「文化の多様性―西江雅之×たけし対談_スクラップ」


舘崎正二さんに感謝しております。

決して「ギャグ」ではありません。れっきとした「学問の世界」でのお話です。

2012年10月29日
文化の多様性―西江雅之×たけし対談
西江雅之。
言語の研究で世界各地を探訪してきた文化人類学者。
『新潮45』11月号でたけしと対談している。
これがめっぽう面白いので以下紹介。
〇動物好きの人間には3種類ある。
ペットを飼う人。
動物を観察・研究する人。
そして動物になろうとする人。
少年時代から動物になって彼らが生きている世界を知りたかった。
〇テレビ局から「世界中で指の動作にはいろんな意味があるだろうから、それをテレビで紹介してくれ」と頼まれたが断った。
なぜなら、指でどんな形を示しても、どこかの国に行けばとても放映できない卑猥な意味を必ず持つから。
〇第2次大戦中、イタリア軍の将校が連合軍に捕まった。
3日後に解放されたが、味方にあれだけ拷問を受けたのに何も言わなかったと称賛された。
しかし彼いわく。
「何か言おうと思ったのだが、椅子に縛られているんで、両腕が自由に使えず、何も言えなかった」
〇陸軍中野学校でスパイの訓練を受けた軍人が中国の田舎で捕まった。
中国軍がいろいろ尋問しても動作から何からすべて田舎の人のままで、やはりこの人は日本人ではなく中国人だと思った。
そこで尋問をあきらめておしぼりをだしたら、途端に日本人だとばれてしまった。
なぜならその地域では、おしぼりで顔を拭くときは、手を動かさず、顔を動かすというのだ。
そこまでスパイ学校では習っていなかった。
〇タイやアフリカの広い地域では、子どもの頭をなでてはいけない。
頭をなでるのは自分の奴隷にしたというか、支配下に置いたという意味になってしまう。
〇ある地域ではお互いにチンポコを握ってあいさつする。
男同士が握るのならまだわかるが、お母さんが息子と出会ったときも握る。
自分の息子の息子を握るわけだから、「孫」を握っていることになる。
〇何が恥ずかしいかは文化によって異なる。
日本の女性は性器を隠すが、欧米人の女性なら胸を隠す。
カラハリ砂漠の一部の女たちは、男をからかう時、後ろ向きになって腰をかがめて、あそこを開いて見せる。
何が恥ずかしいか、体のどこが恥ずかしいかは文化によって違うから、ある地域の下ネタが別の地域では下ネタにならない。
〇ウガンダのある部族は全裸なので、政府がパンツぐらい穿けと指導するが誰も恥ずかしくてできなかった。
ある時期から衣服を着るようになるが、それでも下だけは恥ずかしくて穿けないので、上半身だけ着て下半身は丸出し。
〇ニューギニアの一部の地域では、人間にとって一番大切なのは体液。
つまり血液と精液。そうした地域では売春は成り立たない。
精液をあげてお金を出すなんて馬鹿なことはありえない。
〇同じくニューギニアのある地域では、子育ては母乳だが、男の子はある時点で男にならないとダメ。
そのためには母乳だけではダメで、生後しばらくしてからペニスから精液を吸う。
男性の体液をもらわない子は男になれない。
さて、こうした地域が今でもどれだけ残っているかは疑問だが、西江は文化とは不条理なものだという。
人類の生活は多様なバリエーションがある。
そのバリエーションが文化だとしたら、人類が1つの生き方になるということは、人類から文化が消えるということになる。
同じ価値観にとらわれ、同じような生涯を送る。
人間は数百万年かけて多様な文化を作り上げた挙句、急速に全員同じというワンパターン動物になろうとしているのではないか>
西江はそう危惧する。
西江の本は何冊か読んだが、こんな面白い話が書いてあったかな?