白洲正子「吉越立雄 能の写真」1/4

「吉越立雄(たつお)能の写真」
白洲正子『夢幻抄』世界文化社 
 吉越さんとは古い付き合いだが、はじめてお会いしたのはいつ頃だったか。覚えているのは、どこの能舞台へ行っても、見物席の片隅に坐って、黙々と撮影している姿で、それも多くの場合、シャッターは切らずに、舞台を見つめていたのが印象に残っている。(98頁)

 たしかにお能にはそういう(人を病みつきにさせ、とりこにさせる)ものがある。外部の人にはわからない一種デーモニッシュな吸引力である。そして吉越さんは、それを写すのに成功している。少なくとも私が知る範囲では、彼が現れるまで、お能の写真は絵葉書を出なかった。(99頁)


  ー  ファインダーをのぞいているのはとても辛いことです。肉眼と舞台の間に媒介物があって、そこで私は、お能を見ながら別な作業をしている。レンズを通すと、相手の実態というものはまるで見えないものです。特に望遠レンズの場合は部分しか眼に入らない。つまらないお能のときは、それでも構わないが、いいお能のときは、身がひきさかれる想いがします。が、私は写真家であり、仕事として遺さねばならないものがあると、そう想い直して撮影するのです、と。

 これはどんな仕事にも通じる辛さであろう。おそらくその我慢が美しい写真を撮らせるのだ。彼にとって、お能は「被写体」ではなく、追求して止まぬ美の化身なのである。だからカメラという機械の限度というか、その非力さをつねに感じている。そして、「写らないものが一杯ある」ことを、あきらめつつも残念に思っている。その代わり、写真でなくては表現できないものもあるに違いない。先に記した橋岡久太郎(きゅうたろう)の「安達原(あだちがはら)」などは、肉眼では逃したかも知れないものをとらえているが、特に能面の表情については、独特の才能をしめしていると思う。(104頁)

 久太郎さんの写真に傑作が多いのは何故だろう。吉越さんにたずねてみると、装束付(しょうぞくつき)が特にいいように記憶しているといわれた。装束がぴったり身につくというのは、芸がしっかりしている証拠で、地味な性格であったため、生前はそれ程持て囃(はや)されなかったが、このような写真を遺して下さったことは、後進のためにもなり、私たちは感謝すべきだと思う。(100頁)


 望遠レンズでのぞいてみると、面の表情というものは、実に面白いと彼はいう。肉眼より、ずっとこまかに、かつはっきりと変化することがわかる。が、それも肉眼で見極めた上で、レンズを通さないと、フィーリングだけに終わってしまう。 ー このフィーリングの意味が、私には理解できなくて、何度も聞き返したが、つまりそれは面白すぎるため、興にのって、機関銃のようにシャッターを押せばどれかは当たる。が、それはいやだ、と吉越さんはいう。何故いやなのか、かさねて問いつめると、

「相手を大事にしたいから…」
 と、小さな声で答えた。(104-105頁)

お能のように味のこまやかな芸術では、(カラーでは)装束一つでも、色が充分出ないような気がする。殊に微妙な能面の陰影や表情は、不可能に近い。

(中略)
カラーだと舞台が平面的になって、奥行きがなくなる。
(中略)
お能の美しさを味わうなら、今のところでは、モノクロに限る。吉越さん自身も、カラーフィルムは肉眼に感ずる以外の「色の濁りを生じやすい」といって、モノクロの方を好んでいるらしい。(111頁)

お能は、緊張と放心の中間にある、ー たしかそういったのは宝生新(ほうじょうしん)だと記憶するが、このかねあいがむつかしい。吉越さんがレンズをのぞくときの気持ちも、それと大差はないと私は推測している。(103頁)

もう一度断っておくが、集中するとは、やたらにはり切ることではない、長い時間にわたって、無我の状態を持続する技術をいう。(113頁)


場合によっては、意識してシャッターを押すタイミングをはずすこともあると聞いたが、舞台のシテも、それとまったく同じことを行っているのである。合わなくてはいけないし、合いすぎても面白くない。間が魔物である。(112頁)


お能は勿論、自然からは程遠い。が、写真を撮る以上、相手がありのままの自然であろうと、人工的な芸術であろうと、カメラの特徴を生かさぬかぎり、撮影しているとはいえまい。その点、吉越さんは成功している。それというのも、お能を心から愛し、それに立ち向かうカメラの非力さと非情さに通じているからで、彼は決して「芸術写真」を撮ろうとはしないし、「芸術家」になろうとも思ってはいない。猫も杓子も芸術家ぶる世の中に、黙々と仕事に打ちこむ職人、その謙虚さが、ここに見るような美しい作品の数々を生んだのである。(107頁)



「お能」につけ、「写真」につけ、やはり見る訓練である。
以下、
◇ 小林秀雄「絵を見るとは、一種の退屈に堪える練習である」
です。