小林秀雄「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」

小林秀雄『モオツァルト・無常という事』新潮文庫
ゲオンがこれを tristesse allante(註 疾走するかなしさ)と呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた(Henri Gheon:Promenades avec Mozart.)。(45頁)


木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』文藝新書

第十一章『モオツァルト』
 確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄(がんろう)するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。(「(小林秀雄)全作品」15(新潮社)『モオツァルト』七九-八0ページ)(159-160頁)

 主題が直接に予覚させる自(おのずか)らな発展の他、一切の音を無用な附加物として断じて誤らぬ事、而(しか)も、主題の生まれたばかりの不安定な水々しい命が、和声の組織のなかで転調しつつ、その固有な時間、固有の持続を保存していく事。これにはどれほどの意志の緊張を必要としたか。(同右。87ページ)

「一つの主題自身が、まさに破れんとする平衡の上に慄(ふる)えている」(160頁)

 今、これをこれを書いている部屋の窓から、明け方の空に、赤く染った小さな雲のきれぎれが、動いているのが見える。まるで、
(楽譜 略)
の様な形をしている、とふと思った。三十九番シンフォニイの最後の全楽章が、このささやかな十六分音符の不安定な集りを支点とした梃子(てこ)の上で、奇蹟の様にゆらめく様は、モオツァルトが好きな人なら誰でも知っている。主題的器楽形式の完成者としてのハイドンにあっては、形式の必然の規約が主題の明確性を要求したのであるが、モオツァルトにあっては事情は寧ろ逆になっている。捕えたばかりの小鳥の、野生のままの言い様もなく不安定な美しい命を、籠のなかでどういう具合に見事に生かすか、というところに、彼の全努力は集中されている様に見える。生まれた許(ばか)りの不安さに堪え切れず動こうとする、まるで己れを明らかにしたいと希(ねが)う心の動きに似ている。だが、出来ない。それは本能的に転調する。若(も)し、主題が明確になったら死んで了(しま)う。或る特定の観念なり感情なりと馴れ合って了うから。これが、モオツァルトの守り通した作曲上の信条であるらしい。これは何も彼の主題的器楽に限った事ではない。もっと自由な形式、例えば divertimento などによく聞かれる様に、幾つかの短い主題が、矢継早やに現れて来る、耳が一つのものを、しっかりと捕らえ切らぬうちに、新しいものが鳴る、又、新しいものが現れる、と思う間には僕等の心は、はやこの運動に捕えられ、何処へとも知らず、空とか海とか何の手懸りもない所を横切って攫(さら)われて行く。僕等は、もはや自分等の魂の他何一つ持ってはいない。あの tristesse が現れる。ーー(『全作品』15『モオツァルト』八五-八六ページ)(165-167頁)



何度読んでも陶然とする。早速、
「モーツァルト:後期交響曲集 」
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
レナード・バーンスタイン
DEAUTSCHE GRAMMOPHONE
を注文した。今日中には届くはずである。