須賀敦子「翻訳という世にも愉楽にみちたゲーム」その三
一語一語に目配りし、気を配り、一言一句を丁寧に丁寧にひもとき、日本語に置きかえていく翻訳という読書は、同じ「精読」という範疇に属する読書法の中でも、その最たるものだと思います。お気に入りの作家のお気に入りの作品を微に入り細にわたって味わい尽くすわけですから、そこに自ずから「愉楽」が生まれることは容易に想像がつきます。翻訳には、原文に添ってという制約こそありますが、その後は翻訳者の裁量如何であって、翻訳者の表現の自由は、その制約をはるかに超えるものです。主導権は翻訳者の手にあって、翻訳者の如何が作品の出来を決めるのであって、そこにはゲーム性が認められます。そして何よりも、お気に入りの作家のお気に入りの作品を翻訳することによって、日本の読者のもとに届けたい、日本の読者と感動を分かち合いたい、感動を分かち合えると、想像しただけでも、翻訳という読書は、じゅうぶんに「愉楽にみち」たものになり得るのだと思います。
翻訳とは無縁の世界にいる私が、想像して書いたものです。何かありましたら、そのときにはまた手を加えたいと思っています。
須賀敦子『ミラノ 霧の風景』白水uブックス