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白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫_まとめて

◆ 左上の「メニューボタン」をクリックしてください。「サイドバー」が開きます。 ◆ 右上には「検索窓」があります。 ◆ 青色の文字列にはリンクが張ってあります。クリック(タップ)してご覧ください。 ◇  青山二郎「意味も、精神も、すべて形に現れる」 ◇  小林秀雄「梅原さんの言葉は絵なんだ」 ◇  白洲正子「彼らが教えたのは命の限り生きることだった。生を楽しむことであった」 ◇  小林秀雄「それが芸というものだ」 ◇  白洲正子「『かさね色目』_王朝文化は日本の美の源泉」 ◇  白洲正子「遊鬼 鹿島清兵衛」

「正岡子規 生誕150年_教育を語る」9/9

「師弟の風景 吉田松陰と正岡子規をめぐってーー大江健三郎」 司馬遼太郎『八人との対話』文春文庫   大江  僕はいちばん最初に言ったように、教える側には一度もならなくて、もっぱら教わる側でしたが、自分が教育にかかわる何かができるとすれば、具体的にあの人は、松陰は、子規は、あるいは渡辺一夫は、吉川幸次郎は、このように実際の振舞いとして、実際のパフォーマンスとして教育したということを、自分も学びたいし、それを次の人に伝えたいわけです。  具体的にこういう教育家のイメージがあり、また実際の振舞いがあって、ここに教育というものの流れがある、ということを基本に置かなければ、教育について何か言ったりすることはもっとも危険だと思うんです。   司馬  そうですね。先生のパフォーマンスというのは、教育を受ける側にしてみればほぼそれだけを覚えていくものでしょうが、それは教育する側が自然にパフォーマンスになっていくからで、それはおそらく大変な緊張の結果、ーー緊張というのは複雑な意味なんですがーーできるわけですね。だから職業としての教育はむろん存在しなければならないものでしょうが、職業意識というものはあまり教育にふさわしくないですね。松陰も子規も職業で周囲の人たちを教えていったわけではないのですから。教育者はある意味でどうしても職業的にならざるを得ないでしょうが、職業をはずして教育とは何かを考えてみると、いつもどこかで二律背反の緊張があるという必要があるかも知れませんね。  子どもっていうのは、僕らのようなバカな子どもでも、不思議に先生の優劣、精神の高低がわかるんですね。この先生はダメだっていうのがわかる。一つの教室にレントゲン撮影機が何十個もいるわけで、そんなことを思うと、教育は人間の社会の中でいちばんこわいテーマですね。(157-158頁)

「正岡子規 生誕150年_磁場としての座」8/9

赤尾兜子「空海・芭蕉・子規を語る」 司馬遼太郎 対話選集 2 『日本語の本質』文春文庫 「子規のたおやめぶり、芭蕉のますらおぶり」 「磁場としての座」   赤尾  これは、僕の方から司馬先生に一度たずねたいと思っていたのですがね。俳句は「座」の文学であり、「連衆の文学」といわれ、それがまた世界でも珍しいかけがえのない特色ですが、どうでしょう。蕉門の「座」を見ると、芭蕉という師がその座に加わることによって、その座の人たちの作がぐっとレベルアップしている。「七部集」を読むと、しきりにそう思うんですが…。   司馬  人間というものは、人間が好きでしょう(笑)。とくに精神がえきえきとして光っているような人間に出くわすと、どうしてもその人の磁場の中に月に一度でも入っていたい気がする。自分まで磁気を帯びてきて、意外な面を出してしまう。短歌もそうですが、俳句はその契機を作ってくれるわけで、それを介してその人のそばに寄ってゆくことができる。すぐれた俳人で個人作家として終始される人もなければなりませんが、師匠は磁場を作れる人であることが望ましいですな。芭蕉も子規も磁場を作りえた人で、弟子たちはもうその中にいてその座にいるときだけだけでも磁気を帯びている自分がうれしくてしようがない。  短詩型というのはサロン芸術だといわれますが、僕もそうだと思います。しかし人格もしくは精神像として磁場を作れない人は、やはり師匠になってはいけませんな。其角(きかく)なども芭蕉の磁場の中で磁気を帯びた人で、芭蕉の死後は、磁気が去っている。そういう面が短詩型の世界にはーーよくわからんがーーあるのと違うかしら。   赤尾  おっしゃるとおりです。いまの俳句の世界には、その“座”の指導者の一部に月並的退廃も出てきているようで、人ごとならず、心せねばならないと思います(笑)。(124-125頁)

「正岡子規 生誕150年_子規,漱石と文章日本語」7/9

2019年は、子規の生誕150年に当たります。 赤尾兜子「空海・芭蕉・子規を語る」 司馬遼太郎 対話選集 2 『日本語の本質』文春文庫  司馬 (前略)泉鏡花はいいが、しかしあの文章では、ロッキード問題は論じられない(笑)。しかし夏目漱石の文章は恋愛でも外交でも論じられるしルポルタージュでもやれるといういわば万能性をもっているという点であの時代にはきわめてめずらしい。そういう文章を手づくりで完成したところに、漱石の大きさの一つがあると思います。しかし子規もそうですね。子規も、みなが共有していいーーいろんなことを表現できるーー文章日本語をつくり上げたと思うんですが、そういう点を子規はあまり認めてもらっていない。(99-100頁)  司馬 (前略)ところでその面での一完成者である子規がね、あれは漱石の文章よりも非常に漢語が少ないでしょう。  赤尾 そう、そう。  司馬 そして、漱石の文章よりもしなやかで、表現の万能性においては漱石の文章と遜色(そんしょく)がない。蘇峰や愛山の文章では愚痴は書けないが、子規の文章では十分にそれが表現できる。たとえば、日常の、庭に陽が射して、鶏頭が……。  赤尾 十四、五本もありぬべし。(101頁)    司馬 それからまた彼は、あまり政論なんかは論じなかったでしょうけども、それも論じることができると思うんですね、あの文章で。ただ、語尾の文語形にわずかに固執しているけどね、だけど文語意識は少なくて。きわめて平易な文章をつくりあげた。まあ僕は子規の業績の一つは散文だと思うんですけどね。なぜそうかっていうと、ここから向こうは俳句になってくるんだけど……。  結局、彼はリアリズムに固執した人だから、リアリズムっていうのは、万人共有のものですからね。海のヒトデは星形をしているとか、これはもう確かにそうであるし、それから、石っころは多少丸いとか、トンボの羽根は透きとおっているとか、ということは万人共通のものですから、しぜんとその散文まで、わかりやすい散文ができ上がってゆくという……リアリズムの精神というのは、評論でなく、実際に地でそれをやった人というのは、少ないと思うんです。子規は、その最大の一人じゃないか、と思いますね。  赤尾 それは僕も感じますよ。(101-102頁) 下記、 司馬遼太郎「漱石が発明した文章語 です。

「正岡子規 生誕150年_継承」6/9

「師弟の風景 吉田松陰と正岡子規をめぐってーー大江健三郎」 司馬遼太郎『八人との対話』文春文庫   大江   (前略)そしてたとえば、プラトンが同じように若い人たちと話し合って教育するシステムとしてつくったアカデメイア、紀元前三五0年にできたものがユスティニアヌス帝によって潰される紀元後五00年頃まで、だいたい千年ぐらい続くということがあって、ヨーロッパの学問の規範をつくったと思うんです。ある教育がなされ、それを継承していくということもあるんですね。その継承の仕方ということも、教育のシステムを考える上で重要な要素だと思うんです。  虚子はほんとうに継承したわけですね。いちばんパッとしないような生徒だったと思いますけれども。(笑)   司馬  何にしても継承というのは一つの発展でしょうから、正岡子規がやっても高浜虚子がいなければ、日本の短詩型である俳句はもうなかったでしょうね。虚子の人柄には、子規がもっていた書生の清らかさという魅力はなかったですが。(157頁) 赤尾兜子「空海・芭蕉・子規を語る」 司馬遼太郎 対話選集 2 『日本語の本質』文春文庫   司馬  とにかく、自分の短い生涯で背負いきれんようなテーマを、自分はやっているんだ、という場合にね、お前頼むから後継者になってくれ、といやがるのを追っかけ回してでも、ねじ伏せてでも、後継者にしようとする、というのが大体そういう人のーー僕は大変な人間というのは、たいていそうだろうと思います。大変の大を抜いても、変な人間というのはそんなものかもしれない(笑)。大きなテーマを背負い込んでいる、っていうのはやっぱり変な人じゃないでしょうか。背負い込んでしまっている、という感じの。吉田松蔭もそうでしょ。(109頁)   司馬  まあ彼(吉田松蔭)は刑死するんですけれども、どうも若死を予感しているような雰囲気がありますね。それで結局、弟子にのしかかるように、自分の持ってる電池でもって弟子のお腹の中にも充電させようとするんですね。子規も松蔭も、教育者といえば真の意味でそうですけど、せっぱ詰まっているでしょ、教育者というのは職業でもあるでしょうが、かれらの場合はせっぱ詰まってしまっている。(110頁)   司馬  子規というのは、死期を感じてて、自分の生涯をそのまま三十何年なら三十何年と、こう見切ってしまった凄さがあるでしょう。そして...

「正岡子規 生誕150年_教育者とユーモア」5/9

「師弟の風景 吉田松陰と正岡子規をめぐってーー大江健三郎」 司馬遼太郎『八人との対話』文春文庫  大江   独りぽっちで考えるのではなく、グループでものを考える。対話をする。(中略)また、どんな悲惨な状況にいても、グループを通じての話し合い、対話というものはユーモアを生じるもののようですね。(後略)   司馬  (前略)ユーモアというものは、松陰、子規両方に共通していたと思います。      大江  若いグループの中に入りこんで語りかけて、対話を通じてものごとを明らかにしていく上で、彼らのユーモアが生じてくる、というように思われます。(138-139頁)   司馬  (前略)教育の場でユーモアのない人は、やっぱり教育をするのに向かないし、される方も、ユーモア感覚のある人間が教育されやすいかも知れませんね。(140頁)   司馬  人格がある姿として記憶に残るのは、やっぱり温度のあるユーモアが介在する場合が多いんでしょうね。   大江  そうじゃないでしょうか。現代の作家で世界中でいちばん教育的なのはサルトルだったと思います、(中略)  彼は死ぬまで若い人をいつまでも、教育したいと思っているんですね。そして彼は、自分は生まれてこの方、人に対して、微笑しながらでなければ命令することはできなかったと書いています。子どものときから、笑いながらでなければ何かをしようと言えなかったと言っているんですが、その通りだろうと思います。  そして、正岡子規にしても吉田松陰にしても、やはり笑いながら、微笑しながら命令するタイプだったんじゃないかと、僕にはそういう気がします。   司馬  それは共通しているようですね。(141-142頁)

「正岡子規 生誕150年_子規の学問」4/9

「正岡子規 生誕150年_子規の学問」 司馬遼太郎『八人との対話』文春文庫   大江  (前略)そして、やがていい教育者になる人は、こういうふうに子どものときから勉強するんだろうな、ということを、僕は子規にも松陰にも感じるんです。その一つとして、体系として学問を学ばないということがあるんじゃないか。これはもちろん反論がありうるかと思いますけれども。  子規にしても松陰にしても、他人の体系を学ぶのではなく、できるだけ短い期間に、全体を見通せる自分の学問を作らなきゃならないと思っている。それを作るためには、本格的に他人の体系を勉強していくと何十年とかかるわけですから、それはできない。なるたけ短い期間に、世界の見通し、あるいは現実の見通しといってもいいんですが、学問の見通しそのものを自分で作ろうとした。そのための方法として、本を読むにしても、具体的に自分の肥やしにするという意図があって、どんどん本を筆写していった。  子規は二十歳前後に、さかんに他人の本を書き写していますね。松陰も、たとえば彼が二十一歳で書いた『西遊日記』を見ますと、本を書き写すということが何度も出てきます。この書き写すということは、他人の学問を他人の体系として距離をおいて尊敬するんじゃなくて、自分の体系の中に取り込もうとしたための方針だったと思うんです。そしてそれを若い人にすぐさま教えていく。学問の大きい体系、あるいは大きい体系の一部分を、八十になって自分のものにするというのではなく、二十代の前半のうちに、自分として納得できる自分の体系のようなものを作って、それを人に教えていくという態度を、松陰も子規も持っていたように思うんです。   司馬  そうですね。双方、命の短さを知っていましたから。このため教えるというより、大急ぎで、イライラしながら移し植えていくという感じですね。切迫感が、同時に親切という感情と一緒になっていきますから、美文を作るいとまがない感じですね。(136-138頁)

「正岡子規 生誕150年_郷党への愛」3/9

「師弟の風景 吉田松陰と正岡子規をめぐってーー大江健三郎」 司馬遼太郎『八人との対話』文春文庫  大江  (前略)そういえば、正岡子規が、愛媛出身の虚子や碧梧桐たちと何か一緒にやっていこうと思ったのも、一種のナショナリズム、愛郷心のようなナショナリズムの発露として考えられます。土地と、そこで生産された人間も含みこんだ、パトリオティズム、いい意味でのナショナリズムというものがあるように思うんです。子規も松陰も、弟子たちを熱情をこめて愛していますね。郷党の若い人たちを愛して、一緒に仕事をしていこうとする。そこに、教育のいちばんいいところがあるし、いちばんいいナショナリズムがあるんじゃないかと思います。(150頁)

「正岡子規 生誕150年_子規のリアリズム」2/9

司馬遼太郎『八人との対話』文春文庫 「師弟の風景 吉田松陰と正岡子規をめぐってーー大江健三郎」  司馬  (前略) 話が少しとびますが、江戸時代中期以後の大画家といえば、与謝蕪村と円山応挙ですが、どっちが偉いかということが昔から言われたんですね。蕪村は南画の骨法をもつ、さっと描いたような絵で、応挙は鶏なら鶏がそこにいるみたいに描く徹底したリアリズム。正岡子規は、蕪村はしゃれてるけど、自分は応挙のほうが好きだといっている。応挙のリアリズムを愛したんですね。  子規の時代には応挙の評価は非常に低下していたんです。蕪村のほうがはるかに上だった。子規には、江戸期に応挙というものがいたな、じゃあ自分もリアリズムをやってもやれないことはないな、と考えるようなところがある。リアリズムをやることが、日本の社会にとってぜひ必要であると考えたんですね。西洋にはとても追いつきそうにないこの社会、明治維新は起したけれど、内実はボロボロになっている社会。なぜ西洋とのあいだにこれだけ開きができたのか。要するに、日本の文章、絵画、すべてにリアリズムがない。日本のダメなところはこれだと子規は考える。それで応挙が大事だと思い、新しいリアリズム論を展開して弟子たちに教えるわけです。そのへんがまた、体質的に吉田松陰に似ているんです。(151-152頁)  大江  (前略)子規は、新しい文学を創ろうと思っていて、そのためにリアリズムが必要だと考えている。(153頁)  大江  (前略)松陰にしても子規にしても、時代が変わっていくということをよく知っていたし、時代が変わっていくとき自分が責任をとってある新しいものを創りださなければならないと考えていたわけですね。松陰は新しい時代そのものを創ろうと思っていたでしょうし、子規は文学を改革しなければならないと考えていた。そのために若い人と一緒に、それも友人のような関係をたもちながら、対話しつつ彼らを教育していく。そういうタイプの人が、子規であり松陰であったはずだと思うんです。  教育というものを考えるとき、教育する人間が時代は変わりつつあると思っている、そしてアクティブに自分の力で何かを創造しようと考え、若い人たちにそれへの参加を求めるという教育が、一つの原理のようにあると思うんです。(156-157頁)  司馬  松陰と子規のあいだに、さきほどあげたことのほかに...

「正岡子規 生誕150年_まとめて」1/9

「夏目漱石 生誕150年_まとめて」 を書いた後、 「子規・漱石 生誕150年記念の取り組み 松山市ホームページ」 をみて、子規も生誕150年にあたることを知りました。  子規との馴染みはうすく、先日、 ◇ 司馬遼太郎『八人との対話』文春文庫 「師弟の風景 吉田松陰と正岡子規をめぐってーー大江健三郎」(123頁) を読み、 ◇ 司馬遼太郎『坂の上の雲』文春文庫 を冬季休暇に読むべく、古書を物色し、目星をつけたところでした。『坂の上の雲』は、司馬遼太郎が自作品中、第一に推す大作です。  昨夜、「師弟の風景 吉田松陰と正岡子規をめぐってーー大江健三郎」を読み直しました。そして、『坂の上の雲』を注文しました。  諸事情が重なり、はるかに『坂の上の雲』をのぞみながらの、「去年今年(こぞことし)」です。 下記、 「正岡子規 生誕150年_子規のリアリズム」 「正岡子規 生誕150年_郷党への愛」 「正岡子規 生誕150年_子規の学問」 「正岡子規 生誕150年_教育者とユーモア」 「正岡子規 生誕150年_継承」 「正岡子規 生誕150年_子規,漱石と文章日本語 「正岡子規 生誕150年_磁場としての『座』」 「正岡子規 生誕150年_教育を語る」 です。 また、下記、 高浜虚子「去年今年貫く棒の如ききもの」 です。

正岡子規「藤(ふじ)の花ぶさみじかければ」0/9

藤の花が咲きはじめました。 玉城 徹(たまきとおる)「短歌を味わう」 光村図書出版『国語 2』 (平成18年発行の中学校二年生の国語の教科書) 瓶(かめ)にさす藤(ふじ)の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり   正岡子規 「瓶にさしてある藤の、その一つ一つの花の房は、ただ力なくだらりと下がるのではない。命をもった花の房が、空中にその力を結び止めるのである。」 「正岡子規は、病床の低い視線から瓶にさした藤の花を見やって、その美しさを、このようにとらえたのである。」  玉城徹のすてきな解釈である。みごとに「生」を「写」しとっている。  ヘリコプタは、ホバリング(停止飛行)時に、最も多くのエネルギを消費します。私は、このような例をあげ、この句の解説をしていました。

會津八一「学規」

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昨夜(2024/02/28)、P教授から、 ◇ 會津八一「学規」 を読んでください、との SMSが届いた。 「Aizu Museum 早稲田大学 會津八一記念博物館蔵」 学規 一 ふかくこの生を愛すへし 一 かへりみて己を知るへし 一 学芸を以て性を養うへし 一 日々新面目あるへし 秋艸道人 法隆寺では、 「いかるが の さと の をとめ は よもすがら                      きぬはた おれり あき ちかみ かも」 また、中宮寺では、 「みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の                       あさ の ひかり の ともしきろ かも」 そして、唐招提寺では、 「おほてら の まろき はしら の つきかげ を                       つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ」 の歌碑との出会いがあった。       P教授から贈っていただいた、 ◇ 植田重雄『秋艸道人 會津八一の生涯』恒文社 が、読みかけになっている。そろそろ通読する時期か、と思っている。

「玉葱畑のある風景」

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2020/09/10  昨日 無事に「弥生病院」さんを退院し、「介護老人保健施設 みのり」さんに入所しました。  父も私も自宅での生活を希望していましたが、五回目、六回目の転倒・入院は目にみえていて、打ちどころが悪ければ命取りになりかねない、ということで入所することに決めました。「みのり」の相談員のKさん には、威夫さんは私が説得しに行きます、とまで言われました。  父が大切にしまってあったお手紙、読ませていただきました。どうもありがとうございました。  父の転院から二か月あまりが経ち、K市はすっかり秋の装いですね。異例づくめだった夏の疲れを癒してくださいね。当地では、残暑に、秋雨、台風と波乱含みの季節が続きます。  簡単ですが、取り急ぎましてお礼、またご連絡まで、とさせていただきます。S君にも、その旨よろしくお伝えしてください。 では、では。 くれぐれもお大事になさってくださいね。 ご自愛ください。 ご返信ご不要です。ご心配ご無用です。 勇夫 2020/09/11  いつも変わらぬ父へのお心づかい、どうもありがとうござます。  一昨日の夕方、突然 暗雲が立ち込め暴風雨に 見舞われました。雷鳴が轟き地が震えました 。はじめての経験でした。ニュースで流れた、とは思いもよらぬことでした。昨日の昼にも雷雨がありました。天候不順です。 「玉葱畑のある風景」  収穫を待つばかりの玉葱畑と収穫後のコンテナのある風景、遠景の「ヤマダ電機」さんの看板も彩りを添え、最高の仕上がり具合ですね。コスモス畑とひまわり畑に描かれたハートのマークの対照といい、一面のコスモス畑といい、そして何よりも青空。どれを取ってみても確かに北海道で、四季折々のK市発の画像に、感謝しています。  冬支度も間近とのこと、初雪が舞うのが楽しみですね、と最後に無責任なことを申し添えておきます。 寒暖差の大きな季節、うまく順応してくださいね。 早々のご丁寧なご返信、どうもありがとうござました。 くれぐれもお大事になさってくださいね。 ご自愛ください。 勇夫

鈴木孝夫『日本語と外国語』岩波新書_「緑のリンゴ」

鈴木孝夫『日本語と外国語』岩波新書 「真の国際理解を進める上で必読の、ことばについてのユニークな考察」 「ところが、リンゴといえば赤ではなく、緑と決まっている国があるのだ。その代表はフランスである。」 「よく日本人は、ある事物を形容するとき、《リンゴのような》とか《リンゴみたいに》という比喩を使う。いうまでもなく、それが意味するところは、何かが赤い、真赤だということである。」 「大変面白いことに、フランス語にも、まさに《リンゴのような》に当る comme une pomme という比喩がある。」 「フランス語には《リンゴのように丸い》という意味の慣用句があって、その用例としてヴィクトル・ユーゴーの作品から〈リンゴのような頬をした可愛い元気な男の子〉という文を引いている。したがって、ここでの《リンゴのように》は、明らかに色(緑色)ではなく、事物(頰)の丸さを表現しているわけだ。」(28-33頁)

白洲正子「なんという転倒、なんという気宇」

「ぜいたくなたのしみ」 白洲正子,牧山桂子 ほか『白洲正子と歩く京都』新潮社  この春はお花見に京都へ行った。あわよくば吉野まで足をのばしたいと思っていた。ところが京都へ着いてみると、ーー私はいつもそうなのだが、とたんにのんびりして、外へ出るのも億劫になり、昼は寝て夜は友達と遊んですぎてしまった。花など一つも見なかったのであるが、お天気のいい日、床の中でうつらうつらしながら、今頃、吉野は満開だろうなあ、花の寺のあたりもきれいだろう、などと想像している気持は、また格別であった。 「皆さん同じことどす」といって、宿のおかみさんは笑っていた。二、三日前には久保田万太郎さん、その前日は小林秀雄さんが泊っていて、皆さんお花見を志しながら、昼寝に終ったというのである。  京都に住むHという友人などもっとひどい。庭に桜の大木があるが、毎年花びらが散るのを見て、咲いたことを知るという。千年の昔から桜を愛し、桜を眺めつづけた私たちにはこんなたのしみ方もあるのだ。お花見は見渡すかぎり満開の、桜並木に限らないのである。(「お花見」より抜粋)(70頁)  花に誘われ京へ、そして木も見ず森も見ず、「皆さん同じことどす」と、昼寝を決めこむとは、なんという転倒、なんという気宇。飛び抜けていて、すてきです。

小林秀雄と谷崎潤一郎の『文章読本』

谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫  当書には、志賀直哉『城の崎にて』からの引用がある。また、「故芥川龍之介氏はこの『 城の崎にて 』を志賀氏の作品中の最もすぐれたものの一つに数えていました」(27頁)との一文がみられる。 「こゝには温泉へ湯治に来ている人間が、宿の二階から蜂の死骸を見ている気持と、その死骸の様子とが描かれているのですが、 それが簡単な言葉で、はっきりと現わされています。 (中略)  この文章の中には、何もむずかしい言葉や云い廻しは使ってない。普通にわれわれが日記を附けたり、手紙を書いたりする時と同じ文句、同じ云い方である。それでいてこの作者は、まことに細かいところまで写し取っている」(27頁) 「一体、簡潔な美しさと云うものは、その反面に含蓄がなければなりません。 単に短かい文章を積み重ねるだけでなく、それらのセンテンスの孰れを取っても、それが十倍にも二十倍にも伸び得るほど、中味がぎっしり詰まっていなければなりません」(139頁) ○ 含蓄について 「 含蓄 と云いますのは、前段「品格」の項において説きました「饒舌を慎しむこと」がそれに当ります。なお云い換えれば、「イ あまりはっきりさせようとせぬこと」及び「ロ 意味のつながりに間隙を置くこと」が、即ち含蓄になるのであります」 (218頁) (中略) この読本は始めから終りまで、ほとんど含蓄の一事を説いているのだと申してもよいのであります。 (219頁) 井伏君の「貸間あり」 小林秀雄『考えるヒント』文春文庫 「作者は、尋常な言葉に内在する力をよく見抜き、その組合せに工夫すれば、何が得られるかをよく知っている。彼は、そういう配慮に十分自信を持っているから、音楽からも絵画からも、何にも盗んで来る必要を認めていない。敢えて言えば、この小説家は、文章の面白味を創り出しているので、アパートの描写などという詰らぬ事を決して目がけてはいない。私は、この種の文学作品を好む」(35-36頁) 「彼の工夫は、抒情詩との馴れ合いを断って、散文の純粋性を得ようとする工夫だったに相違ない」(40頁) 「正宗白鳥の作について」 『小林秀雄全作品 別巻2 感想 下』新潮社 「(内村鑑三の)極度に簡潔な筆致は、極度の感情が籠(こ)められて生動し、読む者にはその場の情景が彷彿(ほうふつ)として来るのである」(230頁) 「(内村鑑三『...

倉田卓次「『四隅の時間』を惜しむ」4/4

「本を読む場所」(41-50頁) 倉田卓次『裁判官の書斎』勁草書房  「私の読書法」(131-140頁) 倉田卓次『続 裁判官の書斎』勁草書房   今回は「四隅(しぐう)の時間」を惜しんでの読書です。裁判官時代の倉田卓次の一日の「四隅の時間」は、「平均四十分」であって、「平均四十分」にしてこの豊かさですので、驚きもし、また考えさせられもします。  なお、「四隅の時間」とは、「旅行鞄にものを詰めるとき、もう入らぬと思っても、四隅にはまだ小物をつめるスペースは必ずある。余暇利用も、休暇をまとめて取ることばかり考えず、この四隅の小さな時間の利用を心掛けよという教え」のことであって、「四上」とは、「文章を練るに適するとして古く人が勧めた場所で」「『馬上枕上厠上(しじょう)』のいわゆる『三上(さんじょう)』」に、「馬を車に改めた上、『路上』を加えて『四上』とし」た、と倉田卓二は書いています。 私に欠けているものは、寸暇を惜しんで、ということです。

「書生の読書」3/4

山村修『増補 遅読のすすめ』ちくま文庫 「緒方洪庵の塾で、塾生たちには昼夜の区別がなく、蒲団をしいて枕をして寝るなどということは、だれも一度もしたことがない。読書にくたびれて眠くなれば、机に突っ伏して眠るばかりだったと、『福翁自伝』に書かれていたのを思い出す。これが書生の読書である。」  これに対して、倉田卓次の読書は「社会に出ている人」,「特殊ではない一人の生活人の読書」である。「そこに生活人の読書の手本を見たように思った。」(111頁,144頁)  大学予備門(第一高等中学校、後の第一高等学校)へと進んだ正岡子規と秋山真之(さねゆき)の読書は、「書生の読書」を地で行くものだった。( 司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』文春文庫 )  それに比し、時ところを選ばず、読み散らかしている私の読書は、年甲斐もなく、「生活人」のそれではなく、「書生っぽの読書」とでもいえる亜流のものである。やむに止まれず、救いようのないものと諦めている。 下記、ご参考まで。 倉田卓次『続 裁判官の書斎』勁草書房 

倉田卓次「馬上枕上厠上」2/4

「文章を練る場所」 倉田卓次『裁判官の書斎』勁草書房  「『馬上枕上厠上(しじょう)』のいわゆる『三上(さんじょう)』は、本来、 文章を練るに適するとして古く人が勧めた場所で」 と倉田卓次は書いています。 (49-50頁)  自動車を運転中の「車上」は、すてきな出会いに満ちていますが、時折 信号を見落とし、道順を間違え、そして時には、立体駐車場の順路を誤って逆走したりもしています。決して他人(ひと)にはお薦めできませんが、波乱に富んだ「車上」を外すことはできません 。

山村修『増補 遅読のすすめ』ちくま文庫(全)1/4

山村修『増補 遅読のすすめ』ちくま文庫  勝間和代さんが時の人となる少し前、彼女のその読書量に驚き、速読術について真剣に考えた時期がありました。しかし、時を待たずして、斎藤孝さんの本に「頭で読む本」,「心で読む本」と書かれているのを読んで、「頭で読む本」を読む習慣のない私は、いつもの自分のペースの読書にとどまりました。そして、今回は、山村修さんの「遅読」です。霜月に入って最初の一冊です。 山村修『増補 遅読のすすめ』ちくま文庫 (「狐」は、山本修さんのペンネームです。)  先日、漱石の『吾輩は猫である』を読んでいると、ほとんどラストに近いあたりで、次の一行が目にふれた。  呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。  この小説を読むのは三度目である。一度目は高校生のころ、二度目は二年ほどまえのこと。一度目の高校時代ははるかな昔のことで、みごとなくらい内容の記憶は失われているから除外するとして、二度目に読んだとき、この一行には気がつかなかった。 (中略)  前回は気がつかなかった。そのときはたぶん、右の痛切ともいえる一行は目をかすめただけである。読んで感銘を受けたけれども忘れてしまったというのではない。目には映っているが印象をとどめない。なぜだろうか。答えはきまっている。速く読んだからだ。(11-12頁)  一度、真昼ごろ、野原のまんなかで、古ぼけた銀のランプに陽の光がはげしく射すころおい、小さな黄色の布カーテンの下から、あらわな手が一つ出て、千切れた紙ぎれを投げた。それはひらひらと風に散って、その向うに今をさかりと咲いている赤爪草(あかつめぐさ)の畑へ、白胡蝶のように舞いおりた。(フローベール,伊吹武彦,訳『ボヴァリー夫人 (上)』岩波文庫) (中略)  いや、なんであっても、白い紙が蝶のようにひらひら舞うという、そのことだけで、馬車という密室での官能的なできごとが露わになっている。  三度目に読んだとき、ようやくその一節に感動した。もとよりうかつなたちである。一度目も二度目もゆっくりと読んではいるのだが、十分にゆっくりではなかったのだ。十分にゆっくり読むと、紙ぎれが頭のなかでかたちをなしてくる。馬車の窓から紙ぎれが投げられて風にひらひらと舞うのが、官能の映像として見えてくる。 (中略)  速すぎず、ゆっくり読むと、馬車の窓からあらわれるエンマ...

須賀敦子「遠い霧の匂い」(全)

狐『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』ちくま文庫 「いきなり現れ、去った文学者の残したもの」 須賀敦子『須賀敦子全集 第1巻』河出文庫  十年前の一九九0年、須賀敦子という聞き覚えのない著者が出したエッセー集『ミラノ 霧の風景』(白水社)を読んだ者は、だれもが目をみはらされた。どうやら処女出版らしい。しかしすでに作家の確信ともいうべき力が文章の内にこもっている。イタリアという異邦の風土をめぐる思いが、書き手の内部ですっかり熟成しているのを感じさせられる。つまり私たちの前に、いきなり文学者が現れたのだった。  そうした日常の局面を、須賀敦子はおどろくべき多彩さでエッセーに書いた。そのエッセーの魅力を知るのに恰好の一文といえるのが、本書所収「ミラノ 霧の風景」の冒頭に置かれた「遠い霧の匂い」だろう。このたった六ページの短文には、霧という自然現象をモチーフに、異郷ミラノの土地の感触が、そしてそこに生きることの哀切、痛み、喜び、希望などが、しんしんと身にしみるように書かれている。その後の須賀敦子のおそらくすべてがこの六ページに凝縮されているといっていい。神品。何度読んでもすばらしい。 (104-105頁)  明日には、 須賀敦子『ミラノ 霧の風景』白水社  が届くと思われ ますが、待ちきれずに、図書館へ「遠い霧の匂い」をコピーしに行こうと思っています。図書館にあることは確認しました。9:30 開館です。朝一番に 行こうと考えています。  朝一番で行ってきました。会社勤めの人たちが出社するかのように、「ぞろぞろぞろぞろ」と皆足早に朝一番の図書館に入っていきました。静かな朝を想像していましたので、呆気にとられました。コピーはやめて、 須賀敦子『須賀敦子全集 第1巻』河出書房新社   を借りてきました。帰路、デニーズさんに立ち寄り読みました。「狐」さんが「神品」とまで賞賛した作品を、なぜいままで知らないままにやり過ごしてきたのか、不思議な気がしています。感想は項を改めて書きます。 須賀敦子「遠い霧の匂い」(全文)  つい今しがた読み終えました。三度目です。前回読んだのはちょうど一月前のことでした。回を重ね、作品の味わいが少しずつわかるようになってきました。「狐」さんが評した「神品」へのとらわれから、解き放たれたこともその要因の一つだと思っています。  以...

向田邦子「あいつ、くすぐっちゃお!!」

向田邦子『言葉が怖い 新潮CD 講演』 「金属バット事件を起こしたひと言」 「外国人にとっての言葉の重み」 「森繁さんの二つの名スピーチ」 「らしい言葉」の貧しさ 「江戸落語のしゃれたひと言」 「 “バカ野郎” も “畜生” もあったほうがいい」 川野黎子「向田さんと言葉」 「あいつ、くすぐっちゃお!!」 「古今亭志ん生さん演じる『火焔太鼓』の中で、骨董屋の若旦那が女房にさんざんにこき下ろされ虚仮にされ、その仇(あだ)を討とうと企んでいる場面で、 「帰ったら今日は女房にさんざんご馳走して腹一杯食わせて、あいつくすぐっちゃお」 という言葉が出てくるんですね。」 「あいつ、くすぐっちゃお」という「洒落たひとこと」に対して向田邦子さんは、 「あたたかみ」 「おかしみ」 「情(じょう)」 「人間の愚かさ」 を感じ、 「目頭が熱くなるんですね」 と話されています。 いかにも穏やかで、余裕があり、ユーモアがあます。そして何よりも、相手への心配りがあります。

「パンデミックのさなかにあって_ “愛” 三題」

「ゆでたまご」 向田邦子『男どき女どき』新潮文庫  私にとって愛は、ぬくもりです。小さな勇気であり、やむにやまれぬ自然の衝動です。「神は細部に宿りたもう」ということばがあると聞きましたが、私にとっての愛のイメージは、このとおり「小さな部分」なのです。 マザーテレサ『生命あるすべてのものに』 講談社現代新書 愛の反対は憎しみと思うかもしれませんが、実は無関心なのです。 憎む対象にすらならない無関心なのです。 『ぼくたち地球っこ ― 田沼武能写真集』朝日新聞出版 「いつかお父さんはおっしゃった、誰かを愛する唯一の理由は、理由が無いという事だと。」 福田恆存訳のシェイクスピアの言葉です。  田沼さんは、『田沼武能写真集 ぼくたち地球っこ』の「あとがき」をタゴールの言葉で結んでいらっしゃいます。 「子どもたちはみな「神はまだ人間に失望していない」というメッセージを神さまからもらい、この世に生まれてきた。」 ラビーン ドラーナ・タゴール

大岡信「言葉の力」(全)

大岡信「言葉の力」 2015/09/02  人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとはかぎらない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。  京都の嵯峨に住む染色家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは、淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、華やかでしかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。 「この色は何から取り出したんですか。」 「桜からです。」 と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。志村さんは続けてこう教えてくれた。この桜色は、一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな、上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。  私はその話を聞いて、体が一瞬揺らぐような不思議な感じに襲われた。春先、もうまもなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裏に揺らめいたからである。花びらのピンクは、幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものにすぎなかった。  考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことない活動の精髄が、春という時期に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。しかし我々の限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身...

志村ふくみ『一色一生』_「まあ 極道どすなあ」2/2

志村ふくみ『一色一生』講談社文芸文庫 明治三十四年といえば今から七十年程以前であるが、真紅というよりやや黄味を帯びた赤は燃えさかる炎の色に近く、あくまで静かで、今も深く輝くような紅緋色である。糸一貫目に対して、茜根百貫を要したというこの深茜染は、約一年半の間、百七十回、茜染の煎液とにしごり(榊の一種)の灰汁とを交互に漬け染めを繰り返して染め上げられたものである。その間百六十九回目に失敗すればすべて終りである。その精神の張りは何であったろうか、宮中や伊勢神宮の御用を承るという緊張感からであろうか、若い頃、深見(重助)翁にこの茜染や紫根染、紅染などお教えをいただいている頃、私は深い山で仙人に出会ったような気がして、忽ちこの方を見失ってしまうであろうという不安が強かった。 「まあ 極道どすなあ」といっていられたが、まさに道を極めるということであろうか。  今故人となられた先達の踏んでゆかれた道を何とか見失うまいと願っている自分である。音より早く空を飛ぶ時代にこのような道を追い求めるのは、時を逆に生きることであるかも知れない。深見翁は後継者はいらないのではなく無いのだとはっきりいわれている。 (43-44頁) 以下、ご参考まで。 棟方志功『板極道』中公文庫

志村ふくみ『一色一生』_色即是空 / 空即是色 1/2

志村ふくみ『一色一生』講談社文芸文庫  花は紅、柳は緑といわれるほど色を代表する植物の緑と花の色が染まらないということは、色即是空をそのまま物語っているようにも思われます。  植物の命の尖端は、もうこの世以外のものにふれつつあり、それ故に美しく、厳粛でさえあります。  ノヴァーリスは次のように語っています。   すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。   きこえるものは、きこえないものにさわっている。   感じられるものは感じられないものにさわっている。   おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。 本当のものは、みえるものの奥にあって、物や形にとどめておくことの出来ない領域のもの、海や空の青さもまたそういう聖域のものなのでしょう。この地球上に最も広大な領域を占める青と緑を直接に染め出すことが出来ないとしたら、自然のどこに、その色を染め出すことの出来るものがひそんでいるのでしょう。 (17-18頁)

井上靖『天平の甍』

井上靖『天平の甍』新潮文庫  平成九年三月に唐招提寺を訪れた季節、また平成十四年二月に名古屋市博物館で開かれた 「唐招堤寺金堂平成大修理記念『国宝 鑑真和上展』」 で鑑真和上坐像を拝した季節のことが思い出されます。また、奈良国立博物館『国宝 鑑真和上展 唐招提寺金堂平成大修理記念 公式図録』が手元にあります。  井上博道『東大寺』中央公論社 で、毎月六日には戒壇院千手堂にて、「鑑真講式(がんじんこうしき)」の法会が行われていることを知りました。「鑑真講式」については、 「戒壇院をきずいた鑑真和上の命日(天平宝字七年〔七六三〕五月六日寂)に、唐招提寺に伝わる講式を移し、法会が行われる。和上の渡航の苦心や、伝戒の様子が説かれる。」 との説明があります。月に一度の法会です。鑑真和上への思いがしのばれます。 「天平の甍」に仮託したもの  「天平の甍」の意味するところは、と終始そんなことを考えながら読みました。唐招提寺の甍。東大寺の甍。日本国を鎮め、庇い、護るために身命を屠して渡日した、鑒真和上の表徴としての甍。井上靖が「天平の甍」に仮託したものが、最後に具体的な形をとって現れるとは思いもよらぬことでした。突然さしだされた「解答」にあわてました。推理小説を読んでいるかのようでした。やはり『天平の甍』は「天平の甍」であり、それがすべてであって、この一語につきます。  ブログ上に「謎解きの答え(?)」を載せるのはためらわれ、著者へのまた読者に対して礼を失するのは明らかで、これ以上のことはさしひかえさせていただきます。実際に手にとってご覧になってください。  「二十日の暁方(あけがた)、普照は夢(ゆめ)とも現実ともなく、業行の叫(さけ)びを耳にして眼覚(めざ)めた。それは業行の叫びであるというなんの証(あか)しもなかったが、いささかの疑いもなく、普照には業行の叫びとして聞こえた。」(181頁)  以下に続く描写はあざやかです。一見冴えない端役の業行への井上靖の目配りは細やかで、透明感をともなったありありとした筆致が哀しみを誘います。 『空海の風景』での司馬遼太郎に比すれば、『天平の甍』の井上靖の筆の運びは軽妙で、二作品を日数をおかずに読み、『空海の風景』という「異色」の「風景」に親しんだ私にとっては、『天平の甍』での時の経過は早く戸惑いを覚えました。  滔々と時は流れ、私たちは当代...

「山の上ホテル」_寿司とうなぎと天ぷらと

常盤新平『山の上ホテル物語』白水社  吉田俊男(「山の上ホテル」の創業者)が寿司でもなく鰻でもなく、天ぷらの和食堂をつくったのは、彼なりの考えがあったからだ。日付はないが、山の上ホテルの便箋に吉田は書いている。  〈天ぷら屋のご主人にもよくお目にかかったが、ケレンがなく、何となしに昔からの日本人の見本みたいな方々が多い。  職人の方は年齢的に二つに分れる。四十歳前の人達は何か天ぷらだけではものたりない様な顔をしている。  俺は今でこそ天ぷらだけだが、今に日本料理全般の名包丁人になってみせるぞと言った様な感じの人もかなりある。  それが四十を越した人達は善かれ悪しかれ「揚げ屋」の座に坐りきった感じがするのです。  これが実は一番大切なんではないかと思ふのです。徹し切るためには、失望であろうと失敗であろうと、何でもしてみて、結局俺の本職は旨い天ぷらを揚げることだと、観念しない中には、穴子も揚げすぎたり、かき揚げの中が生だったりする訳でせう。  兎も角東京中で恐らく何千軒となくある天ぷら屋、どこに入って食べても、一応レベル以下の店と言ふものはあまりありません。〉 (中略)  吉田俊男は天ぷらと鰻や寿司を比較して、「天ぷら裏話し」を便箋に書きしるした。 (中略) 〈天ぷら屋でもうけたという話しは聞かない。それよりも寿司屋の方が大通りに面しているし、又それよりもうなぎ屋の方が大通りの四つ角に近い。  だからお金をもうけようなどと山気のある者は天ぷら屋にはない。  ところで、天ぷらですが、現在の天ぷら屋程もうからぬ商売はありますまい。大通りに寿司屋はあっても、天ぷら屋を見つけることはむづかしい。四つ角にカバ焼きの煙りは立っていても、天ぷらの旨さにはぶつかりません。  総じて横町とか裏通りに細々と仕事を続けてゐるのがこの商売です。  例へばうちを例に取れば、今年の売り上げはやっと千五00万円位で、純益はたった六0万位でした。  利益が少ないからと言って、止める気にならないのも又天ぷら商売のたのしさでせうか。  例へば花むらさん、天國さんを始め私の知る限りでは、天ぷら屋さんのご主人には共通した個性があると思ふのです。寿司屋の持つあの威勢のよさとか、うなぎ屋さんにあるあの気むづかしさに対して、天ぷら屋さんに通じる性質とは、リチギな、地味な、それに何とか天ぷらを旨く食べて頂こうかという...

「西江雅之先生_あれこれ」4/4

TWEET「情報とは 」  西江雅之先生が、「情報に、良し悪しはありません」と講義中に 何度か言われたことを覚えています。  情報とは、世の中に流布している「こと」の総称であって、優越、良し悪し、正誤といった色づけされる以前のものの「こと」です。  早大の三年次に西江雅之先生の「文化人類学」の講義を受講しました。講義はいつも恥じらいのある口調ではじまりましたが、時の経過とともにことばが疾走しはじめました。「エスノセントリズム」,「エスノセントリック」という言葉をよく口にされました。 「文化人類学」の講義で、「カニバリズム(食人俗)」の話題に話がおよんだ際には、摩訶不思議な食生活をされている西江雅之先生は、 「私は『人を食ったことはない』が、『人を食った話』はする」 とおっしゃられていました。 「食べられる物」と「食べる物」の違い 「食べ物」は「食べられる物」のほんの一部 「食べ物」は「文化」である 「食べ物と制約」 こんな話もうかがいました。 そして、2012/11/19 には、 ◇  西江雅之『「食」の課外授業』平凡社新書 が出版されました。  講義中に「南方熊楠」のお話をされたことがありました。西江雅之先生が師事されたいと思っている人物は「熊楠」である、とのお話であったように記憶しています。講義後には早速書店に向かいました。当然「文化人類学」の後の二時限目の講義は欠席しました。故あってのことです。然るべきことでした。私にはまったく迷いはありませんでした。「懐の深い大学?」でした。 西江雅之,平野威馬雄『貴人のティータイム』リブロポート 「そう言えば、数年前に雑誌の『文芸春秋』に、今、自分がある特定の先生につくとしたらどういう先生につきたいかという、そういうものを書けといわれて書いたんです。そのとき、ぼくは南方熊楠を書いたんです。」 (158-159頁) 「“文化”という語の定義を試みよ」 「“ETHNOCENTRISM”という語を説明せよ」 というのが、前期・後期のレーポートの題名でした。 下記、当該箇所についての私の講義ノートです。 西江雅之「文化人類学」_1988年_講義ノート 2015/06/14 にご逝去されたことを今日( (2015/08/30 )はじめて知りました。 西江雅之先生の「老病死」については思いもよらないことでした。 それほど精力的...

西江雅之「人間だけがちぐはぐだ」3/4

西江雅之『「ことば」の課外授業』洋泉社』 † 人間だけがちぐはぐだ  それから六番目が、「分離性」です。  たとえば犬が怒っているとき、声も「ワンワン!」と怒っています。それだけではなく、目も怒っている、耳も立っている、尻尾(しっぽ)まで体の毛が全部逆立っている、といったように、犬が伝え合いに使っている身体各部は、全部同じ意味の方向に向かっています。自分のうちの猫の喉(のど)をなでているときに、ゴロゴロゴロゴロ言って、目はすごく喜んでいるのに、尻尾だけがぴんと立って緊張しているというのはありえないわけです。  ところが人間の場合、口では「はい、わかりました」と言っていても、顔は「やだなあー」という表情をしているとか、足は震えていて相手をまったく拒否しているとか、そのようなことはザラにあります。学校で先生が、「明日、わたしのところに来て図書の整理を手伝ってくれますか」と言ったら、行かないとちょっとまずいことになるのではと思って、口では「喜んで参ります」と言っているけれど、顔はこわばっているとか、足はちょっと貧乏ゆすりをしているとか(笑)。これが普通なんです。すなわち、人間はやや分裂気味なんですね。  犬も猫もサルもライオンも、そんなことはありえない。人間は、していることがちぐはぐなんです。ここのところをもう一歩進めて言えば、実はその中の一部は本音を表わしてしまっているということにもなるんですね。こうしたことを「日常性の誤り」と言うんですが、本当はふと出してしまった本音なんです。当人は気づけば「しまった!」と思うんでしょうが、だいたい気がつかない場合が多いんですね。口では「喜んで参ります」と言ったのだから、そのまま相手に伝わっていると思っているけれど、相手の方は、「ああ、この人いやがってるんだなあ」と、すぐに感じ取ります。 (158-159頁) 「面従腹背」。この人間のこころと体の「ちぐはぐ」さこそが、『生まれ出ずる悩み』の源泉であることは、理解して いるのですが…。

西江雅之「翻訳とは『演奏』である」2/4

西江雅之『「ことば」の課外授業』洋泉社 † 翻訳とは「演奏」である  言語は互いに「置き換えられる」という話と「翻訳」の話とは大いに違うんです。  翻訳というのは、ある言語で表現されたことを、意味の上でも形の上でも原文に近い形を保ちながら、ほかの言語に置き換えることです。その置き換えは、制約の中での一種の「演奏」なんです。つまり、本来の文章をいかに訳すかは、翻訳者の腕によるわけです。 (106-108頁) ◇  須賀敦子「翻訳という世にも愉楽にみちたゲーム」(全) を書きました。「翻訳とは『演奏』である」と、西江雅之先生にこんな風に上手に表現されてしまうと、脱帽するしかありません。 「翻訳」は「演奏」です。創造的な行為によって、楽譜は音に昇華され、立ち上がっていくわけですから、それは「愉楽にみち」ていることでしょうし、またそれは、楽譜から逸脱することは許されないという、一定のルールの下で行われる「ゲーム」にも似ています。 一定のルールにさえしたがえば、あとは自由です。自分の裁量で動くことができます。  西江雅之『「ことば」の課外授業』洋泉社』は、2003/04/21 に出版され、時を同じくして読んだのですが、全く記憶にありませんでした。うかつでした。が、そのかいあって、再び喜びを味わうことができました。

一番すてきな「ありがとう」に会いたくて 1/4

一番すてきな「ありがとう」に会いたくて はじめに、「言語」と「ことば」について ◆  2014年度 K大学 人間福祉学部 人間科学科 ◇ 以下、代筆した「人間福祉学部専願の理由」より、抜粋です。  いま仮に映画やテレビドラマ、ラジオドラマのシナリオ、演劇の台本等の書き言葉(台詞)を「言語」、声色や抑揚、顔の表情、身振り手振り等々を含めた、書き言葉(台詞)が実際に発語された際の話し言葉を「ことば」とするならば、「言語」と「ことば」の関係は、「楽譜」と「演奏」の関係とよく似ている。「演奏」は一回限りのものであり、指揮者の数だけ解釈があり、演奏者の数だけ曲がある。「ことば」は意味の乗り物であると同時に感情の乗り物でもあり、「言語」が「ことば」の形をとるとき、そこには無数の感情の表出がある。 「文学は『言語』作品、落語は『ことば』作品」 西江雅之『「ことば」の課外授業―“ハダシの学者”の言語学1週間』洋泉社 「言語」では「ありがとう」と一通りにしか表記することはできませんが、「ありがとう」の「ことば」は無数にあります。  一番すてきな「ありがとう(ございました) 」に会いたくて、いつも「ありがとう(ございました)」の「ことば」を探しています。 「ことば」は、語尾をいかに発音するか、まとめるかによって印象が大きく左右されます。「ことば」についても 文末決定性ということがいえるように感じています。

辰濃和男『文章の書き方 / 文章のみがき方』_内田百閒「そりゃ、あんたさん、死にもの狂いですぜ」5/5

10 渾身の力で取り組む 辰濃和男『文章のみがき方』岩波新書  「文章はいつも、水をかぶって、座りなおしてはじめる覚悟でいたい」 (串田孫一)  この串田の言葉は、一九五二年一月五日の日記のなかに出てきます。  まだ三十代のころの決意です。  亡くなった勝新太郎が中村玉緒とケンカをしたことがあります。玉緒がすごい形相になって摑みかかると、勝は即座にいったそうです。「おい、いまのその顔だ。その顔を忘れるな。いい顔だ」と。玉緒もつられて「はい」といってしまった、という話を聞きましたが、真偽のほどはわかりません。憤怒の形相も芸のこやしにしようというわけで、勝と玉緒の二人ならありえない話ではないと思いました。  不出来な絵ではあるけれど、その絵の対象になったものをことごとく愛している、と歌ったあと、石垣りんはこう書いています。  「不出来な私の過去のように / 下手ですが精一ぱい / 心をこめて描きました」  私はこの、最後の「下手ですが精一ぱい / 心をこめて描きました」というひかえめな表現が好きで、何度も読み返しては、この真摯な詩人が「精一ぱい」という以上、まことに精一ぱいだったのだろうと思い、文字をつらねるとはそういうことなのだと粛然とした気持ちになるのです。「下手ですが精一ぱい、心をこめて書く」。これ以外に修行の道はない、とさえ思うのです。  「内田百閒の信者」だと自称する随筆家、江國滋はこう書いています。  「あの名文をどんなふうにして書くのかと問われて百閒先生いわく。  『そりゃ、あんたさん、死にもの狂いですぜ』」  さらさらと一気に書いたように見える百閒の文章は、「死にもの狂い」の産物だったのです。  川端康成も、読み手がたじろぐような激しい言葉を使っています。  「文章の工夫もまた、作家にとつては、生命を的の『さしちがへ』である。決闘の場ともいへやうか」  川端は、「われわれの言はうとする事が、例へ何であつても、それを現はすためには一つの言葉しかない」というフローベルの言葉を引用し、そのためにも作家は、不断のそして測り知れぬ苦労を積み重ねるほかはないとも書き、文章の工夫は「決闘の場」だという激しい言葉を使っているのです。  いままで、「これ渾身」ということについて書いてきましたが、この言葉は、実は幸田文の文章から選びました。この人の初期の作品に『こんなこと...