白洲正子『お能の見方』
「おわりに」
白洲正子,吉越立雄『お能の見方』(とんぼの本)新潮社
前に、故・武智鉄二さんの演出で、ストリップ能というのがありました。裸かの女の子に、『羽衣』を舞わせたのです。私は週刊誌上で見ただけなので詳しいことは知りませんけれども、これはたしかに面白い試みでした。形こそ変れ、室町時代のお能は本質的にはきっとそういうものだったに違いないからです。
裸かの女が、面をつけ、冠をかぶり、白足袋をはいて、能舞台の真中に立っている。その写真を眺めているうちに、どうしてだか、私はさむざむした気分になって来ました。内容はたしかにお能だが、…… そうかといってヴィーナスのように美しくはない。どんな肉体が、一時間以上もの凝視に堪えるでしょう。しかもあまり動かずに。さむざむとしたのは、そんな恰好でお能を舞わされた女の子に同情したからですが、その羽抜け鳥みたいな姿は、またこんなことを語るようでした。 ー 歴史は二度とくり返さない。お能は既に終わったのだ。ほんとを言えばそういう気持ちが私にこの本を書かせたのでしたが、彼女は彼女で、面白い感想を述べておりました。
「あたし裸かで人前に出て、羞しいと思ったことは一度もない。それがどうしたことでしょう。お面をかぶって、舞台に出たとたん、逃げ出したくなるほど羞しくなった。こんなことは生まれてはじめての経験です」と。おそらく仮面の芸術の秘密はそこにあるのです。(117頁)
「形こそ変れ、室町時代のお能は本質的にはきっとそういうものだったに違いないからです」
と、白洲正子が書いたのは、当時の能はいまのロック(ミュージック)のようなものだ、と言い放ったビートたけしの発言に感心し、またそれは、赤瀬川原平の『千利休 ー 無言の前衛 』岩波新書 に、白洲正子が認めたものと同質のものであった。
「おそらく仮面の芸術の秘密はそこにあるのです」
行住座臥慣れ親しんでいる仮面を仮面で覆えば、素面であり、自ずから視線は内に向かう。「裸か」の自分を、無防備のままに人前にさらすことになる。「仮面の芸術」とはごまかしのきかない、「ストリップ能」と同等のものであるといえよう。
なお、吉越立雄については、「吉越立雄(たつお)能の写真」のタイトルの下に、白洲正子『夢幻抄』世界文化社 に書かれていますので、後述することにいたします。