白洲正子「吉越立雄_梅若実『東岸居士』3/4」
羯鼓(かっこ)の小さな桴(ばち)を握り、大きく両手を掲(あ)げた、梅若実は仏さまのようである。「そのうつろな眼」、障るところのない形姿(なりかたち)は、宙をたゆたうようである。我が舞うのか、彼が舞わせるのか。それは、劇中のことではなく、心中の問題である。
この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは何時如何(いついか)なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。(小林秀雄「無常という事」)
室町時代という、現世の無常と信仰の永遠とを聊(いささ)かも疑わなかったあの健全な時代を、史家は乱世と呼んで安心している。
それは少しも遠い時代ではない。何故なら僕は殆(ほとん)どそれを信じているから。
(中略)
肉体の動きにの則(のつと)って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥(はる)かに微妙で深淵(しんえん)だから、彼(世阿弥)はそう言っているのだ。不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやくざなものは、お面で隠して了うがよい、彼が、もし今日生きていたなら、そう言いたいかも知れぬ。(小林秀雄「当麻」)