「正岡子規 生誕150年_子規の学問」

司馬遼太郎『八人との対話』文春文庫
「師弟の風景 吉田松陰と正岡子規をめぐってーー大江健三郎」

 大江 (前略)そして、やがていい教育者になる人は、こういうふうに子どものときから勉強するんだろうな、ということを、僕は子規にも松陰にも感じるんです。その一つとして、体系として学問を学ばないということがあるんじゃないか。これはもちろん反論がありうるかと思いますけれども。
子規にしても松陰にしても、他人の体系を学ぶのではなく、できるだけ短い期間に、全体を見通せる自分の学問を作らなきゃならないと思っている。それを作るためには、本格的に他人の体系を勉強していくと何十年とかかるわけですから、それはできない。なるたけ短い期間に、世界の見通し、あるいは現実の見通しといってもいいんですが、学問の見通しそのものを自分で作ろうとした。そのための方法として、本を読むにしても、具体的に自分の肥やしにするという意図があって、どんどん本を筆写していった。
 子規は二十歳前後に、さかんに他人の本を書き写していますね。松陰も、たとえば彼が二十一歳で書いた『西遊日記』を見ますと、本を書き写すということが何度も出てきます。この書き写すということは、他人の学問を他人の体系として距離をおいて尊敬するんじゃなくて、自分の体系の中に取り込もうとしたための方針だったと思うんです。そしてそれを若い人にすぐさま教えていく。学問の大きい体系、あるいは大きい体系の一部分を、八十になって自分のものにするというのではなく、二十代の前半のうちに、自分として納得できる自分の体系のようなものを作って、それを人に教えていくという態度を、松陰も子規も持っていたように思うんです。

 司馬 そうですね。双方、命の短さを知っていましたから。このため教えるというより、大急ぎで、イライラしながら移し植えていくという感じですね。切迫感が、同時に親切という感情と一緒になっていきますから、美文を作るいとまがない感じですね。(136-138頁)