司馬遼太郎「行春を近江の人とおしみける」

司馬遼太郎,白洲正子,水上勉 他『近江路散歩』(とんぼの本)新潮社(37頁)

 芭蕉には、近江でつくった句が多い。
 そのなかでも、句としてもっとも大きさを感じさせるのは、『猿蓑(さるみの)』にある一句である。

  行春を近江の人とおしみける

 この句でいう近江の人は、むろん複数である。その中に、当然、菅沼曲翠もまじっているはずで、そうあらねばならない。
 行く春は近江の人と惜しまねば、句のむこうの景観のひろやかさや晩春の駘蕩(たいとう)たる気分があらわれ出て来ない。湖水がしきりに蒸発して春霞がたち、湖東の野は菜の花などに彩られつつはるかにひろがり、三方の山脈(やまなみ)はすべて遠霞みにけむって視野をさまたげることがない。芭蕉においては、春と近江の人情があう。こまやかで物やわらかく、春の気が凝(こ)って人に化(な)ったようでさえある。この句を味わうには「近江」を他の国名に変えてみればわかる。句として成りたたなくなるのである。(『街道をゆく 二十四』「近江の人」より)