井筒俊彦「創造的誤読」
「読む」と「書く」
終章 書く 井筒俊彦と「生きる哲学」
若松英輔『生きる哲学』文春新書
厳密な文献学的方法による古典研究とは違って、こういう人達の読み方は、あるいは多分に恣意的、独断的であるかもしれない。結局は一種の誤読にすぎないでもあろう。だが、このような「誤読」のプロセスを経ることによってこそ、過去の思想家たちは現在に生き返り、彼らの思想は溌剌たる今の思想として、新しい生を生きはじめるのだ。
(『意味の深みへ』)
文中の「こういう人達」とは、先の(ロラン・)バルト(フランスの現代思想家、一九一五〜一九八〇)やジャック・デリダ(一九三〇〜二〇〇四)といった、「読む」こと自体に哲学的な意味を見出したヨーロッパの現代思想家を指す。
(中略)
伝統的な古典のテクスト注解のような文献学的に正しい読み方の探究とは別に、創造的誤読とも呼ぶべき営みがある、と井筒は言う。そればかりか、「誤読」によってこそ、歴史に刻まれた叡智は、今によみがえるというのである。(255頁)
それは著者の手柄か、読者の手柄か。それとも相乗効果か。いずれにせよ、「創造的誤読」とは、読者に用意があっての椿事である。
若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 の218頁には、
「バルトの『読み』はときに、正確でないばかりか、強引に過ぎると思われることもある。だが、そこに不備と不徹底を見出すだけなら、この特異の文筆家が発見した鉱脈を見失ってしまう。恣意的であり、また、偶然性に導かれた『誤読』は、かえって意味の深みへと私たちを導くこともある、と井筒はいうのである。」
との文もある。