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TWEET「二人きりの慰霊の山行」

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  「二人きりの慰霊の山行」  今日は、広島に原爆が投下されてから 80 年になる節目の年です。   この猛暑のなか、 叔父と叔母が、神石山(静岡県湖西連峰)に、二人きりの慰霊の山行に出かけました。 「ラクダ岩」  身内のこととはいえ、やはり尊く、尊敬の念を抱いています。 追伸: 「二人きりの祈りの山行」  長崎に原爆が投下され 80 年、最後の被爆地になることを祈っての 二人きりの山行です。 「ラクダ岩」  今日も酷暑でした。 追伸_02: 「二人きりの追悼と祈願の山行」 「終戦の日」に、戦没者の追悼と恒久の平和を祈願しての 二人きりの山行です。 「ラクダ岩」   今日も猛暑でした。

「石巻山登拝」

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 昨日、神体山(しんたいさん)と仰がれる、地元(愛知県豊橋市内)の石巻山に登拝した。  数十年ぶりのことであり、記憶をたどるにもたどれず、初登山と何らかわらなかった。標高 358m の 低山であり、散策程度と思っていたが、途中岩肌には、ロープ・クサリ・ハシゴがかけられ、本格的で、侮れず、肝を冷やした。トレッキングシューズこそ履いていったものの、たとえ低山であれ、やはりきちんとした装備で出かける必要を感じた。  まず「石巻神社 山上社」に参拝した。 「 石巻神社 山上社」   山頂は石灰岩の巨岩群からなっていた。女性が裸足になり岩の上にちょこんとすわり、眼下に広がる 360度のパノラマを楽しんでいたが、私にはまねのできる芸等ではなかった。 「石巻山 山頂」 「法螺貝」の音(ね)ならぬ、アボリジニの金管楽器である「ディジュリドゥ 」の音を聞かせていただいた。思いもよらぬことだった。「ディジュリドゥ 」とは「シロアリに食われ筒状になったユーカリの木から作られる」「 アボリジニが精霊と交信するための」祭器である。彼の女性は「宇宙とつながるための音」と称 していた。貴重な体験だった。 「石巻山 山頂」  山には奇特な人たちがいる。  私にとっては、居心地のいい異界である。 「 石巻神社 山上社」 「 石巻神社 山上社」にお礼参りをし、帰路に着いた。  冬眠中に這い出し、寝ぼけ眼でいく恰好の聖域を見つけた。

「自分の声といい肉声といい」

「山の日に山気にあたる_1/3」 2022//08/11 「霊峰(富士)を前に、茫然自失として立ちつくす。私の不用意な動きが、すべてを崩壊へと導く。私は平安のうちにあるが、心奥のどこかが緊張しているような気がする。それを畏れというのかもしれない」  私の美の体験である。 「摩訶般若波羅蜜多心経」を諳んじた。間をおかずに何回か唱えると、美の体験と近似した心境になることを、数日前に気づいた。それは、「南無阿弥陀仏」の「六字名号」を唱えた後にも起こることを、はっきり自覚している。 玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書 「それでは最後に、以上の意味を忘れて『般若心経』を音読してください」(194頁) 「自分の声の響きになりきれば、自然に『私』は消えてくれるはずです」(198頁) 「声の響きと一体になっているのは、『私』というより『からだ』、いや、『いのち』、と云ってもいいでしょう。むろんそれは宇宙という全体と繋がっています」(199頁) 墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社  「念仏にしても、木魚一つでもあれば、称名の声と木魚を撃つ音と主客一如になるところ、大自然のいのちを呼吸する心境は深まりうるわけで」ある。(12頁) 「自分の声の響き」であり、「称名の声と木魚を撃つ音」である。  また、小林秀雄は、 「あの人(本居宣長)の言語学は言霊学なんですね。言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る。肉声だけで足りた時期というものが何万年あったか、その間に言語文化というものは完成されていた。それをみんなが忘れていることに、あの人は初めて気づいた。これに、はっきり気付いてみれば、何千年の文字の文化など、人々が思い上っているほど大したものではない。そういうわけなんです」(『本居宣長 (下)』新潮文庫 388頁) といっている。 「言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る」  畏怖すべきは声にあった。  いま何かが動きはじめた。言葉を弄すること、徒らに動くことの愚かさを思っている。

「祖霊を祀る」

 今日からお盆である。祖霊を迎える大切な日である。宗派によっては、迎え火を焚き、送り火を焚く。京都「五山送り火」、大文字の炎は、あまりにも有名である。 「死・再生の思想 ー 鳥が運んだものがたり」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  特に縄文時代、しかし弥生時代にも多分に縄文が残っているでしょう、殷的なものが。それから、やはり「死・再生」です。魂が古い屍を去って、あちらへ行く。無事あちらへ送らなくちゃいけない。そういうのが大きな願いなんですね。生まれるのは、今度はあちらからこっちへ帰って来る。  死・再生というのは東洋の重要な宗教儀式だと思っているんですが、例の伊勢神宮の柱ですね。 編集部  心(しん)の御柱(みはしら) 梅 原  御遷宮(ごせんぐう)ですね、柱の建て替え。それと同じようなものが「諏訪(すわ)の御柱(おんばしら)」。 (また能登の「真脇(まわき)遺跡のウッドサークル」) (中略)  だから御遷宮のように木を作り替える。ウッドサークルは縄文まで遡るんですよ。それはやはり生命の再生。木は腐る、だから腐らないうちに、神の生命が滅びないうちに、また新しい神の命を入れ替えてですね、ずっと伝える。こういうのがですね、私、日本の宗教の基本だと思ってますが、こういう儀式をもっと壮大にしたのが殷の姿だと、字の作り方なんかで感じました。 白 川  中国ではね、鳥形霊(ちょうけいれい:鳥の信仰は全世界に分布する。鳥は必ず水鳥・渡り鳥である)という考え方があるんですが、これはやはり祖先が回帰するという考えに繋がっておるんじゃないかと思う。季節的に決まった鳥が渡って来るでしょ。 梅 原  水鳥ですね。鳥の信仰は殷にはありますか、鳥は霊ですか。 白 川  あります、鳥は霊です。星でも鳥星(ちょうせい)ちゅう星を特別に祀っています。どの星のことか知らんけど、甲骨文に出て来る。特別の信仰を持っておったんではないかと思うんですがね。  鳥星は「好雨(こうう)」の星と考えられていたので、「止雨(しう)」を祈るんです。甲骨文にそのことが書いてある。 梅 原  (前略)だから今の日本でやる玉串奉奠(たまぐしほうてん)というのは、あれ、(鳥の)羽根ですね。ひらひらしているの。これはやっぱり僕は共通の信仰...

「山の日に山気にあたる_3/3」

高桑信一『古道巡礼 山人が越えた径』ヤマケイ文庫 「仕事の径(みち)は暮らしの延長線上にあった。径は、その仕事の目的によって、たどる径筋がまるで異なっていたのである。たとえばマイタケ採りの径なら、マイタケの出るミズナラの木を効率よくめぐるように付けられているし、それがゼンマイ採りの径なら、ゼンマイの生えている渓の奥まで、険しい溪筋を避けながら、山肌の弱点を縫ってつづいていた。それらの径には無駄というものがなかった。(中略)そのような無駄を排した径が、原生の自然と見事に融和しながら、一条の美しいラインとして山中につづいていたのである」(8頁) 「径は目的によって拓かれ、目的を失うことによって消え果てた」(392頁) 「滅びゆくものに、かぎりない愛着をおぼえて止まないのは、無常への追認である」(394頁) 「そんなはかない、常ならぬものへの諦観と覚悟をいざなう滅びゆく存在が、私を捉えて離さなかったのだ」(394頁)  高桑信一の ◇ 高桑信一『古道巡礼 山人が越えた径』ヤマケイ文庫 は、 ◇ 高桑信一『山の仕事、山の暮らし』 ヤマケイ文庫 と同様に、入念なフィールドワークに基づいた、一級の山の民俗誌の風格がある。  山人が “用” のためにつけた径を俯瞰したとき、幾筋かの径筋が細線として映える。 用の美である。  確かに、高桑さんの文章は上手いが、ときに洒脱にすぎるのが難点である。

「山の日に山気にあたる_2/3」

「山で死んでも許される登山家」 山野井泰史『垂直の記憶 岩と雪の7章』ヤマケイ文庫 「僕は計画の段階では死を恐れない。しかし、山に行くと極端に死を恐れはじめる。  なぜ、誰にも必ず訪れる死を恐れるのだろう。  この世に未練があるから恐いのか、死ぬ前にあるだろう痛みが恐いのか、存在そのものがなくなる恐怖なのか ー 。しかし、クライミングでは死への恐怖も重要な要素であるように思える。 「不死身だったら登らない。どうがんばっても自然には勝てないから登るのだ」  僕は、日常で死を感じないならば生きる意味は半減するし、登るという行為への魅力も半減するだろうと思う。  いつの日か、僕は山で死ぬかもしれない。死ぬ直前、僕は決して悔やむことはないだろう。一般的には「山は逃げない」と言われるが、チャンスは何度も訪れないし、やはり逃げていくものだと思う。だからこそ、年をとったらできない、今しかできないことを、激しく、そして全力で挑戦してきたつもりだ。  かりに僕が山で、どんな悲惨な死に方をしても、決して悲しんでほしくないし、また非難してもらいたくもない。登山家は、山で死んではいけないような風潮があるが、山で死んでもよい人間もいる。そのうちの一人が、多分、僕だと思う。これは、僕に許された最高の贅沢かもしれない。 (中略)  ある日、突然、山での死が訪れるかもしれない。それについて、僕は覚悟ができている」(178-179頁) 「山で死んでもよい人間もいる。そのうちの一人が、多分、僕だと思う。これは、僕に許された最高の贅沢かもしれない」。  山野井泰史のいう死とは、不慮の死をいうのだろう。自然の脅威に人は翻弄される。非業の死を遂げたといえば、周囲も山野井自身も納得するだろう。この天才クライマーにとって、それ以外の死は考えられなかった。これは天性と周到な準備に因るものである。  死の話題が二つ続いた。 山の本を読むとは特異な体験をすることである。逸脱から免れるために、次は「山人」の話である。  宮沢賢治『なめとこ山の熊』には、鷹揚な死、殊更でない死が描かれている、といえば、また逸脱か。「青空文庫」で、どうぞ。

「山の日に山気にあたる_1/3」

 富嶽遥拝の旅を続けている。  静岡県掛川市の「小夜の中山峠」、富士宮市の「富士山本宮浅間大社」,「山宮浅間大社」、また「本栖湖」から遥かに仰いだ富士の高嶺は美しく尊かった。「人穴富士講遺跡」,「村山浅間神社」,「白糸の滝」、 また「道の駅 朝霧高原」,「静岡県富士山世界遺産センター」も忘れられない。  目を移せば、「伊吹山」、那智山中にかかる「那智の滝」、いずれも御神体である。  いま信仰の対象としての山に興味がある。  霊峰を前に、茫然自失として立ちつくす。私の不用意な動きが、すべてを崩壊へと導く。私は平安のうちにあるが、心奥のどこかが緊張しているような気がする。それを畏れというのかもしれない。  ブログ内を「ヤマケイ文庫」で検索すると、17の文章が表示された。 遠藤甲太「松濤明の遺書」 松濤明『新編・風雪のビヴァーク』ヤマケイ文庫 「一九四九年一月四日から六日にかけての「手記」。われわれはこの種の文章を、ひとつの文学作品として読むほかないのだけれど、私の知るかぎり松濤の遺書は、自衛隊員・マラソンランナー円谷幸吉の遺書と並んで、最も衝撃的な文学上の奇蹟である。円谷書が自死する哀しみの至純さにおいて言語を絶しているとすれば、松濤書はその対極。あくまで死と闘い、ついに倒れんとする瞬間の圧倒的な臨場感(リアリティ)において、やはり言語を絶している」(337-338頁) 「壮絶な手記を残して風雪の北鎌尾根に消えた松濤明」 萩原浩司『写真で読む 山の名著 ヤマケイ文庫50選』ヤマケイ文庫 『風雪のビバーク』は、戦前・戦後にかけて数々の初登攀記録を打ち立て、風雪の北鎌尾根に逝った希代のアルピニスト、松濤明の遺稿集である。松濤は一九四九(昭和二四)年一月に、奇しくも加藤文太郎と同じ風雪の槍ヶ岳北鎌尾根で遭難するが、遺体のかたわらで発見された手帳の壮絶な手記が耳目を集めた。そこには遭難に至った経緯が細かに記され、最後には岳友と共に死を受け入れてゆく過程と心情が描かれていた。(34頁) 「風雪のビヴァーク」 松濤明『新編・風雪のビヴァーク』ヤマケイ文庫 1月6日 フーセツ 全身硬ッテカナシ、何トカ湯俣迄ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス  オカアサン  アナタノヤサシサニ タダカンシャ. 一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス。  何ノコーヨウモ出来ズ死ヌツミヲオユルシ下サイ....

「渡岸寺往還」

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2022/04/01 小雨のそば降るなか、2:30 に出立した。起き抜けのことだった。花冷えで寒い夜だった。 ◆「Hotel & Resorts NAGAHAMA(喫茶室)」 強風が湖面を吹き渡り、琵琶湖はいつになく荒れていた。 「2022/04/01_琵琶湖(長浜)」 琵琶湖を眺めながら、一昨夜見た、 ◇  濱口竜介 監督・脚本 「 ドライブ・マイ・カー」 のことを思っていた。 ◇  濱口竜介 監督・脚本 「 ドライブ・マイ・カー」 を払拭するために、衝動的に家を出た。文学はもうたくさんだった。 ◆「渡岸寺(どうがんじ)」 「2022/04/01_渡岸寺」  美しく、慈愛に満ちた観音さまである。永劫を生きるお姿は不動だった。  観音堂は鎮まっていた。文学の沈黙とは自ずと異なる寂静がここ にはあった。救いがあった。 御前のベンチに座り 、うつらうつらしていた。 年度はじめの、私の “祀り ” だった。 ◆ 「伊吹山 PA (上り)」 「伊吹山 PA (上り)」より、薄らと残雪 を戴いた霊峰を望んだ。 「2022/04/01_伊吹山」 京都・奈良大和路への旅は、コロナ禍のため今回は断念した。 ◆ 「養老の滝」  帰途  孝子伝説で知られる「養老の滝」を訪れた。小学生のときに家族と行って以来、50年近くの歳月が経っている。全くの気まぐれだった。  桜が満開だった。  道が登りにさしかかった辺りに位置する「吉田商店」さんで、養老の天然水「龍泉の雫」を買い、口をうるおしながら 30分ほど登った。 「2022/04/01_養老の滝」  落差 32m、幅 4m の滝は水量も多く、みごとだった。しばらくの間 飛沫を浴びていた。  スマートフォンで写真に収めると、間もなく踵を返す方たちが目立つ。落ち着きを欠き、忙しない旅の形態が広がっている。 ◆ 「ひょうたんらんぷ館」  帰路、再び「吉田商店」さんにお邪魔した。隣接して「ひょうたんらんぷ館」が建っている。 「自家栽培のひょうたんに / 穴をあけて / らんぷを作りました / その光は やわらかで / それぞれが 違った輝きを持っています / 手作りの灯りを / 心ゆくまで ご覧ください」(ー 岐阜県 養老郡 ー ひょうたんらんぷ館) 「吉田商店」の奥さまが「ひょうたん」に下絵を描き、ご主人が穴...

「辰濃和男『歩き遍路―土を踏み風に祈る。それだけでいい。』海竜社_師走に『四国遍路』を渉猟する」

一昨日の夕刻すぎ、 ◆ 辰濃和男『歩き遍路―土を踏み風に祈る。それだけでいい。』海竜社 を読み終えた。  たくさんの言葉に接し消化不良を起こしている。  「土を踏む」ことと「風に祈る」こと、それだけでいいというのは、その二つの単純な動詞さえ大切にすれば、あとのことは重要であっても最重要ではない、という意味だ。 「土を踏む」、つまり日々、歩くことをつづければ、どんな御利益があるだろう。  まず、野生をよみがえらせることができる。いいかえれば、生命力が強くなる。  自立心がます。楽天的な思いが湧く。なにごともセーカイセーカイダイセーカイ(正解正解大正解)だと思う。おろかで、欠点だらけの自分に出あうことができる。へんろ道は己の「魔」を照らす「照魔鏡」である。  そして、人との大切な出あいがある。  たくさんのお接待をいただき、手をあわせる。感謝をする。そのことが、人間が生きるうえでの基本だということを知る。  感謝はさらにひろがる。大自然の営みへの感謝がある。  大自然の営みに感謝する祈り ー それこそが「風に祈る」ということだ。私の体験のなかでは、「土を踏む」ことが「風に祈る」ことにつながり、「風に祈る」ことが「土を踏む ことをさらにうながしている。(337頁)  「土を踏む」という言葉が、何百万年前の太古にさかのぼるのに対して「風に祈る」という言葉は一輪の花から宇宙空間にまでひろがってゆく。「風に祈る」の「風」は、風そのものだけではなく、空・風・火(光)・水・地という宇宙を象徴する言葉の代表選手として使っているつもりだ。  究極の祈りは、宇宙の営みへの感謝の祈りである。(「あとがき」341頁)  へんろ道は「祈りの空間」である。 (「あとがき」340 頁) ◆ 高群逸枝著 ,堀場清子校註 『娘巡礼記』岩波文庫  「高群は出かける前「道の千里をつくし、漂泊の野に息(いこ)はばや」と書いている。  高群が四国を回ったのは一九一八年で、二十四歳のときだった。六月から十月までの長い旅である。当時のへんろ道では、「山で若い女が殺されたり、姦(おか)されたり」することがあるという噂話もあった。しかし高群は書く。「でも構はない。生といひ死といふ、そこに何程の事やある」という意気込みだった。  顔や手足に虫が這う草むらで野宿をする。小川のそばに毛布を敷いて寝る。テントも寝袋もない野宿...

「辰濃和男『四国遍路』岩波新書_師走に『四国遍路』を渉猟する」

昨夕、 ◆ 辰濃和男『四国遍路』岩波新書 を、二回目の接種後に読み終えた。二巡目の読書だったが、多少のことを思い出すにすぎなかった。 「へんろ道」は生と死、死と再生の交錯する道である。「はぐれびと」たちの行き交う道である。  辰濃さんが、千数百キロメートルを、七十一日かけて歩いた道であり、本書は多くの話題から成っている。  「出あったときが別れだぞ」  松原泰道師は父の祖来和尚からそう教えられたという。(中略)泰道師は一期一会(いちごいちえ)について書いている。「一期は人間の一生、一会はただの一度の出会いです。これほど「一」の肅然としたたたずまいを感じる語は、他に類例をみません。(『禅語百選』祥伝社、一九八五年)(43頁)  陳腐に成り下がった語が息を吹き返した。これは、 「それ(戦国武将がのぞんだ茶会)は自分が死んでゆくことを自分に納得させる、謂ってみれば死の固めの式であった」(175頁) 井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫  でも経験した。  自省・自責・自虐の言葉には嫌気がさした。文章の品位を失する。もうやり過ごした時節のことであり、 「そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、さういふ小賢しい方法は、むしろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう。」(小林秀雄『人生について』角川文庫 36頁) と、いまは確信している。  空海は、 「吾れ永く山に帰らん」 と言い遺している。 原始 の森、いのちの息吹き、 太古の闇。 いま、「石鎚の霊峰」がしきりに気になる。 「澗水(かんすい) 一杯 / 朝(あした)に命(めい)を支え / 山霞一咽(さんかいちいん)/ 夕に神(しん)を谷(やしな)ふ」(朝には清らかな水を飲んで命を支え、夕には山の気を吸って霊妙な精神を養う)(9-10頁) 「高野往来」 以降、四国路がにわかに迫ってきた。 以下、「 辰濃和男『四国遍路』岩波新書_ まとめて」です。 ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」私のへんろ道です。 ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」動詞を大切にする。 ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」履く ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」再会 ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」セエーカイセエーカイダイセエーカイ この項はこれくらいで勘弁していただき、 「読む」を「書く」に優先させていただくことにする。 手に...

「富嶽遥拝の旅_小夜の中山_たなびく雲」

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晴れると信じていた。疑う余地は微塵もなかった。 2021/12/09 いまだ明けやらぬころ出立した。 ◆「EXPASA 浜名湖」  ひと眠りし、目を覚ますと、雲ひとつない青空が広がっていた。湖面は静まり、冬の陽光を反射して、まぶしかった。対岸には舘山寺温泉が見晴らせた。 観覧車の半円が小高い山の上から顔をのぞかせ、また一方の頂では、「浜名湖オルゴールミュージアム」がたたずんでいた。  幾度もお邪魔した 「ホテル 九重」 さんから見た景色を、ちょうど反対の位置に立って望んでいる格好だった。  2021/10/31 をもって、「ホテル 九重」さんは、営業を終了した。もう新たな思い出を紡ぐことはできず、過去の思い出だけが残された。  陽だまりのベンチに座り、去来する思いに身をまかせていた。 ◆「道の駅 掛川」  駅内の「山の坊」さんで、「遠州そば」と「自然薯とろろ汁」をいただいた。 ◆「小夜の中山」  再訪だった。前回は、2021/09/29 に訪れている。 「2021/09/29_富嶽遥拝」    あるべきはずの富士の嶺(ね)が見当たらず、あわてた。しばらくすると頂上の一角が見えはじめた。山全体をすっぽり覆っていた白雲が南西の風に吹かれ、右から左へとゆっくり動いていた。棚びく雲の切れ切れから、頂上が姿を現しはじめた。想像以上に雄大だった。その雄姿は神々しかった。 「2021/12/09_富嶽遥拝」   二時間ばかり見つめていたが、たなびく雲は間断なく続き、晴れわたることはなかった。 この夏、 ◇ 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 ◆「西行」 を読み、 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 を読んだ。 「「彼(西行)は、歌の世界に、人間孤独の観念を、新たに導き入れ、これを縦横に歌い切った人である。孤独は、西行の言わば生得の宝であって、出家も遁世(とんせい)も、これを護持する為に便利だった生活の様式に過ぎなかったと言っても過言ではないと思う。」(小林秀雄「西行」100頁) 「『山家集』ばかりを見ているとさほどとも思えぬ歌も、『新古今集』のうちにばら撒(ま)かれると、忽(たちま)ち光って見える所以(ゆえん)も其処にあると思う。」(小林秀雄「西行」91-92頁) 「  風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな  これも同じ年(西行 69歳)の行脚のうちに詠...

TWEET「脂がのっています」

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昨日の午前中には、P教授から送っていただいた、 ◇ 小津安二郎『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない 』日本図書センター を読み終えました。読み終えるまでに五日を要し、ひとえに過度の「メール」, 「SMS」 でのやり取りが宿痾となっています。アホらし!!  以前、こんなステッカーが車のリアガラスに貼られているのを見たことがあります。  サンマの季節ですね。  小津安二郎監督、野田高梧脚本、笠智衆さん主演の「秋刀魚の味」を思い出しました。小津安二郎監督の遺作となった作品です。「小津特集」に、銀座・並木座に何日か通いました。学生時代、あれは秋の頃のことだったのでしょうか。 ◇ 小津安二郎『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない 』日本図書センター については、項を改めて書きます。 そして、午後には、 ◇ 空木哲生『山を渡る 三多摩大岳部録 4』ハルタコミックス を読みました。  2005/04/26 に出版された、 ◇ 石塚真一『岳(1)』小学館 を読んで以来、山岳コミックを目にすると、つい読みたくなり、読みたくなったら、読むしかなく…。 次回は、これも P教授から送っていただいた、 ◇ 植田重雄『秋艸同人 會津八一の生涯』恒文社 の予定です。大部の図書です。 「扉」の写真の「渡邉文子」は美しく、早速、 ◆「恋愛と卒業」 を読みました。下宿先の雑司ヶ谷界隈の地名も出てきて懐かしく、ひとしきり学生時代の思い出に耽りました。

「大特集 富士山」

 2021/09/16日(木)〜17日(金) に、P教授と河口湖畔の 「ニューブリッヂキャンプ場」 に行く予定だったが、台風 14号の接近のため、2021/09/27日(月)〜28日(火)に延期した。急遽決定し、急遽延期した。いつものことである。 この夏、 ◇ 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 ◆「西行」 を読み、 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 を読んだ。 「「彼(西行)は、歌の世界に、人間孤独の観念を、新たに導き入れ、これを縦横に歌い切った人である。孤独は、西行の言わば生得の宝であって、出家も遁世(とんせい)も、これを護持する為に便利だった生活の様式に過ぎなかったと言っても過言ではないと思う。」(小林秀雄「西行」100頁) 「『山家集』ばかりを見ているとさほどとも思えぬ歌も、『新古今集』のうちにばら撒(ま)かれると、忽(たちま)ち光って見える所以(ゆえん)も其処にあると思う。」(小林秀雄「西行」91-92頁) 「  風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな  これも同じ年(西行 69歳)の行脚のうちに詠まれた歌だ。彼が、これを、自賛歌の第一に推したという伝説を、僕は信ずる。ここまで歩いて来た事を、彼自身はよく知っていた筈である。『いかにかすべき我心』の呪文が、どうして遂(つい)にこういう驚くほど平明な純粋な一楽句と化して了(しま)ったかを。この歌が通俗と映る歌人の心は汚れている。一西行の苦しみは純化し、『読人知らず』の調べを奏(かな)でる。」(小林秀雄「西行」106-107頁) 「 あづまのかたへ、あひしりたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔に成たりける、思出られて   年たけて又越ゆべしと思いきや   命なりけりさやの中山  」(白洲正子『西行』265頁) 「小夜の中山の歌と、富士の歌は、私にはひとつづきのもののように思われてならない。昼なお暗い険阻な山中で、自分の経て来た長い人生を振返って「命」の尊さと不思議さに目ざめた西行は、広い空のかなたに忽然(こつぜん)と現れた霊峰の姿に、無明(むみょう)の夢を醒(さ)まされるおもいがしたのではないか。そういう時に、この歌は、一瞬にして成った、もはや思い残すことはないと西行は感じたであろう。自讚歌の第一にあげた所以(ゆえん)である。(白洲正子『西行』270-271頁)  数年来...

井筒俊彦「言語哲学としての真言」

今日の午後、 ◇ 井筒俊彦『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ』慶應義塾大学出版会 ◆「言語哲学としての真言」 を読み終えた。前掲の、 ◆ 「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」 と比較し、洗練された内容のものとなっている。  天籟(てんらい)、人間の耳にこそ聞えないけれども、ある不思議な声が、声ならざる声、音なき声が、虚空を吹き渡り、宇宙を貫流している。この宇宙的声、あるいは宇宙的コトバのエネルギーは、確かに生き生きと躍動してそこにあるのに、それが人間の耳には聞こえない、ということは、私が最初にお話しいたしました分節理論の考え方で申しますと、それが絶対無分節の境位におけるコトバであるからです。絶対無分節、つまり、まだ、どこにも分かれ目が全然ついていないコトバは、それ自体ではコトバとして認知されません。ただ巨大な言語生成の原エネルギーとして認知されるだけです。しかし、この絶対無分節のコトバは、時々刻々に自己分節して、いわゆる自然界のあらゆる事物の声として自己顕現し、さらにこの意味分節過程の末端的領域において、人間の声、人間のコトバとなるのであります。  このように自己分節を重ねつつ、われわれの耳に聞える万物の声となり、人間のコトバとなっていく宇宙的声、宇宙的コトバそれ自体は、当然、コトバ以前のコトバ、究極的絶対言語、として覚知されるはずでありまして、こうして覚知されたあらゆる声、あらゆるコトバの究極的源泉、したがってまた、あらゆる存在の存在性の根源であるものを、真言密教は、大日如来、あるいは法身として表象し、他の東洋の諸宗教はしばしば神として表象いたします。(442-443頁) (註) 天籟:『荘子』の「内篇」第二「斉物論」に出てくる、「虚空、すなわち無限に広がる宇宙空間を貫いて、色もなく音もない風が吹き渡っている。宇宙的な風、これが天籟です。」(441頁) 『空海の風景』_井筒俊彦 読書覚書 2018/03/30 「空海の風景」が突然ひろがった。思いもかけないことだった。井筒俊彦の透徹した眼には、至極当然の配列なのだろうが、事物相互の関連が寸断され、事物が箇々別々に映っていた私にとっては、唐突な出来事だった。  井筒俊彦が語るのは哲学である。払拭され昇華されたものが、共時的に把捉されているのがうれしい。  信仰なき、寄る辺なき私にとって、井筒俊彦...

TWEET「 『山の日』に山を思う」

「山の日」に山を思うほどのことでは、頂上に立つことはできず、渓流釣りも儘ならない。  せめて、山岳図書をコミックを、テンカラ釣りの、トラウトミノーイングの書籍を再読三読し、また登山用品と、釣り道具と戯れる、私の場合どうしてもインドアになってしまう。  テンカラの、トラウトミノーイングの試投は、この過酷な夏空の下では危険であり、目と鼻の先を流れる豊川(とよがわ)での、空が白む頃を待っての、夏ハゼ釣りがせめてものことであるが、あいにく夏ハゼは朝寝坊である。 やまへ行きたしと思へども  やまはあまりに遠し せめては新しき背廣をきて きままなる旅にいでてみん。  猛威を奮うこのコロナ禍の下に、「きままなる旅」は許されず、また「 新しき背廣を」誂える余裕もなく、泣きべそをかいている。

本田靖春『評伝 今西錦司』山と溪谷社 _その一

 2021/05/14 の夜、 霊長類学者の河合雅雄さんの訃報に接し、その後 長い間 積読したままになっていた、 ◇ 本田靖春『評伝 今西錦司』山と溪谷社 「 発行日 1992年12月1日 初版第一刷」 の奥書がある、古参の単行本を読みはじめ、昨日(2021/05/19)の明け方、読み終えた。  積読したままの書籍が息を吹き返す、生きることは、私にとって非常にうれしいことである。では徒らに、積読したままになっている書籍を読めばいいのかといえば、それは見当はずれである。  70頁ほど読み終えたところで、本書は「評伝」であり、出版社は「山と溪谷社」であることに思いをいたした。本田靖春は元読売新聞社の 記者であり、本書には多くのインタビュー記事(今西錦司評等々)の記載があり、また 出版社が「山と溪谷社」だけに、 今西の手法であった「学術探検」の「探検」に重きがおかれていることを再認識した。 ◇ 本田靖春『評伝 今西錦司』山と溪谷社 は、 ◇『山と溪谷』1989年10月号から1911年12月号 に連載された特集が、単行本として発行されたものである。ただし、 本田の病のために、2度におよぶ、計13か月の「休戦」をやむなくされた。  今西錦司の「学術的業績」、膝下からの「数多くの優秀な学者の輩出」、その「リーダーシップ」は認めるが、人となりは好きになれず、どんなものかと昨日から彷徨っていた。  武士には馴染みがあるが、町人気質(かたぎ)については本書を通してはじめて触れた。今西錦司は、「『錦屋(にしきや)』という西陣でも有数の織元」の家に生まれた、典型的な町人の血筋をひく者である。  簡潔にいえば、「武士道」は成立するが、「町人」には道らしきものはなく、よって好みではない、ということである。  今西を非難、批判する声ばかりが目立つ、しかし尊敬に値するからついていく。短所を補ってまだ余りある、ここに今西錦司の摩訶不思議さがある。   人格と業績は別個であることは、よくわきまえていますが、 今回はこれくらいにさせていただきます。   今しばらく彷徨することにいたします。  なお、河合雅雄は、「第9章 霊長類研究グループ」(285頁)から登場します。河合は、「類人猿の中でもとくに(チンパンジーやオランウータンよりも)ゴリラが人に近い」(302頁)と今西に進言している。これがゴリラ探索...

TWEET「庇を貸して」

  一昨日、 開高健「文房清玩」 について書いたが、 (昔の中国の文人が硯や筆や紙に凝って一人で書斎で楽しんでいた様子を「文房清玩」と表したと、小説家開高健は自著の中で何度か語ってきた。) 「文房清玩」には順位があり、まず自室を清浄に保つ必要がある、との思いから、昨日部屋を入念に掃除した。足元に散らかしてあった書籍をベッドの上に乗せることからはじめた。調度品は掃除がしやすいように並べてあるが、日頃の運動不足(運動皆無)がたたって、すぐに疲れ、一服ばかりしていて、いっこうにはかどらなかった。午前中の早い内からはじめて、終わったのは夕刻だった。  その後、愛玩用の、 ◇「 ペリカン 万年筆  M205 DUO イエローデモンストレーター」 ◇「ペリカン 万年筆 M205 DUO シャイニーグリーン」 と、卒業論文を書く際に購入した、ひどく傷んだペリカンの万年筆に加えて、二本の吸入式の万年筆を洗浄した。こちらの手入れはいっこうに苦にならなかった。いま陰干し中である。  さらにその後、「釣具清玩」。禁断のルアーボックスの蓋を開けた。 日がな矯めつ眇めつ、あるいは手に取って戯れ、ニタニタし、飽きもせず、開高先生におかれましても、なかったとは到底考えられない「清玩」癖である。  時計に眼をやれば深更で、あわてて寝ようと思えば、ベッドの上は書籍にすっかり占有され、庇を貸して、すっかり母家を取られた格好だった。 かたずけるのも面倒で、テントマットを敷き、シュラフ(寝袋)を被って畳の上に寝た。この事態も「清玩」と思えば「清玩」であり、折角なので、今夜からは「ヘリテイジ トレイルシェルター」内で寝ようかと思っている。上等なひとり寝である。  「清玩」とは、行住坐臥、これ気品に極まる、と独り合点している。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / 重ね重ね 折々の記_12』: 〜小林秀雄編〜」

つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / 重ね重ね 折々の記_12」: 〜小林秀雄編〜」 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。   小林秀雄の文章の美しさは、語の配列の美しさにある。ときに配される、落ち着きを欠いた語に、はっとさせられる。破調の「美」である。「神さま」の適材適所に狂いはない。   小林秀雄の文章に真偽を問うのは愚かである。日本語が、これほど精緻な「美」を成すことにまず驚く。「美」は、詮索に堪えない。 『真贋』を読みつつ、「真贋一如」ということを思った。「真贋」は、相補的な関係にあり、混然一体となっているところにおもしろみがある。「贋」なくして「真」はたちまちのうちに姿を晦(くら)ます。これほどつまらない世界はない。 「では美は信用であるか。そうである。」   あまたの「西行論」のなかで、私は小林秀雄の繙(ひもと)く、懊悩する西行の「美」の変遷を「信用」する。「美」は真偽の判断を竢たない。ひとえに「信用」の問題である。

TWEET「美、その明らかなること」

昨年来、 ◇『山と溪谷 大特集 富士山 2019 No.1015 11』山と溪谷社 を読んでいる。  月刊誌「山と溪谷 」は広告が多く、ときに「山と広告」と揶揄されるが、「大特集 富士山」はいつになく読みごたえがある。  私の専らの関心事は、 「信仰 霊峰としての歴史」 にあるが、思いがけずも、たとえば、 ◇ 葛飾北斎「富士越龍(ふじこしのりゅう)」 というも、 ◇ 伝雪舟「 富士美保正見寺図(ふじみほのせいけんじず)」 というも、 ◇ 棟方志功「富嶽頌 赤富士の柵(ふがくしょう あかふじのさく )」 というも、また、 ◇ 横山大観「耀八紘(ようはっこう)」 を見る につけ、美とは明らかなることである、とつくづく思う。  富士の裾野は広く、この先に広がる沃野を楽しみにしている。

TWEET「ごまめの歯ぎしり」

 このひと月あまり、煤払いをしています。毎日塵埃にまみれています。塵芥(ちりあくた)の類と呼ばれるもまたよし、と思っています。  その間乱雑に読み継ぎ読み継ぎ、いま、 ◇『山と溪谷  大特集 富士山 2019 No.1015 11』山と溪谷社 ◇ 信濃川日出雄『山と食欲と私 9(鮎美の富士山リベンジ編 ①~④)』新潮社 にたどり着きました。一年前と同じ地平に立ち、威容を仰いでいます。  十六夜の月を拝しながら、ごまめの歯ぎしりです。