「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_素読教育の必要」

小林 話が違いますが、岡さん、どこかで、あなたは寺子屋式の素読(そどく)をやれとおっしゃっていましたね。一見、極端なばかばかしいようなことですが、やはりたいへん本当な思想があるのを感じました。
 (前略)これほど記憶力がはたらいている時期だから、字をおぼえさせたり、文章を読ませたり、大いにするといいと思いました。
小林 そうですね。ものをおぼえるある時期には、なんの苦労もないのです。
 あの時期は、おぼえざるを得ないらしい。出会うものみなおぼえてしまうらしい。
小林 昔は、その時期をねらって、素読が行われた。だれでも苦もなく古典を覚えてしまった。これが、本当に教育上にどういう意味をもたらしたかということを考えてみる必要はあると思うのです。素読教育を復活させることは出来ない。そんなことはわかりきったことだが、それが実際、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきだと思うのです。
(中略)
「論語」はまずなにを措(お)いても「万葉」の歌と同じように意味を孕(はら)んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるというという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。実際問題としてこの方法が困難となったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです。私が考えてほしいと思うのはその点なんです。
(144-146頁)