小林秀雄「批評の神様はかくも熱く、分かりやすく、親切で、面白かった。」
小林秀雄_「批評の神様はかくも熱く、分かりやすく、親切で、面白かった。」
今春出版されたばかりの書籍です。本箱の中に眠っていました。並べておいても、積んでおいても、電子書籍としてしまっておいても、どうしても忘れてしまいます。時折ぐるりを見わたす必要を感じています。しかし、手もとにあるのとないのとでは、再会できる確率がおおよそ異なってきます。懲りることなく、投資という名の散財を繰り返します。
P教授にあって僕にないものの一つは「再読」の習慣です。あてもなくさまようのも旅ですが、常宿で辺りを味わい尽くすのも旅の醍醐味です。
さて、さて。本題です。
以下、帯に書かれている文章です。
「僕ばかりにしゃべらさないで、諸君と少し対話しようじゃないか」
「何か、僕に訊いてみたいことはありますか?」
「本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ。(略)僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって、答えを出すこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる」(昭和49年の対話より)
「昭和36年から53年にかけて、小林秀雄は五たび真夏の九州へ出かけ、学生たちに講義をし、対話を重ねた。〈人生の教室〉、初の公刊。」
「批評の神様はかくも熱く、分かりやすく、親切で、面白かった。」
「質問する」とは「自問する」ということであろう。「答えを出すこと、解決を与えることはおそらくできない」以上、疑問は疑問として負って生きるしかない。ただその「質問」が生涯にわたって「自問」するに足る一大事かどうか、よく考えなさい。徒労に終わるだけのつまらない「質問」ならばしないほうがましである、と小林秀雄はいっているように聞こえてなりません。