河合隼雄が読み解く 長新太『つみつみニャー』あかね書房 その三
「大人にも読んでもらいたい子どもの本の数々ー」を紹介するのがこの本の目的ですので、その多くが『つみつみニャー』の内容の紹介に費やされていますが、関連づけて河合隼雄さんの心理臨床の事例もいくつかあげられています。
長新太は、このような突如として出現してくる非日常空間を描くことにかけては、希有の才能をもった人である。
題名を聞いただけで子どもが転げまわって喜ぶような、そんな題名を長新太はどうして思いつくのだろうか。その答は簡単である。長新太は考えついたり、思いついたりするのではなく、それは「自然に出てくる」のだと思われる。自然に出てくるものは、人間の浅はかな知恵を常に上まわる。子どもを喜ばしてやろうなどとして、何かを考えついてみたところで、それはまったく子どもにとって興味のないものになることだろう。
本当に考えてみると、三角と円とは実に根源的な形で、この二つを組み合わすとどんなものにでもなると言いたい位である。あるいは、現実をデフォルメして根源的な形を求めていったら、円と三角になるのかもしれない。このあたりは画家としての長新太の面目がよく出ているし、その発想が奇想天外であるが、いい加減でないことを示しているとも考えられる。有名な禅僧の仙崖の筆で、円と四角と三角とを描いて、世界と名づけたのがあったことも思い出す。
人間の知恵が行きづまったときは、動物の知恵がしばしば助けてくれる。無理に打開策を考え出そうとしたりせずに、ぼんやり待っていると動物が人間を助けてくれるのである。
それにしても、何とも驚くべき事件であったが、これほどのナンセンスを日常生活との関連のなかで、ある日曜日の出来事として描けるところに長新太の凄さがある。おそらく、その秘密のひとつは、その素晴らしいデッサン力にあるのではないかと思われる。長新太の描く空間は「はかりしれない空間」なので、そこに登場するものが、外的現実の世界と同じでは困ってしまう。従って、そこに出てくるものは、単純化されたり、デフォルメされたりしているが、、それはまた極めてリアリスティックなのである。おそらく、絵の確かさが、まったくナンセンスの世界をうまくバランスしていて、われわれを安心して、そのなかにはいりこませてゆくのであろう。よほど、現実吟味の力の強い人なのであろう。
長新太は、このような突如として出現してくる非日常空間を描くことにかけては、希有の才能をもった人である。
題名を聞いただけで子どもが転げまわって喜ぶような、そんな題名を長新太はどうして思いつくのだろうか。その答は簡単である。長新太は考えついたり、思いついたりするのではなく、それは「自然に出てくる」のだと思われる。自然に出てくるものは、人間の浅はかな知恵を常に上まわる。子どもを喜ばしてやろうなどとして、何かを考えついてみたところで、それはまったく子どもにとって興味のないものになることだろう。
本当に考えてみると、三角と円とは実に根源的な形で、この二つを組み合わすとどんなものにでもなると言いたい位である。あるいは、現実をデフォルメして根源的な形を求めていったら、円と三角になるのかもしれない。このあたりは画家としての長新太の面目がよく出ているし、その発想が奇想天外であるが、いい加減でないことを示しているとも考えられる。有名な禅僧の仙崖の筆で、円と四角と三角とを描いて、世界と名づけたのがあったことも思い出す。
人間の知恵が行きづまったときは、動物の知恵がしばしば助けてくれる。無理に打開策を考え出そうとしたりせずに、ぼんやり待っていると動物が人間を助けてくれるのである。
それにしても、何とも驚くべき事件であったが、これほどのナンセンスを日常生活との関連のなかで、ある日曜日の出来事として描けるところに長新太の凄さがある。おそらく、その秘密のひとつは、その素晴らしいデッサン力にあるのではないかと思われる。長新太の描く空間は「はかりしれない空間」なので、そこに登場するものが、外的現実の世界と同じでは困ってしまう。従って、そこに出てくるものは、単純化されたり、デフォルメされたりしているが、、それはまた極めてリアリスティックなのである。おそらく、絵の確かさが、まったくナンセンスの世界をうまくバランスしていて、われわれを安心して、そのなかにはいりこませてゆくのであろう。よほど、現実吟味の力の強い人なのであろう。
以下、河合隼雄さんが紹介されている絵本です。近日中に図書館で読もうと考えています。
長新太『おなら』福音館書店