洲之内徹「夫婦喧嘩ですか」
「靉光の死を見届けた人」
洲之内徹『気まぐれ美術館』新潮社
とりとめもない話をする。靉光のことになると、きえさんはいつものように、自分は靉光の女房にはちがいないが、結婚生活といっても十年ほどだし、それに自分は毎日勤めに出、靉光は靉光で、二階の画室には人を寄せつけず、ときにはひと月もふた月もそこへ籠りきりで、だから、そんなときは顔を合わせることもあまりない、そういう具合ですからねと言い、たまに二階から降りてきたと思うと、何も言わずにあたしの頭をはたいておいて、また上って行ってしまったりするんですよ、と笑っている。 「夫婦喧嘩ですか」
「そうじゃないんですよ、仕事の緊張が続いて自分で耐えられなくなると、そうやって気を晴らすんでしょう」
黙って殴られている靉光夫人の姿に、私は感動した。なんという素敵な夫婦だろう。(150頁)