司馬遼太郎,赤尾兜子「師匠を語る」

赤尾兜子「空海・芭蕉・子規を語る」
司馬遼太郎 対話選集 2 『日本語の本質』文春文庫
「磁場としての座」

 赤尾 これは、僕の方から司馬先生に一度たずねたいと思っていたのですがね。俳句は「座」の文学であり、「連衆の文学」といわれ、それがまた世界でも珍しいかけがえのない特色ですが、どうでしょう。蕉門の「座」を見ると、芭蕉という師がその座に加わることによって、その座の人たちの作がぐっとレベルアップしている。「七部集」を読むと、しきりにそう思うんですが…。
 司馬 人間というものは、人間が好きでしょう(笑)。とくに精神がえきえきとして光っているような人間に出くわすと、どうしてもその人の磁場の中に月に一度でも入っていたい気がする。自分まで磁気を帯びてきて、意外な面を出してしまう。短歌もそうですが、俳句はその契機を作ってくれるわけで、それを介してその人のそばに寄ってゆくことができる。すぐれた俳人で個人作家として終始される人もなければなりませんが、師匠は磁場を作れる人であることが望ましいですな。芭蕉も子規も磁場を作りえた人で、弟子たちはもうその中にいてその座にいるときだけだけでも磁気を帯びている自分がうれしくてしようがない。
 短詩型というのはサロン芸術だといわれますが、僕もそうだと思います。しかし人格もしくは精神像として磁場を作れない人は、やはり師匠になってはいけませんな。其角(きかく)なども芭蕉の磁場の中で磁気を帯びた人で、芭蕉の死後は、磁気が去っている。そういう面が短詩型の世界にはーーよくわからんがーーあるのと違うかしら。
 赤尾 おっしゃるとおりです。いまの俳句の世界には、その“座”の指導者の一部に月並的退廃も出てきているようで、人ごとならず、心せねばならないと思います(笑)。(124-125頁)