南方熊楠「もう一つの森」

飯沢耕太郎(写真評論家 / キノコ切手収集家)「見えない森に踏み込むー
“キノコ王”クマグス」
松居竜五,ワタリウム美術館 [編]『クマグスの森ー 南方熊楠の見た宇宙』(とんぼの本)新潮社 

南方は生涯に一万五千種の菌類を採集し、稿本にまとめたといわれており、これは少年の頃に立てたバークレー(イギリスの植物学者、世界初の『菌そう類標本集』を刊行)の六千種を超えるという目標の二倍以上である。だが全世界の菌類は一00~一五0万種と推定されており、彼のエネルギーをもってしてもほんのとっかかりを作ったに過ぎないのだ。
 このようなわけのわからない対象物を相手に、ドン・キホーテのような戦いを挑みつつも、南方はそのことを心から愉しみ、内から湧き上がる至福の感情に身をまかせていたのではないだろうか。彼が残した、詳細な英文解説付きの自筆菌類図譜を見るとそのことがよくわかる。そこに描かれているキノコたちの、なんと不可思議な生命力に満ちあふれていることか。それらは植物と動物の中間的存在であり、今にもひょこひょこ歩き出し、うなり声をあげ、大口を開けて哄笑しそうに見える。「キノコ的思想」はそういった野放図な生命力を、枠付けしたり矯めたりすることなく、ポジティブに肯定していこうする営みの総称といえる。南方が生涯にわたってその優れた実践者であったことはいうまでもない。
「キノコ的思想」で捉えられた世界は、われわれが普通認知している「目に見える」世界とはかなり様相を異にしている。在野のキノコ研究家である大舘一夫氏は『都会のキノコ』(八坂書房、二00四年)で「もう一つの森」という卓抜な表現を用いている。光あふれる地上の森を一八0度回転させると、そこには「菌類の菌糸の森」が広がっているというのだ。地上の森に光が降り注ぐように、この地下の森には「多様な腐葉菌の生み出す地中の無機物質が降り注ぐ」。南方熊楠はこのような「もう一つの森」を幻視する。無類の眼力を備えていたのだろう。キノコたちを道標にその「見えない森」に踏み込むことこそ、彼の生涯の大望だったのではないだろか。