当時の思い出が「故郷七十年」の中で語られている。明治三十五年から十余年間、柳田さんは法制局参事官の職にあって、囚人の特赦に関する事務を扱っていたが、この炭焼きの話は、扱った犯罪資料から得たもので、これほど心を動かされたものはなかったと言っている。「山に埋もれた人生」を語ろうとして、計らずも、この話、彼に言わせれば、「偉大なる人間苦の記録」が思い出されたというわけだったのです。(240-241頁)  子どもたちの姿は終始静かである。 「みんなと一緒に生活して行く為には、先ず俺達が死ぬのが自然であろう。自然人の共同生活のうちで、幾万年の間磨かれて本能化したこの...

柳田國男「その時鵯が高空で、ぴいッと鳴いた」

  小林秀雄「信ずることと知ること」 小林秀雄『人生について』中公文庫 「その時鵯が高空で、ぴいッと鳴いた。その鵯の声を聞いた時に、はっと我に帰った。そこで柳田(國男)さんはこう言っているのです。もしも、鵯が鳴かなかったら、私は発狂していただろうと思う、と。  私はそれを読んだ時、感動しました。柳田さんという人が分ったという風に感じました。鵯が鳴かなかったら発狂したであろうというような、そういう柳田さんの感受性が、その学問のうちで大きな役割を果たしている事を感じたのです。柳田さんには沢山の弟子があり、その学問の実証的方法は受継いだであろうが、このような柳田さんが持って生れた感受性を受継ぐわけにはまいらなかったであろう。それなら、柳田さんの学問には、柳田さんの死とともに死ななければならぬものがあったに違いない。そういう事を、私はしかと感じ取ったのです。」(238頁) 「柳田さんは、後から聞いた話だと言って、おばあさんは中風になって寝ていて、いつもその蠟石を撫でまわしていたが、お孫さんが、おばあさんを祀るのなら、この珠が一番よろしかろうと考えて、祠に入れてお祀りしたと書いている。少年が、その珠を見て怪しい気持ちになったのは、真昼の春の空に星のかがやくのを見たように、珠に宿ったおばあさんの魂を見たからでしょう。柳田さん自身それを少しも疑ってはいない。疑っていて、こんな話を、「ある神秘な暗示」と題して書ける筈がないのです。」(238-239頁) 「尤も、自分には痛切なものであったが、こんな出来事を語るのは、照れ臭かったに違いない。だから、布川時代の思い出は、「馬鹿々々しいといふことさへかまはなければ、いくらでもある」と断って、この出来事を語っている。こういう言い方には、馬鹿々々しいからと言って、嘘だとは言えません、という含みがあります。自分は、子供の時に、一と際違った境遇に置かれていたのがいけなかったのであろう、幸いにして、其後実際生活の上で苦労をしなければならなくなったので、すっかり布川で経験した異常心理から救われる事が出来た、布川の二年間は危かった、と語っている。」(239頁) 「自分が確かに経験したことは、まさに確かに経験した事だという、経験を尊重するしっかりした態度を現したものです。自分の経験した直観が悟性的判断を越えているからと言って、この経験を軽んずる理...

TWEET「眠れぬ夜は」

 いま 忌明け後にやることを、忌明け前にやらされています。当地を離れるしかなく、そのタイミングを見計らっています。  あいにくにも台風 2号が近づきつつあり、また北朝鮮がミサイルを発射したらしく、この先の行方は不明です。 ◆ 青色の文字列にはリンクが張ってあります。クリック(タップ)してご覧ください。 小林秀雄「国語伝統の底流」

TWEET「病気療養中につき_39」

小林秀雄「もう終りにしたい 」 小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫 「考えをめぐらしていると、「歌の事」という具象概念は、詮ずるところ、「道の事」という抽象概念に転ずると説く理論家宣長ではなく、「歌の事」から「道の事」へ、極めて自然に移行した芸術家宣長の仕事の仕振りに、これ亦極めて自然に誘われる。『直毘霊(ナホビノミタマ)(古道論)』の仕上りが、あたかも「古典(フルキフミ)」に現れた神々の「御所為(ミシワザ)」をモデルにした画家の優れたデッサンの如きものと見えて来る。「古事記」を注釈するとは、モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを、画家の眼は追い、これを鉛筆の握られたその手が追うという事になる。言わば、「歌の事」が担った色彩が昇華して、軽やかに走る描線となって、私達の知覚に直かに訴える。私は、思い附きの喩(たとえ)を弄するのではない。寛政十年、「古事記伝」が完成した時に詠まれた歌の意(ココロ)を、有りのままに述べているまでだ。ーー   「九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題 披書視古    古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし」(325-326頁) 「概念」を極端に悪んだ宣長にとって、「『歌の事』という具象概念」から「『道の事』という抽象概念」へという飛躍は、及びもつかないことだった。 「歌の事」のことを「熟視」することによって、いつしかそれらは純化され、宣長はそこに、自ずからなる「道の事」をみた。  ここに、四十四巻から成る、三十五年の歳月を費やし、意を尽くした、『古事記伝』の完成をみた。 『本居宣長』の掉尾には、 「もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頼りだからだ。」(253頁) との記述があり、また、「本居宣長補記」の末尾には、 「もうお終いにする。」(368頁) の一文が見受けられる。  これらは小林秀雄の、精一杯の尽力後の、ため息混じりの言葉であろう。

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「小林秀雄『本居宣長 (下)』_生死の問題」 「私達は、史実という言葉を、史実であって伝説ではないという風に使うが、宣長は、「正実(マコト)」という言葉を、伝説の「正実(マコト)」という意味で使っていた(彼は、古伝説(イニシヘノツタヘゴト)とも古伝説(コデンセツ)とも書いている)。「紀」よりも、「記」の方が、何故、優れているかというと、「古事記伝」に書かれているように、ーー「此間(ココ)の古ヘノ伝へは然らず、誰云出(タガイヒイデ)し言ともなく、だゞいと上ツ代より、語り伝へ来つるまゝ」なるところにあるとしている。文字も書物もない、遠い昔から、長い年月、極めて多数の、尋常な生活人が、共同生活を営みつつ、誰言うとなく語り出し、語り合ううちに、誰もが美しいと感ずる神の歌や、誰もが真実と信ずる神の物語が生まれて来て、それが伝えられて来た。この、彼のいう「神代の古伝説」には、選録者は居たが、特定の作者はいなかったのである。宣長には、「世の識者(モノシリビト)」と言われるような、特殊な人々の意識的な工夫や考案を遥かに超えた、その民族的発想を疑うわけには参らなかったし、その「正実(マコト)」とは、其処に表現され、直かに感受出来る国民の心、更に言えば、これを領していた思想、信念の「正実(マコト)」に他ならなかったのである」(145頁)  最終章「五十」は、生死(しょうじ)の問題についての話題である。 「既記の如く、道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定(けつじょう)して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていたが、これに就いての、はっきりした啓示を、「神世七代」が終るに当って、彼は得たと言う。ーー「人は人事(ヒトノウへ)を以て神代を議(はか)るを、(中略)我は神代を以て人事(ヒトノウへ)を知れり」、ーーこの、宣長の古学の、非常に大事な考えは、此処の注釈のうちに語られている。そして、彼は、「奇(アヤ)しきかも、霊(クス)しきかも、妙(タヘ)なるかも、妙(タヘ)なるかも」と感嘆している。註解の上で、このように、心の動揺を露わにした強い言い方は、外には見られない。  宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だったわけだが、宗教を言えば、直ぐその内容を成す教義...

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本居宣長「息を殺して、神の物語に聞き入る」 小林秀雄『本居宣長 (下)』 「新潮文庫 「彼(本居宣長)にとって、本文の註釈とは、本文をよく知る為の準備としての、分析的知識ではなかった。そのようなものでは決してなかった。先ず本文がそっくり信じられていないところに、どんな註釈も不可能な筈であるという、略言すれば、本文のないところに註釈はないという、極めて単純な、普通の註釈家の眼にはとまらぬ程単純な、事実が持つ奥行とでも呼ぶべきものに、ただそういうものだけに、彼の関心は集中されていた。神代の伝説に見えたるがままを信ずる、その信ずる心が己れを反省する、それがそのまま註釈の形を取る、するとこの註釈が、信ずる心を新たにし、それが、又新しい註釈を生む。彼は、そういう一種無心な反復を、集中された関心のうちにあって行う他、何も願いはしなかった。この、欠けているものは何一つない、充実した実戦のうちに、研究が、おのずから熟するのを待った。そのような、言わば、息を殺して、神の物語に聞入れば足りるとした、宣長の態度からすれば、真淵の仕事には、まるで逆な眼の使い方、様々ないらざる気遣いがあった、とも言えるだろう」(197-198頁)  宣長にとって「神代の伝説」をよく知ることと、信仰の境地が深まることは同時進行だった。それは宣長にとって切実な問題であり、喜びでもあった。 「之を好み信じ楽しむ(好信楽) 」とは、宣長の学問に対する生涯変わらぬ態度だった。 「無心」とは「無私な心」と言い換えることができよう。 「小林秀雄」には、皆さん興味がないらしく、閲覧数が驚異的に少なくなり、すてきです。しかし私にとっては、「病気療養中」に「小林秀雄」の文章に触れることは、至福の時、自足の時間となっている。  今日、「佐井皮フ科」さんに行った。後遺症の帯状疱疹後神経痛が治るには、6か月かかるかもしれませんね、 梅雨時には痛くてつらいですよと、佐井先生にいわれました。  微熱が続いているため、叔父にさんざんいわれ、明日は、「杉浦内科」さんを受診する予定です。 「病気療養中につき」から、いつ解放されるのか、刺激的で、興味は尽きません。

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 通読することを旨 とする。初読後、間もなく再読、と決めてから、積読するままになっていた大部の作品を読み、また理解するようになった。その代表例が、 ◇ 小林秀雄『本居宣長 (上,下)』新潮文庫 である。 初読、また再読に 25日を要した。特に初読は困難な道のりだった。立ち止まり、耳を澄ませて待つことを覚えた。貴重な読書体験だった。  ここに、四十四巻から成る、三十五年の歳月を費やし、意を尽くした、『古事記伝』の完成をみた。    九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題 披書視古    古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし  また、小林秀雄は、『本居宣長』を、昭和四十(1965)年、六十三歳の夏から雑誌『新潮』に十一年あまりにわたって連載した。その後一年をかけて推敲し出版した。小林秀雄は、十二年を超える歳月をかけて、本居宣長と対峙した。  これらの歳月を思えば、25日はかすんで見える。恥いるばかりである。 「稗田阿礼の『声』と本居宣長の『肉声』と、また小林秀雄と井筒俊彦と」 小林秀雄『本居宣長 上』新潮文庫 「宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う」(24頁) 『本居宣長をめぐって』 小林秀雄 / 江藤 淳 小林秀雄『本居宣長 下』新潮文庫 小林  それでいいんです。あの人(本居宣長)の言語学は言霊学なんですね。言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る。肉声だけで足りた時期というものが何万年あったか、その間に言語文化というものは完成されていた。それをみんなが忘れていることに、あの人(本居宣長)は初めて気づいた。これに、はっきり気付いてみれば、何千年の文字の文化など、人々が思い上っているほど大したものではない。そういうわけなんです。(388頁) (中略) 江藤  宣長は『古事記』を、稗田阿礼が物語るという形で、思い描いているのですね。『古事記』を読んでいる宣長の耳には、物語っている阿礼の声が現に聞えている。(391頁)  また、『本居宣長』は、小林秀雄の「肉声」が、活字の体裁をとったものである。本居宣長は、稗田阿礼の「声」を聞き、小林秀雄は、本居宣長の「肉声」...

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「ぜいたくなたのしみ」 白洲正子,牧山桂子 ほか『白洲正子と歩く京都』新潮社 この春はお花見に京都へ行った。あわよくば吉野まで足をのばしたいと思っていた。ところが京都へ着いてみると、ーー 私はいつもそうなのだが、とたんにのんびりして、外へ出るのも億劫になり、昼は寝て夜は友達と遊んですぎてしまった。花など一つも見なかったのであるが、お天気のいい日、床の中でうつらうつらしながら、今頃、吉野は満開だろうなあ、花の寺のあたりもきれいだろう、などと想像している気持は、また格別であった。 「皆さん同じことどす」といって、宿のおかみさんは笑っていた。二、三日前には久保田万太郎さん、その前日は小林秀雄さんが泊っていて、皆さんお花見を志しながら、昼寝に終ったというのである。  京都に住むHという友人などもっとひどい。庭に桜の大木があるが、毎年花びらが散るのを見て、咲いたことを知るという。千年の昔から桜を愛し、桜を眺めつづけた私たちにはこんなたのしみ方もあるのだ。お花見は見渡すかぎり満開の、桜並木に限らないのである。(「お花見」より抜粋)(70頁) 花に誘われ京へ、そして木も見ず森も見ず、「皆さん同じことどす」と、昼寝を決めこむとは、飛び抜けていて、すてきです。

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「小林秀雄氏」 白洲正子『夢幻抄』世界文化社  そんなことを考えていると、色んなことが憶い出される。はじめて家へみえたとき、 ー その頃は未だ骨董の「狐」が完全に落ちてない時分だったが、「骨董屋は誰よりもよく骨董のことを知っている、金でいえるからだ」という意味のことをいわれた。私にはよくのみこめなかったが、少時たって遊びに行ったとき、沢山焼きものを見せられ、いきなり値をつけろという。 「あたし、値段なんてわかんない」 「バカ、値段知らなくて骨董買う奴があるか」  そこで矢つぎ早に出される物に一々値をつけるハメになったが、骨董があんなこわいものだとは夢にも知らなかった。その頃小林さんは、日に三度も同じ骨董屋に通ったという話も聞いた。  あるとき、誰かがさんざん怒られていた。舌鋒避けがたく、ついに窮鼠猫を嚙むみたいに喰ってかかった。 「僕のことばかし責めるが、じゃあ一体、先生はどうなんです?」 「バカ、自分のことは棚に上げるんだ!」  最近はその舌鋒も矛(ほこ)をおさめて、おとなしくなったと評判がいい。(15-26頁)   今日は、「エープリルフール」,「四月馬鹿」である。しかしこれは、いつの時も真実である。

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小林秀雄『人生について』中公文庫 「年齢のせいに違いないが、年をとっても青年らしいとは、私には意味を成さぬ事とも思われる」(177頁) 岡潔『春宵十話』角川ソフィア文庫 「情操が深まれば境地が進む。これが東洋的文化で、漱石でも西田幾多郎(にしだきたろう)先生でも老年に至るほど境地がさえていた」(36頁)  老いが若さに優るのは、まず健康体であってのことである。老いぼれることは、ぜひ慎まなければならない。

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 2023/03/10「Facebook」を書きはじめました。  同姓同名の方がいて、よく間違えられますので 、「Facebook」さんのお世話になることにしました。   2023/03/19 には、  私のブログ中の、洲之内徹さんの文章、また洲之内さんについての話題のすべてを載せました。  そして、小林秀雄 の文章、また小林秀雄に関する話題のすべてを載せようと思っていましたが、昨夜 途中で断念しました。  所詮、「Facebook」は、私の住めるような場所ではないことが、次第にわかってきました。  いまも微熱があり、寝たり起きたりの生活をしています。起きているときの手持ち無沙汰も手伝って、「Facebook」に文章を載せ続けてきましたが、それもこれで終わりにします。遅きに失した感を抱いています。  61歳になり、殊更 今年になり、虚弱体質になりました。加齢だけではすまないものを感じています。  TWEET「病気療養中につき」が続きます。 追伸:「お友達の要請」は、すべてお断りすることに決めました。悪しからず。