司馬遼太郎「自己の信仰を完成し余蘊をとどめず」

芸術新潮編集部 [編]『司馬遼太郎が愛した「風景」』(とんぼの本)新潮社(38-39頁)

 日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌(い)むべき存在はすくない。
 といって、ばけものというほどの男でもなく、類型はわれわれのまわりにもいる。だが重政の場合、歴史の過熱点にまぎれこみ、その人間にふさわしく大鉞(おおまさかり)の柄をにぎったといえるだけかもしれず、それだけにかえって気味がわるい……徳川家康に気に入られ……肥前高来郡(たかきごおり)(島原半島一円)の領主になり、その愚かな息子(勝家)とともに島原ノ乱をひきおこす原因をつくるにいたる。
(中略)

 島原ノ乱には島原半島の人々だけでなく、同じように領主・寺沢家に苦しめられていた、天草諸島の住人たちも呼応した。島原、天草あわせて約三万の一揆勢は、大矢野島の少年・天草四郎時貞を盟主とし、島原半島の原城に立てこもる。原城は旧藩主・有馬家の城で廃城となっていた。一揆勢はここで十二万の幕府軍と戦い、三ヶ月の籠城の後、翌年二月、幕府側に内通していたただ一名を除き全員虐殺された。彼らの半分は女性と子供だった。乱後、幕府は松倉勝家の責任を問い、切腹すら許さず、大名には異例の打首とした。島原ノ乱には殉教のイメージがあるが、実際には、苛政を原因とする農民一揆である。彼らの大部分は弾圧により、すでにひとたびは棄教していたのだ。ただ、結束を強め、自分たちの死を聖なるものにするために、乱が起こると再び切支丹に戻った。原城を訪れた司馬さんは、自らの気を静めるかのように、次のように、つぶやく。

 かれらの死はローマに報告されることなく……正規に殉教として認定されることはなかった。……
 かれらは、徳川政治史上、最大の極悪人で、その時代、たれにも弔われることがなかった。…… 
 ともかく原城の本丸趾から見る自然は海も山も天へ吹き抜けるように明るい。歴史の陰鬱さとおよそ裏腹な景色なのだが、あるいはこの城で死んだ霊たちが、自己の信仰を完成させて余蘊(ようん)をとどめていないということの証拠なのかもしれない。