「白洲正子の本領_平等院鳳凰堂」

「平等院のあけぼの」
白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫
 その後私は、四、五へん平等院をおとずれた。が、運が悪いのか、公害のせいなのか、一度も日の出を見ることは叶わなかった。
(中略)
 いつしか夏もすぎ、秋が来て、その秋も終りに近づいた。ちょうど京都へ行くついでがあったので、私は性懲りもなくまた平等院へ行くことにした。今年は暖かったので、紅葉にはまだ早く、宇治川は朝霧に閉ざされていた。
 また今日も駄目か、そう思ってあきらめていると、朝日が登る頃、たぶん六時半頃かと思う、東の空が明るくなって来た。霧が晴れたのだ。はじめにもいったように、平等院は日の出が遅い。はらはらしながら、池の東側で待っていると、朝日山の左肩からひと条の初光がさした。その瞬間、屋根の上の鳳凰が飛び立ったような気配がし、私は自分の眼を疑ったが、それは光線が上から下へ降りて来るためだとわかった。
 太陽が登るにしたがって、鳳凰堂は、逆に屋根から下へ向って明けて行く。それは昼と夜が真二つになったような、奇妙な印象を与えた。軒が深いので、内陣も阿弥陀様も、まだ暗の中である。自然の中ではよく見る風景だが、人工的な建造物のこととて、明暗がはっきりする。そうしている間にも、朝日は刻々と鈍色(にびいろ)の衣をはいで行き、やがて鳳凰堂はかがやくばかりの全景を現した。朝日をあびて、白い壁が桃色に染り、翼廊は羽を左右にのばして、喜びの讃歌を歌う。それは正しく「欣求浄土」の希望と光明にみちた景色であった。たしかにお寺には、それを眺めるに一番適した時刻があり、「朝日山」という山号を、平等院が持つに至った所以を、まのあたり見る心地がした。
 ふと気がつくと、日光は既に池の面まで降りて来て、今度は反対に、お堂を下から上へ照しはじめる。水に反射する朝日は昼間よりまぶしく、あれよあれよというまに、阿弥陀如来の台座へ到達した。静かに、息をひそめて、光は膝から両手へ、肩から頭上へ徐々に登って行き、本尊はついに金色の全身を露わにした。。とたんにお堂の中にはざわめきが起こった。衣紋のひだの一つ一つがきらきらと光り、後背のすかし彫りの唐草は、生きものようにゆらめく。周囲の白い壁にもさざ波が立って、その中を天人が軽々と飛翔して行く。水鏡は軒裏の隅々まで照し出し、天井の支輪に反映して、内陣ばかりか鳳凰堂全体が、虚空に浮かんで鳴動するように見えた。(85-86頁)

 鳳凰堂は常でも水上に浮んで見えるが、この時ばかりは水から離れて、蜃気楼のように宙にたゆたい、終始ゆれ動いているのだった。それはもはや「極楽浄土」ではなく、聖衆が来迎する瞬間の光景だ。何というこまやかな工夫、そして何という壮大な構想か。まったく「来迎図」の絵画が、そのまま立体化されたとしか思えない。みごとな演出、と人はいうかも知れないが、自然の法則にしたがって、はじめてこのような表現も可能になる。平等院の朝日は、ほんとは秋より、春の方がいいとされているが、秋には太陽が南へ廻るため、少しななめに当るからで、落慶供養を行ったのも晩春であった。その翌年に鳳凰堂が完成し、定朝が造った阿弥陀如来は、夜を徹して京都から運ばれ、開眼の法会が行われたのは、旧暦の三月四日のことである。(86-87頁)