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TWEET「大野晋に “御足労”を乞う」

「御足労」,「御苦労」の混同・誤謬を、時折 見かける。 昨日も眼にした。  以下、「御足労」の意である。 『精選版 日本国語大辞典_iOS アプリ』 ご‐そくろう ‥ソクラウ【御足労】 〘名〙 (「ご」は接頭語) 相手を敬って、その人にわざわざ来てもらったり、行ってもらったりすることをいう語。 *錦木(1901)〈柳川春葉〉九 「然うでしたか、其は何とも御足労ゴソクラウでした」 これを機に、以下、「再掲」です。 TWEET「精選版 日本国語大辞典_iOS アプリ」 2022/08/01  もう10年ほど前になるのだろうか。興味本位で電子辞書を買ったが、一覧性に欠け、不自由で、間もなくさしあげてしまった。  カシオの電子辞書には、 ◆「 精選版 日本国語大辞典」小学館  が収録されていて、魅力的だったが、購入するまでにはいたらなかった。  2017/01/17 に、 ◆「精選版 日本国語大辞典」(iOS アプリ) が、リリースされた。発売当初には破格のお値段だった、と知り、また購入したのは、2020/02/23 のことだった。8000円だった。だいぶ出遅れた感を抱いた 。 ◆ 『精選版 日本国語大辞典(紙)』小学館 は、3分冊の大部な辞書で、各冊 16500円の定価がついている。 なお、 ◆『日本国語大辞典(紙)』小学館 は、13巻と別巻1冊からなり、 各巻 16500円である。  その後、間もなく、 ◆「日本語シソーラス 第2版」 (iOS アプリ) ◆「角川類語辞典」 (iOS アプリ) ◆「三省堂 類語新辞典」 (iOS アプリ) をインストールした。作文には、言葉をさがし、言葉を言い換えるために、類語辞典(シソーラス)が不可欠である。  なお、上から三つのアプリは、「物書堂」さんの仕事であり、同じアプリ(「辞書 by 物書堂」)内に移動すれば、横断検索ができ、便利である。  コレクションとして購入したが、 意外にも、使用頻度が多く、重宝している。  また、ネット上の「コトバンク」さんの急進ぶりには、目を見張っている。際限なく成長し、どこ を目指しているのか、不気味な存在である。ただ、不愉快な広告が多いのには、閉口している。 当然、 ◆「精選版 日本国語大辞典」  も表示されるが、やはりダウンロードした「 iOS アプリ」に分がある。  ご自身...

「大野晋、橋本進吉に倣いて」

大野晋『日本語と私』河出文庫 「橋本先生の演習に出ないなら、東大の国文学科に来た意味がない」 「橋本先生は何万という万葉仮名の分析から、奈良時代の日本語には母音がアイウエオの五個ではなく、八個あったことを発見されたという。その研究は『万葉集』の一語一語の研究に影響を及ぼすという。」(129-130頁)  大野晋は、一高の先輩である大学院生の石垣謙二に背中を押され、東京大学・国文学科・国語研究室で、橋本新吉の「国語学演習」を履修することにした。 川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫  「木曜日の午前十時から正午までの二時間が演習の時間だった。  橋本は角張ったいかめしい顔立ちで、武人の趣がある。最初にこういった。 「私の演習は、毎週、宿題を出します。ですから、アルバイトで忙しいような人は他の演習を取って下さい」(126頁) 大野晋『日本語と私』河出文庫 「橋本進吉の宿題は質、量ともに並はずれたものだった。戦前の海軍の七曜表の「月月火水木金金」どころではではなく、  私(大野晋)は『木木木木木木木』という毎日を送っていた。  一つ一つの言葉の意味や読み方を決めるにはどんな技術が要るのか。出来れば用例を何十と集めて、文脈に従って一つずつ意味を推定する。意味を出来るだけ細かく区分する。細かく分けた上でグループにまとめる。そのグループに共通な意味を抽出し、類似の単語との違い目を見る。意味や読み方の年代的な移り変りに気をつけて、その時期を見定める。その結果をギリギリに絞ってまとめ上げる。(橋本先生の演習で学んだ単語研究の原則は、そのまま私の中に定着し、以後の私の日本語研究の基本的方法の一つとなった。それは今も私を支配している。 (中略) それのみならず現在の私の単語研究もまたほとんど同じ根本資料を使い、同じ姿勢で進めている。今の方が多少材料の幅は広く、組合わせ方は少し複雑になっているが」(134-135頁) 川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫  「この年の三月(昭和18(1943)年)、卒業を半年後にひかえた大野は、橋本の最終講義を聴いた。  橋本はいつもの三十三番教室で、いつものようにゆっくりと、噛んで含めるように「国語音韻史の研究」を講義した。講義を終えると、  「国語の史的研究はまだなお研鑽すべき多くの問題が残っています。こ...

橋本進吉『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫

川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫   大野は東大の副手をしながら昭和二十三(一九四八)年四月、横須賀(よこすか)にできた清泉女学院高校の教壇にも立つことになった。 (中略) 今日の清泉女子大学の始まりである。(150頁) 大野晋『日本語と私」河出文庫 「日本語の真実を認識するためにと思って、橋本進吉先生の講演を収録した『古代国語の音韻に就いて』(現在岩波文庫)を取りあげた。 (中略)  私はこれを原稿用紙十五枚に要約する宿題を出した。普段は喜んで勉強する生徒たちが「ワカリマセーン」「イヤデース」と口々に叫んだ。落ち着いて読めば分かり易(やす)い話だ。私は次第に憤(いきどお)ろしくなり、叫ぶ生徒たちに雷を落したかった。しかし女性を激しく叱(しか)ると、何故叱られたかは全く考えずに、ただ「オコッタ。ドナラレタ」というマイナスの記憶だけを永く残すと聞いていた。私はこらえて黒板に大きな字で書いた。「知的鍛錬は厳格なるを要す」。彼女らは静まった。数人は、実に見事な要約を提出した」(161-162頁)  大野晋の課題は凄まじいが、「橋本先生の厳しさに比べれば、僕の厳しさは百分の一だよ」と述懐している。  大学の三年次に杉本つとむ先生の「国語学特論」で、橋本進吉『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫 についてのレポートが課せられた。昭和六十二年四月二十一日のことだった。二百字詰原稿用紙十枚以内というものだった。 川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫 「橋本先生は『石橋を叩いても渡らない』といわれているんだよ。先生は言語学においても、数学や物理学のように厳密、厳格な立証や実証が必要だとお考えじゃないのかな。君もすぐにわかるさ」 といった。石垣(謙二)のいったことは、正しかった」(127頁) と、書かれていますが、橋本進吉の研究態度が、「厳密」にして「厳格」、「立証」的であり「実証」的であったように、橋本の『古代国語の音韻に就いて』の講演は、橋本の研究の足跡を順を追ってたどるかのように整然としている。講演そのものが一篇の論文の体をなしている。橋本は講演とはいえ、一言半句ともおろそかにはしていない。  橋本進吉『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫の解説で、大野晋は、 「しかし橋本博士は、一つのきっかけから万葉仮名の用法を精査し、その事実...

小林秀雄「和して同ぜず」

 ここに、 四十四巻から成る、 三十五年の歳月を費やし、意を尽くした、『古事記伝』の完成をみた。    九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題 披書視古    古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし  小林秀雄は、『本居宣長』を、昭和四十(1965)年、六十三歳の夏から雑誌『新潮』に十一年あまりにわたって連載した。その後一年をかけて推敲し出版した。小林秀雄は、十二年を超える歳月をかけて、本居宣長と対峙した。 そして私は、 小林秀雄『本居宣長 (上,下)』新潮文庫 の初読、また再読に 25日を要した。特に初読は困難な道のりだった。立ち止まり、耳を澄ませて待つことを覚えた。貴重な読書体験だった。   川村次郎『いまなぜ白洲正子なのか』東京書籍  会場の「畠山記念館」に着くと、袴をつけた川瀬(敏郎)がにこやかに出迎えた。  国語学者の大野晋夫妻もきていた。正子は大野晋という名前は、「青山学院(青山二郎のもとに集まった文士たちの一団)」のころから聞いていた。岩波書店から『広辞苑』が出たのは昭和三十(一九五五)年だが、この辞書で助詞など、基礎語と呼ばれる単語千語をうけもったのが大野だった。基礎語は使われる頻度が高い分、定義をするのがむずかしい。最も厄介な言葉である。「青山学院」に集まる文士はみんな大野に一目も二目も置いていた。  小林秀雄が昭和五十二(一九七七)年、新潮社から『本居宣長』を出したとき、大野を招いて一席設けた。大野は十七歳年下だが、ただの言語学者ではなく、本居宣長をしっかり読み込み、人間を研究していることを知っていた。どうしても感想を聞いてみたかったのである。  大野は『本居宣長』を急いで読んだ。そして、宣長を論じようとすれば読み落としてはいけない一冊を読んでいないのではないかと睨み、文化勲章を受章した文壇の大御所に、思った通りのことをいった。小林は、「君の言う通りだ。しかし評論家はそれでいいんだよ」といって、笑ったという。  実は正子も『本居宣長』にはキラキラしたところがないと思ったので、小林にその通りにいったことがあった。小林は「そこが芸だ」といっただけで、釈然としないものが残っていたが、大野の指摘に得心がいった。この話を聞いたときから、「大野晋」の名は忘れられないものになった。しかし会うのは、はじめてである。...

大野晋「辞書_この人間臭いものの内側」

大野晋「この人間臭いものの内側 ー 小学館発行 『日本国語大辞典』」 大野晋・編『この素晴らしい国語』福武書店 「 辞書は、神ではない。それは地上のものであり、人間の作品であり、きわめて人間くさいものである」(162頁)  辞書が「作品」ならば、それは鑑賞するものであり、鑑賞に耐えうる気品を湛えていなければならない。一つの誤ちが作品をだいなしにすることもある。 「 私はわずかながら辞書のことに従事してきた者として、小学館の新刊『日本国語大辞典』(1972~1976年)を見ながらそのことを語ってみたいと思う」(162頁) 「こうした大きな辞典なればこそ収めることの出来る多くの項目(多くの方言や日本神話の神名、歴史学上の古文書の用語、古記録や公家の日記類の言語)とか、めずらしい用例(出典)を含むこの辞典は、日本語のことを考える人々がやはり見過ごすことの出来ない辞書である」(168頁) 「『大辞典』が基本的な単語のアクセントを注記したのも、従来見過ごされた領域に対する新しい寄与である。しかし、いわゆる古代日本語の八母音の区別について全然触れずにあるのは編集委員の手落ちではあるまいか」(168頁) 「未だ確定していない」「従来の個々の語源説を、ともかく集め、それを均等に並べることを試みている」。「全然駄目(だめ)な説もみな均(ひと)しく並んでいる」(169頁) 「辞書の中心的生命の一つは、語義の記述である。語義の記述の肝要な点は、それがその語の意味を的確に把握しているか否かの点である」(169頁) 「こういう類(「ゆるい(正確さを欠く)訳語」)が『大辞典』には相当ある。これがこの辞典の最も大きい弱点であろうと思う」。また、「長い年月生きてきた単語について、意味の発展・展開に従って訳語を配列するという努力の見えないものがかなり多い」(170頁)  国語学者である大野晋の眼は厳しく的を射ている、と私は考えている。  以下は、掉尾の文である。 「辞書の訳語は人間が書くもので ある。決して神の声が記録されるものではない。訳者の学問的な蓄積、人間的な資質、出版社の忍耐強い持続力、そうしたものの結集として辞書がある。良い大きい辞書を持つ民族はそれだけの蓄積と資質と持続力とを持つ民族であるとすれば、小学館の「大辞典」は、日本の現在のそれの反映であるという以外にないのではあるまいか」(17...

TWEET「精選版 日本国語大辞典_iOS アプリ」

 もう10年ほど前になるのだろうか。興味本位で電子辞書を買ったが、一覧性に欠け、不自由で、間もなくさしあげてしまった。  カシオの電子辞書には、 ◆「 精選版 日本国語大辞典」小学館  が収録されていて、魅力的だったが、購入するまでにはいたらなかった。  2017/01/17 に、 ◇「精選版 日本国語大辞典」(iOS アプリ) が、リリースされた。発売当初には破格のお値段だった、と知り、また購入したのは、2020/02/23 のことだった。8000円だった。だいぶ出遅れた感を抱いた 。 ◆ 『精選版 日本国語大辞典(紙)』小学館 は、3分冊の大部な辞書で、各冊 16500円の定価がついている。 なお、 ◇ 『日本国語大辞典(紙)』小学館 は、13巻と別巻1冊からなり、 各巻 16500円である。  その後、間もなく、 ◆「日本語シソーラス 第2版」 (iOS アプリ) ◇「角川類語辞典」 (iOS アプリ) ◆「三省堂 類語新辞典」 (iOS アプリ) をインストールした。作文には、言葉をさがし、言葉を言い換えるために、類語辞典(シソーラス)が不可欠である。  なお、上から三つのアプリは、「物書堂」さんの仕事であり、同じアプリ(「辞書 by 物書堂」)内に移動すれば、横断検索ができ、便利である。  コレクションとして購入したが、 意外にも、使用頻度が多く、重宝している。  また、ネット上の「コトバンク」さんの急進ぶりには、目を見張っている。際限なく成長し、どこ を目指しているのか、不気味な存在である。ただ、不愉快な広告が多いのには、閉口している。 当然、 ◇「精選版 日本国語大辞典」  も表示されるが、やはりダウンロードした「 iOS アプリ」に分がある。  ご自身への「夏季見舞」に、 ◆「精選版 日本国語大辞典」  はいかがですか。混迷するこの時代を照らす、一条の光になると信じております。 (740文字) 次回は、 ◇ 大野晋「この人間臭いものの内側 ー 小学館発行『日本国語大辞典』」 を予定しています。久しぶりの大野晋さんです。大器です。日本回帰です。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / まだ 折々の記_06』: 〜大野晋編〜」

◆ 予期せぬ不具合の発生により、未出版状態のままになっております。申し訳ありませんが、復旧までいましばらくお待ちください 。 つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / まだ 折々の記_06」: 〜大野晋編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  大学では日本文学を専修した。今回 橋本進吉先生の『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫 を三十年あまりぶりに再読した。  精緻な研究から成った成果である。「万葉仮名の用法を精査し」、そして「奈良時代の大和地方の言語は八十七の音節を区別する音韻体系を持つものであったことを発見」された。  大野晋がその後進に当たった。それは有無を言わせないものだった。  学習院では「大野ススメ」と呼ばれ、司馬遼太郎からは「先生は、抜き身の刀のような方ですね」といわれた大野と、「石橋を叩いても渡らない」といわれた質朴、朴訥な橋本との性格の相違は歴然としているが、 「日本語に美しい秩序があることを若い人たちに知らせたい」 という点においては一致していたといえよう。また大野は、 「おそらく先生は日本語の文法だけでなく、音韻の体系についても美しい秩序を見ておられたに相違ない。心の底ではそのことを先生は人々に語ろうとされたのではなかろうか」 とも述べている。  日本語は美しい。 追伸:気まぐれな Amazon に弄ばれて散々な毎日を送りました。還暦を迎えた今日を境に、つかず離れず、気の向くままにおつき合いすることにしました。もう Amazon のご機嫌とりはしません。  老い先は短く、 「我儘」に「気儘」に「自己本位」に生きます。もちろん「反省なぞしません」。   還暦を迎えた今日の、我が「 立志」です。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / 又々 折々の記_05』: 〜司馬遼太郎編〜」

◆ 予期せぬ不具合の発生により、未出版状態のままになっております。申し訳ありませんが、復旧までいましばらくお待ちください 。 つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / 又々 折々の記_05」: 〜司馬遼太郎編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  司馬遼太郎の「歴史小説」について書いた文章ではないことをはじめにお断りしておきます。  司馬遼太郎が是とした「すがすがしさ」。 「すがすがしさ」とは漢字で表記すれば「清々しさ」であって、換言すれば、司馬遼太郎は「美しくあること」をもって是とした、と私は解釈しています。「すがすがしくあること」、また「美しくあること」は、行住座臥、あらゆる方面についてまわる試金石です。明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)」を思い出します。  宗教を哲学として平易な言葉で語っていただけたことのありがたさ。歴史に生身の人間が息づいていることへの歓心。歴史を見はるかす目の確かさ、またその明晰さ。いましばらく、博覧強記にして言葉を自在にあやつる司馬遼太郎の史観に沈潜したいと考えております。

「パンデミックの最中(さなか)にあって_ “愛” について その二」

2020/05/17 に、 「パンデミックの最中(さなか)にあって_ “愛” 三題」 を書きましたが、今回は、日本語学者の側から大野晋さんのご登場です。再掲です。 「愛」を「大切」と訳した、室町時代における宣教師たちの見識 大野晋『日本語の年輪』新潮文庫 「愛」という言葉は、古くから日本に入って来ている中国語であり、言葉の上だけから見れば、日本語の中で「愛する」という言葉が使われたのは、実はそんなに新しいことではない。 (中略)  もっとも、これらの例は、親が子に対していう場合、姫君が虫を可愛(かわい)がった場合など、小さい物を愛玩(あいがん)し、いとけないものを大切にするという意味であり、「彼女は彼を愛していた」というような、成人した女が男を愛していたという例はない。  室町時代の末に日本に来てキリスト教を広めようとした人々は、キリスト教の愛、神の愛を説こうとしたときに、愛という言葉を避けて「大切(たいせつ)」という言葉をもっぱら使った。それは、当時すでに「愛」という言葉にしみついていた、そういう「小さいものを可愛がる」というような意味から遠ざかろうとしたためであろうと思われる。  女と男が互に平等な人間として、愛し合ということが、果して、現在の日本のように、相手の人格を尊重するという程度の考え方で出来ることなのかどうか。ヨーロッパで、男女が愛し合うというときには、その証人として「神」が大きな役割をしている。 (中略) キリスト教の神は、唯一(ゆいいつ)絶対の審判官である。その保証のもとにおいてのみ、対等な人間の愛がありうるとされている。 (中略) キリスト教の神の観念を消化せずに、果たして、ヨーロッパ風の「愛」が日本人にわかるようになるかどうか。(102-103頁)

TWEET「週末と私と美人秘書と」

 テスト週間中につき、悲惨な週末を過ごしました。  中学の授業程度のことはいかほどのものでもなく、いっこうに平気ですが、授業プリントの準備に追い立てられ、追い詰められ、右往左往するばかりでした。秘書さえいれば、私の仕事のおおよそは片づくのですが、望むべくもなく、「有能な美人秘書」がほしいと、子どもたちにこぼせば、「このオジサン、なに血迷ってるの」といった、冷たい視線にさらされましたが、厚顔無恥はお手のもので、どこ吹く風です。  テスト週間中には、と思い、 ◇ 丸谷才一『完本 日本語のために』新潮文庫 を用意しましたが、わずかに、 「言葉は単なる道具ではない」大野晋 「あとがきにかえて   日本人はなぜ日本語論が好きなのか  聞き手 湯川豊」 に目を通したばかりで、一切 本文にはふれず、といった体たらくです。  以上、「週末と私と美人秘書と」でした。

TWEET「いまはものを思わざりけり」

 小林秀雄、白洲正子、井筒俊彦、司馬遼太郎、大野晋、中井久夫、…。先週末から、ブログを読み返しています。貴重な時間を過ごしています。寝食を忘れて、「食」を忘れ、「読」は「食」に優っています。  「昔はものを思ひけり」という感慨を抱いています。  図らずも、電子書籍です。 「書生っぽの読書」 を続けます。

「橋本進吉『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫」と突発的な事態」

 昨日には、 梅雨晴の間に間に_橋本進吉『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫 の閲覧が、59件あった。そのほとんどが、アメリカ在住の方たちによるものだと思われる。内容が内容なだけに不思議な感じがしている。今日も閲覧が続くのだろうか。  この際、 梅雨晴の間に間に_「大野晋、橋本進吉に倣いて」 「拝啓 P教授様_『大野晋_まとめて』です」 も、あわせて読んでいただきたいと思う。このような突発的な事態が再びあるとはとても考えられない。

TWEET「秋雨のなか、深謝す」

 閲覧数と閲覧者数を照らし合わせてみると、ブログを横断的に読んでいただいていることがみてとれることがあります。  ロシア在住の方には、今日一日で 63 の、またこの一週間に 271 のブログを読んでいただきました。また、 ◇ 「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」(全)   を読み継いでくださっている日本在住の方がいます。 ◇ 「内田百閒『長春香』_まとめて」 ◇  白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫_まとめて ◇ 「拝啓 P教授様_『大野晋_まとめて』です」 等々。また、 ◇ 「ぜひご覧になってください」 ◇ 「あわせてご覧ください」 しかりです。  このような読まれ方はとてもありがたく、励みにもなり、深謝しております。

「今年最後の積読 全5冊+3冊+2冊です」

井筒俊彦を「この人は二十人ぐらいの天才らが一人になっているな」と称し、大野晋を「先生は、抜き身の刀のような方ですね」と語った、司馬遼太郎がいま気になります。トリは文句なしに司馬遼太郎で決まりです。 「梅雨晴の間に間に_大野晋『日本語練習帳』のことども」 「井筒俊彦という巨匠と井筒俊彦が師事した巨星」 ◇司馬遼太郎 『十六の話』中公文庫 ◇司馬遼太郎『日本語の本質―司馬遼太郎対話選集 2』文春文庫 ◇司馬遼太郎『 人間というもの』 PHP文庫 ◇司馬遼太郎 『対談集 日本人への遺言』朝日文庫 大学時代キャンパス内で、司馬遼太郎さんの講演をお聞きしたと思うのですが、定かな記憶はなく、頼りは、 司馬遼太郎 『司馬遼太郎全講演(全5冊)』朝日文庫 だけです。記憶をたどります。 そして、最後は、 ◇柴田光滋『 編集者の仕事―本の魂は細部に宿る』新潮新書 です。編集者の手を経ることによって、文章はどう変わるのでしょうか。「編集者の仕事」に興味が尽きません 。 また加えて、 ◇司馬遼太郎 『 司馬遼太郎対談集 日本人を考える 』文春文庫 ◇司馬遼太郎 『 司馬遼太郎 ドナルド・キーン 日本人と日本文化 』中公文庫 です。 さらに、やはり日本語のことが気になり、 ◇藤原正彦『祖国とは国語』新潮文庫 です。帯には、 齋藤孝絶賛 「ああ、この人に文部科学大臣になってもらいたい」 と書かれています。 また、性懲りもなく、 司馬遼太郎 『十六の話』中公文庫「対談 司馬遼太郎 井筒俊彦 付録 二十世紀末の闇と光」(397-441頁) を繰り返し読むなかで、対談中に何度か話題にのぼっている、以下の二冊、 ◇司馬遼太郎『 韃靼疾風録〈上・下〉』中公文庫 ◇司馬遼太郎 『空海の風景〈上・下〉』中公文庫 は、はずすわけにはいかず、「今年最後の積読」に加えることにしました。 『空海の風景』は、学生時代以来の積読であり年季がはいっています。『韃靼疾風録』は今回購入しました。井筒俊彦の著作は、何冊かを読み、何冊かは積読中です。読み直す時期が巡ってきたようです。年明けには「今年はじめの積読」を予定しています。 以下、 「井筒俊彦という巨匠と井筒俊彦が師事した巨星」 です。ご参考まで。

「今年最後の積読 全5冊+3冊です」

井筒俊彦を「この人は二十人ぐらいの天才らが一人になっているな」と称し、大野晋を「先生は、抜き身の刀のような方ですね」と語った、司馬遼太郎がいま気になります。トリは文句なしに司馬遼太郎で決まりです。 「梅雨晴の間に間に_大野晋『日本語練習帳』のことども」 「井筒俊彦という巨匠と井筒俊彦が師事した巨星」 ◇司馬遼太郎 『十六の話』中公文庫 ◇司馬遼太郎『日本語の本質―司馬遼太郎対話選集 2』文春文庫 ◇司馬遼太郎『 人間というもの』 PHP文庫 ◇司馬遼太郎 『対談集 日本人への遺言』朝日文庫 大学時代キャンパス内で、司馬遼太郎さんの講演をお聞きしたと思うのですが、定かな記憶はなく、頼りは、 司馬遼太郎 『司馬遼太郎全講演(全5冊)』朝日文庫 だけです。記憶をたどります。 そして、最後は、 ◇柴田光滋『 編集者の仕事―本の魂は細部に宿る』新潮新書 です。編集者の手を経ることによって、文章はどう変わるのでしょうか。「編集者の仕事」に興味が尽きません 。 また加えて、 ◇司馬遼太郎 『 司馬遼太郎対談集 日本人を考える 』文春文庫 ◇司馬遼太郎 『 司馬遼太郎 ドナルド・キーン 日本人と日本文化 』中公文庫 です。 さらに、やはり日本語のことが気になり、 ◇藤原正彦『祖国とは国語』新潮文庫 です。帯には、 齋藤孝絶賛 「ああ、この人に文部科学大臣になってもらいたい」 と書かれています。

「教育の浄化と再生_なによりも日本語、現場の教師に託されたもの」

川上二郎「大野晋さんの遺言」 「日本は戦争に負けて、頭の中までアメリカの植民地になっちゃったんだね」と言われるようになったのは、そのころからである。カタカナ英語の氾濫に加え、テレビのコマーシャルで「メイク・イット・ポッシブル・ウィズ・キャノン」と、宣伝の文章がそっくり英語になったことに注目され、「このままいくと百年後には、今書かれている日本語のわかる人は、日本にいなくなるかもしれない」と言われた。 「では、私たちはどうすればいいのでしょう」とお聞きすると、「実はね、僕は申し訳ないことをしたと思っているんだ」と、思いもかけない言葉が返ってきた。それはこういうことだった。自分は学生の時に「日本とは何か。日本語はどこから来たのか」という設問を自らに課し、答えを見つけることに一生を捧げた。そして結論を出すことができた。しかしそうしている間に、この国は壊れた。最大の原因は、戦後の国語教育にあったと思う。  中学校で国語と英語の授業時間を同じにしてしまえば、植民地化が進むのは避けようがない。日本人にとって国語は母語である。母語は、意志や気持ちを伝える道具ではなく精神の土台だ。それなのに、土台造りを怠ってきた。  日本のあちこちで起こっている問題の原因は、国語力の低下で説明がつく。精神の土台が崩れ、考えや判断するのに不可欠な国語の能力が落ちれば、問題は起きるし、解決の知恵も出なくなる。  日本語の能力の基礎は小学校の三、四年生までに築いておかなければいけない。しかし助詞の「は」と「が」の違いをわかりやすくきちんと教えられる先生が、日本に何人いるのか。 「そう考えるとね、自分の研究は半分位にして、半分は国語をしっかり教えられる人材の育成に当てるべきだった。申し訳なかったなと、思っているんだよ」  3・11以降、筆者は政治家や官僚の発言を見聞きするにつけ、大野晋さんの〝遺言〟を思い出すことが多くなった。 (「考える人」2012年春号掲載) 「教育の浄化と再生_齋藤孝氏のイライラ」 齋藤孝,梅田望夫『私塾のすすめ ー ここから創造が生まれる』ちくま新書(74-75頁) どの層に伝えたいかというと、現実を変えるために、教師の方たちにがんばってもらわなきゃ、という思いはあります。子どもたちについては、全体を底上げすることに使命感をもっています。だから、小学校の国語の教...

「今年最後の積読 全5冊です」

井筒俊彦を「この人は二十人ぐらいの天才らが一人になっているな」と称し、大野晋を「先生は、抜き身の刀のような方ですね」と語った、司馬遼太郎がいま気になります。トリは文句なしに司馬遼太郎で決まりです。 「梅雨晴の間に間に_大野晋『日本語練習帳』のことども」 「井筒俊彦という巨匠と井筒俊彦が師事した巨星」 ◇司馬遼太郎 『十六の話』中公文庫 ◇司馬遼太郎『日本語の本質―司馬遼太郎対話選集 2』文春文庫 ◇司馬遼太郎『 人間というもの』 PHP文庫 ◇司馬遼太郎 『対談集 日本人への遺言』朝日文庫 大学時代キャンパス内で、司馬遼太郎さんの講演をお聞きしたと思うのですが、定かな記憶はなく、頼りは、 司馬遼太郎 『司馬遼太郎全講演(全5冊)』朝日文庫 だけです。記憶をたどります。 そして、最後は、 ◇柴田光滋『 編集者の仕事―本の魂は細部に宿る』新潮新書 です。編集者の手を経ることによって、文章はどう変わるのでしょうか。「編集者の仕事」に興味が尽きません 。

梅雨晴の間に間に_「大野晋、縁は異なもの」

川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫 研究者をめざす大学院生などには、こんなふうに語った。 「スジのいい研究ってのはさ、徐々に成果が見えてくるなんてことはなくてね、いきなりドカンと出てくるもんなんだな。その感じは、衝突といった方がいいかもしれないよ」(303頁) 大野晋『日本語と私』河出文庫  見込みが正しいときにはデータが、こちらの見定める線の延長上に飛び込んでくる。私は定家仮名遣の研究などでそれを経験している。タミル語の場合にも同じことが起きた。(273-274頁) 「どんなご縁で」「そうかもしれない」、という耕治人の短編小説の題名を思い出しました。小説の内容とは縁もゆかりもないのですが…。興味深いお話ですね。

梅雨晴の間に間に_橋本進吉『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫

川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫  大野は東大の副手をしながら昭和二十三(一九四八)年四月、横須賀(よこすか)にできた清泉女学院高校の教壇にも立つことになった。 (中略) 今日の清泉女子大学の始まりである。 (150頁) 大野晋『日本語と私」河出文庫  日本語の真実を認識するためにと思って、橋本進吉先生の講演を収録した『古代国語の音韻に就いて』(現在岩波文庫)を取りあげた。 (中略) 私はこれを原稿用紙十五枚に要約する宿題を出した。普段は喜んで勉強する生徒たちが「ワカリマセーン」「イヤデース」と口々に叫んだ。落ち着いて読めば分かり易(やす)い話だ。私は次第に憤(いきどお)ろしくなり、叫ぶ生徒たちに雷を落したかった。しかし女性を激しく叱(しか)ると、何故叱られたかは全く考えずに、ただ「オコッタ。ドナラレタ」というマイナスの記憶だけを永く残すと聞いていた。私はこらえて黒板に大きな字で書いた。「知的鍛錬は厳格なるを要す」。彼女らは静まった。数人は、実に見事な要約を提出した。 (161-162頁)  大野晋の課題は凄まじいが、「橋本先生の厳しさに比べれば、僕の厳しさは百分の一だよ」と述懐している。  大学の三年次に杉本つとむ先生の「国語学特論」で、橋本進吉『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫 についてのレポートが課せられた。昭和六十二年四月二十一日のことだった。二百字詰原稿用紙十枚以内というものだった。  川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫  には、  「橋本先生は『石橋を叩いても渡らない』といわれているんだよ。先生は言語学においても、数学や物理学のように厳密、厳格な立証や実証が必要だとお考えじゃないのかな。君もすぐにわかるさ」  といった。石垣( 謙二 )のいったことは、正しかった。 (127頁)  と、書かれていますが、橋本進吉の研究態度が、「厳密」にして「厳格」、「立証」的であり「実証」的であったように、橋本の『古代国語の音韻に就いて』の講演は、橋本の研究の足跡を 順を追ってたどるかのように整然としている。講演そのものが一篇の 論文の体をなしている。橋本は講演とはいえ、一言半句ともおろそかにはしていない。  橋本進吉『古代国語の音韻に...

「愛」を「大切」と訳した、室町時代における宣教師たちの見識

大野晋『日本語の年輪』新潮文庫  「愛」という言葉は、古くから日本に入って来ている中国語であり、言葉の上だけから見れば、日本語の中で「愛する」という言葉が使われたのは、実はそんなに新しいことではない。 (中略)  もっとも、これらの例は、親が子に対していう場合、姫君が虫を可愛(かわい)がった場合など、小さい物を愛玩(あいがん)し、いとけないものを大切にするという意味であり、「彼女は彼を愛していた」というような、成人した女が男を愛していたという例はない。  室町時代の末に日本に来てキリスト教を広めようとした人々は、キリスト教の愛、神の愛を説こうとしたときに、愛という言葉を避けて「大切(たいせつ)」という言葉をもっぱら使った。それは、当時すでに「愛」という言葉にしみついていた、そういう「小さいものを可愛がる」というような意味から遠ざかろうとしたためであろうと思われる。  女と男が互に平等な人間として、愛し合ということが、果して、現在の日本のように、相手の人格を尊重するという程度の考え方で出来ることなのかどうか。ヨーロッパで、男女が愛し合うというときには、その証人として「神」が大きな役割をしている。 (中略) キリスト教の神は、唯一(ゆいいつ)絶対の審判官である。その保証のもとにおいてのみ、対等な人間の愛がありうるとされている。 (中略) キリスト教の神の観念を消化せずに、果たして、ヨーロッパ風の「愛」が日本人にわかるようになるかどうか。 (102-103頁)