「正岡子規 生誕150年_子規のリアリズム」
司馬遼太郎『八人との対話』文春文庫
「師弟の風景 吉田松陰と正岡子規をめぐってーー大江健三郎」
司馬 (前略) 話が少しとびますが、江戸時代中期以後の大画家といえば、与謝蕪村と円山応挙ですが、どっちが偉いかということが昔から言われたんですね。蕪村は南画の骨法をもつ、さっと描いたような絵で、応挙は鶏なら鶏がそこにいるみたいに描く徹底したリアリズム。正岡子規は、蕪村はしゃれてるけど、自分は応挙のほうが好きだといっている。応挙のリアリズムを愛したんですね。
子規の時代には応挙の評価は非常に低下していたんです。蕪村のほうがはるかに上だった。子規には、江戸期に応挙というものがいたな、じゃあ自分もリアリズムをやってもやれないことはないな、と考えるようなところがある。リアリズムをやることが、日本の社会にとってぜひ必要であると考えたんですね。西洋にはとても追いつきそうにないこの社会、明治維新は起したけれど、内実はボロボロになっている社会。なぜ西洋とのあいだにこれだけ開きができたのか。要するに、日本の文章、絵画、すべてにリアリズムがない。日本のダメなところはこれだと子規は考える。それで応挙が大事だと思い、新しいリアリズム論を展開して弟子たちに教えるわけです。そのへんがまた、体質的に吉田松陰に似ているんです。(151-152頁)
大江 (前略)子規は、新しい文学を創ろうと思っていて、そのためにリアリズムが必要だと考えている。(153頁)
大江 (前略)松陰にしても子規にしても、時代が変わっていくということをよく知っていたし、時代が変わっていくとき自分が責任をとってある新しいものを創りださなければならないと考えていたわけですね。松陰は新しい時代そのものを創ろうと思っていたでしょうし、子規は文学を改革しなければならないと考えていた。そのために若い人と一緒に、それも友人のような関係をたもちながら、対話しつつ彼らを教育していく。そういうタイプの人が、子規であり松陰であったはずだと思うんです。
教育というものを考えるとき、教育する人間が時代は変わりつつあると思っている、そしてアクティブに自分の力で何かを創造しようと考え、若い人たちにそれへの参加を求めるという教育が、一つの原理のようにあると思うんです。(156-157頁)
司馬 松陰と子規のあいだに、さきほどあげたことのほかに、もう一つ共通点があると思うんです。一所懸命やって、知識や技術を積み重ねていっただけではしようがない。志がなければダメだ、という思想です。志ということにやかましいですね。子規の時代になると、志というのはちょっと野暮な言葉になっていますから、子規は志という言葉はあまり使いません。ともかく子規は志そのものでした。(150-151頁)