小林秀雄「梅原さんの言葉は絵なんだ」
「北京の空は裂けたか 梅原龍三郎」
白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫
ーーある日、吉井さんが、梅原さん(九十代半ば)のお宅へ行くと、先生はこんなことをいわれた。
それについて思い出すのは、四月に出版された「新潮」の「小林秀雄追悼記念号」に、吉井画廊の吉井長三さんが書いている話である。
「今朝起きたら、バラの花がとても美しかった。それで、十五号のカンバスにさらっと描いてみたが、一寸(ちょっと)いいのが出来た。絵具がまだぬれてるので、そこに裏返しにして立て懸けてあるから、よかったら見給(たま)え」
そこで吉井さんは探してみたが、そんな絵はどこにもない。先生は勘違いをされていたのである。その話を小林さんにすると、吉井さんは叱(しか)られた。
「絵は、実際には描いてなかったって? だから何なのだ。勘違いが、おかしいか。…お前はな、それは、大変なことを聞いているんだぞ。判(わか)るか。梅原さんは、行住座臥(ざが)、描いているんだ。筆を持たなくたっても、描いているんだ。常に描いているから勘違いもする。…だいたい、梅原さんの言葉は、もう言葉でない。絵なんだ。言葉が絵なんだ」から、君は大事に聞いて、記録しておけ、といわれたそうである。
小林さんが昂奮(こうふん)している様子が目に見えるようだが、私もこの文章を読んだ時は感動した。(187-188頁)