「中学生と太宰治と『人間失格』と」
「第一の手記」
太宰治『人間失格』新潮文庫
恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。(9頁)
先日、中二生の女の子が、太宰治の『人間失格』を読んでいました。
デカダンスといい、頽廃的といい、虚無的といい、背徳的といい、中学生の子どもたちには何をいっても通じませんが、不健康で病的な世界は、中学生にふさわしいはずもなく、事情を話し、早速読むのをやめるように言いました。病の温床にもなりかねません。
十年ほど前には中一生の男の子が、やはり『人間失格』を読んでいるのをみて、あわてて、読むのをやめるように諭しました。
二人が手にしていたのは、いずれも中学校の図書室で借りてきた文庫本です。また、光村図書出版『国語 2』の教科書に掲載されている「走れメロス」の、「作者」,「著書」の紹介欄には、「人間失格」の文字があります。たとえ、日本文学史上で、異彩を放つ作品であろうとも、中学校の図書室からは撤去、教科書には不記載の処分が適当だと思っております。
「夏の100冊」の『人間失格』のカバーに、今時のイラストが描かれているのを目にした際にも驚きました。
確かに、『人間失格』というタイトルは蠱惑的です。
大学では日本文学を専修しました。とある短期大学の国文科では、『人間失格』は禁書リストに入っているとのことでした。そのお話を講義でうかがった際には、さすがに呆れ、友人と顔を見合わせました。文学作品の自ずからもたされた毒気を、教育的な配慮という美名の下に骨抜きにしてしまうのはいかがなものでしょうか。
むせ返るような夏の盛りに、『人間失格』を読んでいる同じクラスの女の子がいて、どこか季節外れの読書だな、と思って眺めていたことなども思い出します。
「人間にとって不健康の最たるものは、生きていること」だと認識しております。我が身を顧みれば、どこか皆「人間失格」であり、中学生の早い時期から、「人間失格」の疑似体験をする必要があるとはとても考えられません。