「いまなぜ洲之内徹なのか」

下記の白洲正子の文章が、発端となった。

「さらば『気まぐれ美術館』洲之内徹」
白洲正子『遊鬼』新潮文庫
 「小林(秀雄)さんが洲之内さんを評して、「今一番の評論家だ」といったことは、週刊誌にまで書かれて有名になったが、
(中略)
だが、小林さんの言葉は私がこの耳で聞いたから確かなことなので、一度ならず何度もいい、その度に「会ったことないの?」と問われた。
 変な言いかただが、小林さんは「批評」というものにあきあきしており、作者の人生と直結したものでなくては文学と認めてはいなかったのである。小林さんだけでなく、青山二郎さんも、「芸術新潮では洲之内しか読まない」と公言していた」(220-221頁)

いま以下の六冊の本が、私の脇にある。ずいぶん昔に買って、積んだままにしてあった。
◇洲之内徹『絵のなかの散歩』新潮社
◇洲之内徹『気まぐれ美術館』新潮社
◇洲之内徹『帰りたい風景 気まぐれ美術館』新潮社
◇洲之内徹『セザンヌの塗り残し 気まぐれ美術館』新潮社
◇洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社
◇洲之内徹『さらば気まぐれ美術館』新潮社

2017/12/21 に、
◇洲之内徹,関川夏央,丹尾安典.大倉宏 ほか『洲之内徹 絵のある一生』(とんぼの本)新潮社
を買ったのが、今回『気まぐれ美術館』を手にするきっかけだった。
◇洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社
の帯に、
「批評や鑑賞のために絵があるのではない。絵があって、言う言葉もなく見入っているときに絵は絵なのだ。何か気の利いたひと言も言わなければならないものと考えて絵を見る、そういう現代の習性は不幸だ。(本文より)」
と書かれているのが気になり、本文に当たった。目で追いつつ、拾い読みしつつを繰り返し、さがしあてたときには読者になっていた。『人魚を見た人 気まぐれ美術館』の後部に配された作品はことに面白く、後ろからさかのぼって、頁を繰っていったのが幸いしたのかもしれない。

「自転車について」
洲之内徹『帰りたい風景 気まぐれ美術館』新潮社 
「松田(正平)さんのアトリエは汚いが、汚ならしくはない。そういう汚ならしいもの、他人を意識したものが一切ない」(286頁)


 洲之内徹は、「汚ならしいもの」,「
他人を意識したもの」を徹底して遠ざけた、清廉の人であった。洲之内の文章には温もりがあり、一流のユーモアがある。
 荷風の『断腸亭日乗』といい、洲之内の『気まぐれ美術館』といい、文体らしき骨子をもたない文章に出会った意義は大きい。
 なお、タイトルは、白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』から拝借した。