「正岡子規 生誕150年_子規,漱石と文章日本語」

赤尾兜子「空海・芭蕉・子規を語る」
司馬遼太郎 対話選集 2 『日本語の本質』文春文庫

 司馬 (前略)泉鏡花はいいが、しかしあの文章では、ロッキード問題は論じられない(笑)。しかし夏目漱石の文章は恋愛でも外交でも論じられるしルポルタージュでもやれるといういわば万能性をもっているという点であの時代にはきわめてめずらしい。そういう文章を手づくりで完成したところに、漱石の大きさの一つがあると思います。しかし子規もそうですね。子規も、みなが共有していいーーいろんなことを表現できるーー文章日本語をつくり上げたと思うんですが、そういう点を子規はあまり認めてもらっていない。(99-100頁)

 司馬 (前略)ところでその面での一完成者である子規がね、あれは漱石の文章よりも非常に漢語が少ないでしょう。
 赤尾 そう、そう。
 司馬 そして、漱石の文章よりもしなやかで、表現の万能性においては漱石の文章と遜色(そんしょく)がない。蘇峰や愛山の文章では愚痴は書けないが、子規の文章では十分にそれが表現できる。たとえば、日常の、庭に陽が射して、鶏頭が……。
 赤尾 十四、五本もありぬべし。(101頁)
 
 司馬 それからまた彼は、あまり政論なんかは論じなかったでしょうけども、それも論じることができると思うんですね、あの文章で。ただ、語尾の文語形にわずかに固執しているけどね、だけど文語意識は少なくて。きわめて平易な文章をつくりあげた。まあ僕は子規の業績の一つは散文だと思うんですけどね。なぜそうかっていうと、ここから向こうは俳句になってくるんだけど……。
 結局、彼はリアリズムに固執した人だから、リアリズムっていうのは、万人共有のものですからね。海のヒトデは星形をしているとか、これはもう確かにそうであるし、それから、石っころは多少丸いとか、トンボの羽根は透きとおっているとか、ということは万人共通のものですから、しぜんとその散文まで、わかりやすい散文ができ上がってゆくという……リアリズムの精神というのは、評論でなく、実際に地でそれをやった人というのは、少ないと思うんです。子規は、その最大の一人じゃないか、と思いますね。
 赤尾 それは僕も感じますよ。(101-102頁)

下記、
司馬遼太郎「漱石が発明した文章語」
です。