「動詞_食す その二」
こんな文章があります。
「冬に深川の家へ遊びに行くと、三井さんは長火鉢に土鍋をかけ、大根を煮た。
土鍋の中には昆布を敷いたのみだが、厚く輪切りにした大根は、妻君の故郷からわざわざ取り寄せる尾張大根で、これを気長く煮る。
煮えあがるまでは、これも三井さん手製のイカの塩辛で酒をのむ。柚子(ゆず)の香りのする、うまい塩辛だった。
大根が煮あがる寸前に、三井老人は鍋の中へ少量の塩と酒を振り込む。
そして、大根を皿へ移し、醤油を二、三滴落としただけで口へ運ぶ。
大根を噛(か)んだ瞬間に、
『む…』
いかにもうまそうな唸り声をあげたものだが、若い私たちには、まだ、大根の味がわからなかった」
なんということはない。大根の輪切りにしたやつを煮るだけの話ですが、池波(正太郎)の手になると、煮あがったばかりの大根をすぐにでも食べてみたいという気になる。
辰濃和男『文章の書き方』岩波新書(4-5頁)
ーー味覚について。
『味に想う』の著者、角田房子は、好きな野菜はと聞かれたら「茄子とじゃがいも」と答える、と書いています。
夏の茄子には気に入った食べ方がある。
「まず光沢の美しい新鮮な茄子を選ぶ。料理の腕はないのだから、もっぱら材料のよさに頼る。茄子の皮にこまかく縦に切り目を入れ、茶筅(ちゃせん)茄子にして、昆布と鰹節のだしで火にかけ、醤油とごく少量のみりんで薄く味をつけて、鍋のまま冷蔵庫に入れる。翌日、すっかり冷えて、とろりといい色になった茄子に、おろし生姜を添えて食べる」
読んでいるうちに、私のような無精ものでも、一度やってみようかという気になります。味のことは、あまり律儀にくどくどと、うまさの中身を書くことはない。「とろりといい色になった茄子に、おろし生姜を」とあるだけで味が伝わってきます。
野菜の料理では、甘糟幸子の書いたものが好きです。こんな文章があります。
「のびすぎて大きくなっているタラ芽は二つか三つに割って、まだこぶしを開きかけたような若いものはそのままにして、衣をつけ、ゆっくりと揚げます。揚げたての熱いのにお塩を少しつけて食べると、ほっくりした豊かな歯ごたえと濃い味がして、木の芽というより、まだ名前を知らない動物の肉でも食べているような気がします」
タラの芽のてんぷらが目の前にちらついて、読みながら、自分も箸をのばしています。文章の力です。
(前略)
この文章からは、どうしようもなく野の花が好きな人の心が伝わってきます。どうしようもなく好きだから、その日々の営みに野草や木の実の姿が溶けこんでいます。だからこそ、山菜の味を書いた文章に奥深さがあるのでしょう。
辰濃和男『文章の書き方』岩波新書(73-75頁)
辰濃和男は『文章の書き方』の中で、
「感覚ーー感じたことの表現法」を、
ーー視覚について。
ーー匂いの表現について。
ーー触る感覚について。
ーー聴覚について。
ーー味覚について。
ーー自然感覚について。
の六つに分けて、それぞれ引用文とともに解説を加えています。感心することしきりです。ぜひ手にとってご覧になってください。
の六つに分けて、それぞれ引用文とともに解説を加えています。感心することしきりです。ぜひ手にとってご覧になってください。