岡潔「情緒、その人の中心をなすもの」

岡潔『春宵十話』角川ソフィア文庫

 「その私が急に少しお話ししようと思い立ったのは、近ごろのこのくにのありさまがひどく心配になって、とうてい話しかけずにはいられなくなったからである。その結果がこの小冊子となった。」(3-4頁)
と、岡潔が「はしがき」に記したのは、1963年、63歳のときのことである。翌年には東京オリンピックが開かれ、東海道新幹線が開通し、高度経済成長まっただ中のことだった。
 下記、「春宵十話」より、教育に関する岡潔の発言である。図らずも長い引用になってしまったが、かりそめにも教育界の端くれに位置する私の、岡潔の真意に触れていただきたいという願いの表れである。


 「人の中心は情緒である。情緒には民族の違いによってろいろな色調のものがある。たとえば春の野にさまざまな色どりの草花があるようなものである。」(「はしがき」3頁)

 「人に対する知識の不足が最もはっきり現われているのは幼児の育て方や義務教育の面ではなかろうか。(中略)早く育ちさえすればよいと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。(中略)成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だと思う。」(10頁)

 「どうもいまの教育は思いやりの心を育てるのを抜いているのではあるまいか。そう思ってみると、最近の青少年の犯罪の特徴がいかにも無慈悲なことにあると気づく。これはやはり動物性の芽を早く伸ばしたせいだと思う。学問にしても、そんな頭は決して学問には向かない。」(11-12頁)

 「いま、たくましさはわかっても、人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心くばりがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。長岡半太郎(ながおかはんたろう)さんが寺田寅彦先生の緻密さについてふれていたが、文学の世界でも、寺田先生の「藪柑子集(やぶこうじしゅう)」特にその中の「団栗」ほどの緻密な文章はもういまではほとんど見られないのではなかろうか。」(12頁)

 「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。」(13頁)

「本当は情緒の中心が実在し、それが身体全体の中心になっているのではないか。その場所はこめかみの奥の方で、大脳皮質から離れた頭のまん中にある。ここからなら両方の神経系統(交感神経系統と副交感神経系統)が支配できると考えられる。情緒の中心だけでなく、人そのものの中心がまさしくここにあるといってよいだろう。
 そうなれば、情緒の中心が発育を支配するのではないか。とりわけ情緒を養う教育は何より大事に考えねばならないのではないか、と思われる。単に情操教育が大切だとかいったことではなく、きょうの情緒があすの頭を作るという意味で大切になる。」(13-14頁)

 「さきに副交感神経系統についてふれたが、この神経系統の活動しているのは、遊びに没頭するとか、何かに熱中しているときである。やらせるのでなく、自分で熱中するというのが大切なことなので、これは学校で機縁は作れても、それ以上のことは学校ではできない。戦争中、小さな子から遊びをとりあげてしまい、戦後まだ返してやってないが、これでは副交感神経系統の協力しているノーマルな大脳の働きは出ないのではなかろうか。こうしたことが忘れられているのは、やはり人の中心が情緒にあるというのを知らないからだと思う。」(15頁)

 「室内で本を読むとき、電燈の光があまり暗いと、どの本を読んでもはっきりわからないが、その光に相当するものを智力と呼ぶ。この智力の光がどうも最近の学生は暗いように思う。わかったかわからないかもはっきりしないような暗さで、ともかくひどく光がうすくなった。小学校で道義を教えるのを忘れ、高等学校では理性を入れるのを忘れているのだから、うすくなるのは当然といえるが、(後略)」(44頁)

 「情緒の中心の調和がそこなわれると人の心は腐敗する。社会も文化もあっという間にとめどもなく悪くなってしまう。そう考えれば、四季の変化の豊かだったこの日本で、もう春にチョウが舞わなくなり、夏にホタルが飛ばなくなったことがどんなにたいへんなことかがわかるはずだ。これは農薬のせいに違いないが、(中略)キャベツを作る方は勝手口で、スミレ咲きチョウの舞う野原、こちらの方が表玄関なのだ。情緒の中心が人間の表玄関であるということ、そしてそれを荒らすのは許せないということ、これをみんながもっともっと知ってほしい。これが私の第一の願いなのである。」(48頁)